第六章『意地を張る人』

(1)

 本当に、抜け出そうと思えばいつでも抜け出せる自信がディアナにはあった。

 それを今の今までしなかったのは、かなり癪に障るが居心地がいいと思ってしまったせいだった。

 初めは単純に状況を判断し、情報を収集しておこうと思っていた。だが、蓋を開けてみれば馬鹿なんじゃないかと思えるほど、『虹の羽根』の人間達は良くしてくれていた。

 あれこれ何かしら聞いて来ることもない。犯罪者だと分かっていながら偏見の眼を向けて来ることもない。本当にただの人として自分達を見て来ていた。当たり前のように気遣い、当たり前のように手伝わせる。もう何年も一緒に生活して来た間柄だとでも言うように、極自然に特別扱いの一つもなかった。

 拍子抜けたと言っても過言ではない。そこへ来てイオラインだ。あの顔が、あの声が、タザルと全て生き写しのあの存在が調子を狂わせた。

 口調や着ている物が違うぐらいで、恐ろしいほどタザルと似た行動をとる男だった。

 自分達の世話は専らシャルレイシカがしていたが、イオラインはそれを離れて見ていた。それこそ見守っていた。気が付くと傍にいて、些細なことを褒めていた。

 誰かが仕事の依頼をしに来れば、的確に指示を出す。何か大変なことが起きているのかとソリスが訊ねれば、何でもないよと笑ってみせる。

 何もかもがタザルを彷彿させるイオライン。頭では別人だと解っているが、どうしても割り切れないものがあった。本当に、この人を信じてもいいのだろうか? いや、信じてしまいたい! と言う葛藤がディアナにはあった。

 だが、ここでイオラインを信じてしまったら、タザルは一体どうなるのか? 残された仲間はどんな扱いを受けるのか? 果たして自分達だけ安全な場所にいて許されるのか?

 戸惑いながらも嬉しそうなソリスを見ていて、ディアナは考えていた。

 傍から見ていてもソリスがイオラインやシャルレイシカの事を慕っているのは見て取れた。ずっとこのまま一緒に暮らせていたら、きっとソリスにとって幸せなことだろうと思ってもいた。

 ここにいればきっと人を殺す必要もないだろう。略奪する必要もないだろう。痛い目を見なくても済むだろうし、明日を気にしなくても生きていける。大切にされて普通に生きていけるだろう。

 だから今朝、ソリスが覚悟を決めたようにここの人間達の事を『良い人達』と言ったとき、やっぱりと思った。

 そして、仲間とは違う感じがすると続けたとき、ディアナはそれを言い表す単語をすぐに思い浮かべることが出来た。ソリスがあえて口にしなかった言葉。それは、『家族』。

 元々ソリスとは違い、ディアナには家族がいた。父がいて、母がいた。祖母がいて、祖父がいて、兄と姉がいた。弟が一人いた。親戚もいた。家族がどういうものなのか知っていた。だからこそ、この建物に漂う空気が、自分達に接して来るシャルレイシカやグィンの態度が、『仲間』ではなく『家族』に近いものだとすぐに判った。

 本当の姉妹のようにあれこれ教えてくれるシャルレイシカ。それを離れて見守るイオライン。かつての父のように家庭菜園に汗を流すグィンを見たとき、ディアナは父の姿を重ねて見た。気が付くと当たり前のようにグィンの傍に立っていた。

 グィンは「どうした?」と少しだけ口元に笑みを浮かべて訊ねて来た。

 咄嗟にディアナは何も答えられず、ただ首だけを振った。振ったところで何の答えにもなっていないということは分かったが、「そうか」と言われて作業に戻られてしまっては何も言い直せなかった。

 大きな背中だと思った。外見は実の父親と似ても似つかない。歳は三〇代。肌は褐色。髪は灰色。眼は柔らかい緑色。鍛え抜かれた大きな体。顔立ちは違うが、纏っている温和な雰囲気だけは似ていたかもしれない。

 毎日土をいじっては、野菜の世話をこまめにしていた。

『植物は手を掛けるほど応えてくれるもの。だから毎日愛情を込めなくてはならない。そうすればお前達のように良い子になるんだ』

 そんなことを言っていた父親。別にグィン自身が同じ事を言ったわけではない。だが、物言わぬその背中が、そのときの父親の背中と似ていた。だから、傍を離れることも出来ず、ただ黙って見下ろしていた。すると不意に、グィンが話しかけて来た。

「家庭菜園に……興味があるのか?」

 少しぎこちない喋り方だった。

「……そういう……、わけじゃ、ない」

「そうか」

 何故か答えるディアナまでぎこちないものになったが、特別落胆することなくグィンは呟いた。

 暫しまた沈黙が流れて、おもむろにグィンは植えている野菜の事を話し出した。

 どうすればいいのか判らず、ディアナはぎこちなく相槌を打った。

 無性に懐かしい気持ちになった。ずっとここにいればゴウラのことなど忘れてしまえると思った。だからこそ、ディアナは心を引き締めた。

 自分だけが幸せになるわけには行かない。だが、それにソリスを巻き込んではいけない。

 だからディアナは心を鬼にして、今朝拒絶の言葉を口にした。

 ソリスが傷つき、泣きそうな顔をしていた。その顔が頭から離れなかった。

 だが、そうしなければならなかった。

 何も知らないソリス。何も持っていなかったソリス。ようやく手に入れたタザルと言う存在。『銀の鬣』と言う『仲間』。それらを全て奪われた、可哀想なソリス。

 ディアナはずっとソリスを守ってやらなければならないと思っていた。

 かつてディアナは、自分の『アビレンス』の力のせいで家族が皆殺しにされた。それを見せられた絶望はディアナの心を壊した。それを修復したのはソリスだった。

 初めて出会ったのは牢の中。汚らしい子供だと思った。冷えた粗末な牢の食事を、嬉しそうに食べている姿が信じられなかった。何日かに一回の入浴。石鹸の匂いがすると言って喜んでいた。雨風も凌げて、食事も出て来て、たまに綺麗にしてもらえる。牢って凄いところだね。

