おん・おん

安良巻祐介

 

 部屋の隅に置いたコップの中の水がいつまでもぐるぐると渦を巻いてやまない夜、家の近くのコンビニに向かって、草履をジタジタ踏みながら歩いていると、「おん」と重々しい声だ。見れば、しかめ面をした犬のようなものが、垣の切れ間から飛び出して、こちらを睨んでいる。犬のようなもの。そう、それは犬ではない。四足ではあるが、板切れみたいな顔の上に目鼻口が出鱈目に配された、福笑いの面をした奇妙な獣である。「おん、おん、おん」その声も、いわゆる犬の吠え声ではなく、「隠(おぬ)」――秘された物事と事象を呪わしく告発する陰気の歌だと知っている。このようなものとの遭遇も、いい加減慣れてしまった。十年前に引っ越して来てからこちら、ずっとこういう、日常の隙間から顔を出す日常的でないものたちに脅かされてきたのだ。それは家で乾燥麺を茹でているときに小鍋の水面からゆらゆらと陰火のかたちで湧いてくることもあれば、朝起きて布団から這い出した時、畳の下から膨らんでくる女の顔といった像を取ることもある。言ってみれば四六時中、何かしらの奇妙なものが周りに出てきているわけで、しかし、自分としては、未だにそれらの口々に喋り訴えかける内容を正しく理解できていない。十年かけてようやく、音として聞こえるそれらを漢字の一文字で書き表せるようになったきりである。そして、そこから先へ進めないものだから、結局こちらと奴らの交渉は、棚の上でかけっぱなしにしているラジオを聴くのと似たり寄ったりな段階に留まっている。「おん」「おん」垣の陰から顔を出し、福笑い犬が囁き続けるけれど、せいぜい「ふーん」と言うだけだ。そいつをやり過ごしてコンビニへたどり着き、店内を泳ぐ透明鱗の光蛇に目をやって、オニギリを幾つか購入すると、ジタジタと自分の草履の音を聞きながら、帰途に就いた。部屋の隅で、コップの中の水がまだぐるぐるぐると回っているのがわかる。その中に塩を入れておいたかどうか、溶けかけた月を見上げつつ、ぼんやりゆっくりと考えていた。

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おん・おん 安良巻祐介 @aramaki88

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