(3)
フードを目深に被って足早に町の中を歩く。
馬車が行き交う均された地面。人が歩くために作られた石畳の道。
天気は晴れ。陽光は暖かく、町中に呼び込みの声や値切りの声が響き渡る。
焼きたてのパンやお菓子の甘い匂い。瑞々しい果物たち。露天に並べられたアクセサリーや宝石たちは輝き、色とりどりの反物や服が並ぶ。色鮮やかな花々が売られ、人々の顔には笑顔があった。
活気のある町。陽の当たる町。子供も大人も男も女も。楽しそうな表情を浮かべて行き交っている。誰も彼もが幸せそうな顔をしている。笑顔が溢れている。
音楽を奏でる人がいる。曲芸を見せる人がいる。風船を配る人、手品をして楽しませる人、物語を演じる人。情報屋が大声で内容を説明し、続きを気にする人に情報を売り渡す。
どれもこれも普段なら目移りしそうなものばかり。だが、ソリスは知っている。こんな華やかな明るい世界の片隅に、取り残された闇があることを。
店と店の間の路地裏。建物のお陰で光さえ差さないあの場所。誰も通りを気にしない。闇の向こうを見ようとしない。そこは現実から切り離された場所。封印された場所。それを見ないようにしているから、人々は笑っていられる。知らないから、自分の身に起きるわけがないことだと思っているから無視していられるその空間。
細く狭く暗い空間。だが、それは確実に存在している。ゾッとする冷気を送って来る。
封印したはずの過去の記憶が蘇りそうになるのを、ソリスは目の前のディアナの背中に集中することで押さえて足を進めていた。
紺色の生地に、縁をなぞるように施された白い糸の刺繍。それは巡礼者の纏うローブ。
そのローブを着てフードを被っているときは、商人達は話しかけたり呼び止めたりしては行けないことになっている。着ていても、フードを被っていなければ声をかけて商品を勧めても良いそうなのだが、何故そうなっているのかソリスは理由を知らない。
ただ、知らなくとも、そういうものだと言うことは知っている。お陰で二人は誰かに呼び止められることなく足を進めることが出来た。
「ここよ……」
そう言ってディアナが足を止めたのは、レンガ造りの自宅=店と言う形を取っている建物が立ち並ぶ一角だった。一階が店。二階、もしくは三階が自宅として使われていることが多い建物たちが並ぶその場所は、やはりそれなりに人通りも多く賑やかだった。
「ここなの?」
思わず訊ね返す。隠れアジトの割には随分と堂々と建っている。その上、食欲をそそる焼きたてのパンの香りが漂って来るのだ。見ている傍で、何度も店のドアが開閉している。ここのパンの何々が美味しいだの、新商品は何かな。など、満面の笑みで訪れる客が多い。出て来る客の顔も、幸せそうな満足そうな顔が多い。
それを見ているだけで評判の良い店なのだと察することは出来るが、少なくとも隠れアジトなどと言う胡散臭い雰囲気は微塵もない。
「大丈夫なの?」
「…………そのはず」
若干いつもより間を空けて答えが返って来る。
本当に大丈夫なのだろうかと、思わず心配になったそのとき、
「いつもありがとうございました」
恰幅の良い四十代の男が、ドアを開けて女性客を見送った。
まだ少し肌寒いような気がしなくもない時期に、既に半袖を着、白いエプロンをしている柔和な顔立ちの男だった。
「もし、少しいい?」
「ん? おや、これは小さな巡礼者さん」
突然ディアナが男に話し掛ける。話し掛けられた方は、こちらが巡礼者の格好をしていた為、一瞬戸惑いを顔に浮かべた。
「フードを被っているときは話し掛けてはいけないよ。願い事が叶わなくなるからね」
ああ、そういう意味なんだ。と、違うことで感心しているソリスの目の前で、ディアナは無造作にフードを取った。
「ねぇ、おじさん。ライオンの鬣(たてがみ)って何色だか知っている?」
「たてがみ?」
余りと言えば余りに唐突な問い掛けに、パン屋の店主は戸惑い気味に繰り返す。
その反応を見て、ディアナが困惑するのがソリスには判った。
少しだけ眉間に皺を寄せて小首を傾げる。
「んー、ライオンの鬣は黄土色か金色じゃないかな?」
「他にはない?」
「他にはないんじゃないか? 何だ、お嬢さん。お嬢さんはライオン見たことがないのかい? まぁ、あれは図書館に行かなければもうお目に掛からない生き物だからねぇ。
良く紋章なんぞに使われているが、それはそれは強い動物だったそうだ。皆それにあやかりたいんだろうなぁ。実物は見られないが、確か本にはそうやって書いていたと思うぞ」
と、懇切丁寧に聞いてもいないことを説明してくれる。
だが、問題はそんなことではなかった。
合言葉が通じない?!