 そうやって喜んでいる姿を見て、馬鹿なんじゃないかと思った。余りに物事を知らない様に嫌気が差していた。そのうち、人買いがやって来た。一目でそれと判ったのに、ソリスは嬉しそうに付いて行った。辿り着いた先が娼館だともしらず、そこがどういうところかも知らず、綺麗にされて、牢より上等な食事を与えられて、心の底から幸せそうに笑っているソリスを見て、次第にディアナは助けてあげなければならない子だと思うようになっていた。

 何故そんな風に考えるようになったかは解らない。それは今でも謎だが、少なくともソリスの夢を打ち砕くようなことはしたくないと思った。そんな矢先、タザルと出会った。胡散臭さ全開で、絶対に信じられないと思った。他人なんて信じるに値しない。そもそも、ディアナが『アビレンス』であることを密告し、あらぬ話を『審判者』に告げ口をしたのは、父親の親友だったのだ。表面上はいい話ばかりして、その実、父親の全てを逆恨みしていた男のことは忘れられない。

 だからディアナは上手い話を笑みを浮かべて告げて来るタザルの言葉を信じなかった。

 だが、ソリスは信じた。仕方なくディアナも続いた。自分がソリスを守るだけ強くないことをディアナは知っていたから。言葉通り利用してやろうと思っていた。

 だが、ディアナもタザルと共に過ごしているうちに、タザルを信じるに足る人間だと認識するようになった。きっとこの人は裏切らない。そう思っていた。だから、ゴウラがクーデターを起こしたとき、ディアナは危険を承知で力を揮い、タザルを助けようとした。

 だがそれは、タザル自身に止められた。本当であれば無視をしてでも助けるべきだったのだが、何故かそのとき、命令に逆らうことが出来なかった。

 その代わり、何があってもソリスだけは守り続けようと誓った。ゴウラの配下に取り押さえられた姿で、力強い笑みを浮かべるタザルに誓った。きっともう、二度と会うことはないのだとディアナは悟っていた。それをソリスに伝えなかったのは、ソリスの傷つく様を見たくなかったから。自分のように壊れてしまう姿を見たくなかったから。

 だからこそディアナは黙っていた。ゴウラからの最後の仕事を引き受けるまで。あっさりと努力を踏み躙られる瞬間まで。

 案の定ソリスは取り乱した。タザルとの最後の約束まで守ることが出来なかった。自分は何て無力な人間なのかと自分を責めた。責めた後は考えた。どうすればソリスを無事に生きながらえさせることが出来るのか。どうすれば無事に『銀の鬣』に戻りゴウラに復讐出来るのか。本当であればタザルに相談するべき事柄。だとしても、傍にはもうタザルはいない。自分がソリスを守らなければいけない。

 表面には出していなかったが、ディアナ自身相当取り乱してはいた。

 だから、すぐ傍にイオラインが来ていることに気が付かなかった。

 ソリスは驚いていた。同時に、ディアナも驚いていた。タザルだと思った。夢かと思った。ただ、反射的に逃げ出していた。

 ソリスはしきりに『虹の羽根のイオライン』を頼ろうと口にした。ディアナだって、出来ることならそうしたいと思っていた。実際、かつてタザルが話していた。

 自分に何かあったら『虹の羽根のイオライン』に頼れと。きっと会えば驚くぞ。

 まるでいたずらっ子のような笑みだったのを覚えている。それが、自分と瓜二つの人間だったと言う意味だと、イオラインに出逢って初めて知った。

 だが、いくら同じ顔だからと言って、その男が本物のイオラインかどうか判断が付かなかった。ゴウラの手先がイオラインの名前を騙って、顔を変えて待ち伏せていたかもしれない。その可能性だってなかったわけではない。だからディアナはすぐに頼ろうとはしなかった。

 結果的にはレイデットに助けられ、こうして再び顔を合わすに至ったのだが、共に暮らして三日目でディアナにも解った。解ってしまった。イオラインはタザルと一緒だと。信じてもいい人間だと。ソリスを託しても問題のない人間なのだと。そして、ゴウラとだけは会わせたくない人間だと。

 このままここにいてもいずれはバレる時が来る。そのとき、自分達の所為で『虹の羽根』のメンバーを危険に巻き込みたくなかった。

 さっさと出て行くべきだった。それが出来なかったのは、ソリスが嬉しそうだったから。自分自身、懐かしい『家族』と言う空気に浸っていたかったから。

 だが、ディアナは決めた。きっぱりとソリスに嫌われ、間違っても自分を捜すことなどないように仕向け、単身決着を付けに行くと。

 ソリスもイオラインも、『虹の羽根』の人間達も誰も巻き込まないために。

 だからディアナは『虹の架け橋』を抜け出した。実際誰にも見付からなかった。

 空は今にも泣き出しそうな曇天だった。巡礼者のローブを目深に被り、仲間と話をつけ、ゴウラに対して反乱を起こす。もう我慢の限界だった。きっと皆立ち上がる。そう信じてディアナは町へ向かっていた。きっとイオライン達がソリスを守ってくれると祈りつつ。

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