ソリスとディアナは互いに顔を見合わせて戸惑った。
正解を口にしないまでも、中に入れてくれると思ったのだが、それすらない。
もしかして、本当に間違えたのか? それとも、自分達が『銀の鬣』の人間だと知らなくて誤魔化そうとしているのか?
その疑問はディアナも考えたらしく、『おじさん』と呼びかけると、ローブの間からチラリと『銀の鬣』の印を見せた。
「そ、それは……」
途端に顔色を変えるパン屋の店主。だとしてもそれは、ソリスとディアナが望むような反応ではなかった。顔色は蒼褪め、身を反らしている。露骨な動揺。焦り。顔が強張り、震え出しそうな勢いだった。
何かがおかしい。危ないかもしれないと思っていると、更なる追い討ちがやって来た。
「おい。この容姿の娘達を見なかったか」
『!!』
その男の出現は、ソリスとディアナ。パン屋の店主三人を同時に脅かした。
黒のマントに銀色の天秤の刺繍。
それを羽織るものは『審判者』。その場で罪人を裁き、死刑にさえ出来る特権を持った者。
そして、その『審判者』が手にしている紙に描かれているのは、紛れもなくソリスとディアナの似顔絵。それもかなり特徴を押さえたものだった。
息が止まった。心臓が凍りついたかと思った。背筋に悪寒が走った。
「どうした?」
と『審判者』がパン屋の主人に尋ねれば、パン屋の主人は、口をあわあわさせて、ぎこちなくソリスとディアナを見て来た。その不審な行動に『審判者』がこちらを向く―と分かった瞬間、
「行くよ……」
ディアナはソリスの手を掴んで走り出していた。
後ろで、パン屋の主人が「あいつらです!」と二人の正体を『審判者』達に知らせているのが聴こえた。『追うぞ』と言う声が聞こえて、追って来る気配がした。
こうなってしまえば形振りなど構っていられなかった。ローブを翻して疾走する。
和やかに歩いている男女の間を引き裂き、店先で談話している男を突き飛ばす。
罵倒や悲鳴を聞き流し、人混みに紛れるようにひたすら走る。
「そいつらを捕まえろ!」
背後で上がる怒声は『審判者』の物なのか、何かしらの被害を受けた通行人の物なのか分からない。分かっていることはただ一つ。捕まったら最期ということ。
それ故に、二人は走った。慌てふためく通行人の間を駆け抜け、自分達を捕まえようと立ちはだかる一般人を蹴り飛ばし、飛び越えて、何度も何度も路地を曲がり、自分達がどこをどう走っているのかすら分からなくなるほどひたすら走り、何度目かの路地裏を曲がったとき、二人は愕然とした。
曲がった先が行き止まりだった。登ることなど不可能なほど高いレンガの壁が三方を囲み、背後からは追っ手の足音が近付いて来る。
「ど、どうしよう」
肩で荒い息を吐きながら、泣きそうな気分で問い掛けるソリス。
対してディアナは、辛そうにも、苛立っているようにも見える表情を浮かべながら考えを巡らせた。何人の『審判者』が追って来ているか分からない以上、戦力差がどれだけあるのか。勝算はどれほどか。勝っても力尽きて倒れたら意味がない。何とかしてここを登るか? と、無謀なことを考えたときだった。
「こっちにおいで、お嬢ちゃんたち!」
まさに不意打ち。突然横から伸びて来た手に捕まえられて、二人は壁の奥へと引き込まれた。
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