(2)

 何? 何だったの? 何であの人、タザルと同じ顔していたの?

 公園の遊歩道を駆け抜け、二つの町を隔てる川に掛かる橋の下で、ソリスは膝を抱えて震えていた。別に寒かったわけではない。だが、震えが止まらなかった。もしかしたら実際には寒かったのかもしれない。橋の真下の人目に付かない場所には温かい春の日差しも届いていない。切り取られた陰のような暗がりに隠れているのだから、寒いと思うことは当然なのだろうが、このときのソリスは少なくとも体感的な寒さなど感じてはいなかった。

 世の中には自分と同じ顔が三人いるとは良く言うが、実際にそんなものを眼にしたのは初めてだった。それも、よりによってタザルと同じ顔。

 勿論、頭の中では別人だと言うことは解っている。だが、それでも、このタイミングはないと思っていた。もうこの世にはいないと言われた人間が、その日の内に目の前に現れた。それがどういう意味なのかソリスには解らない。

 その一方で、意味なんて何もないのかもしれないとも思う。少なくとも、ディアナに話せばそういう風に言い切られる可能性が高いということはわかっていた。

 だとしても、気になってしょうがなかった。

 タザルは本当に死んでしまったのだろうか?

 もしかしたら、あの男はタザルが変装した男だったのではないだろうか?

 だって、タザルとはずっと会っていない。会わせてもらえていない。

 タザルは強い。きっと、ゴウラの眼を盗んで脱出したのかもしれない。

 でも、ゴウラはそのことを口には出来ない。そんなことをしたら、形勢が一気に引っ繰り返るから。今度は逆にゴウラが囚われの身になる。ううん。それだけでは済まないかもしれない。だからこそ、ゴウラはタザルを捕まえ続けているフリをするしかなかったんだ。

 でも、だったら何故、タザルはすぐに会いに来てくれなかったのだろうか?

 会いに来られない理由でもあったのだろうか?

 きっとそうだ。そうに違いない。そうじゃなきゃ、おかしい。

 いや、おかしいのは自分の考えの方じゃないのだろうか?

 ソリスは震える体を抱き締めながら取りとめも無く考え続けた。

 どうしてタザルが自分達のところへ戻って来ると思うのだろう。

 だって、タザルが約束したもの。

 自分で問い掛け、自分で答える。

 あたし達のこと守るって、約束したもの。それなのに、長い間離れていたんだから、心配して様子を見に来るのは当たり前じゃない。

《何故?》と、頭の中でタザルの声がした。

 その声にビクリと体を震わせる。背筋を這うような悪寒を覚える。

《何故俺がお前達を心配するんだ?》

 だって、タザルがそうやって約束したから……。

 泣きそうになりながらソリスは答える。

《ああそうだ。だからずっと俺はお前達を守って来た。それなのに、お前達はどうだ。お前達は俺のために何をした?》

 な、何って……。

《せっかく力があるのに、何故使わなかった? 何故使って助けなかった?》

 きらきらと輝く川。だが、目の前の川は橋が光を遮って薄闇に染まり、輝くことはない。

 その代わり、光を失った緑色の眼を持つタザルが冷めた顔をしてしゃがみ込み、ソリスを真正面から責めていた。

 だ、だって、『アビレンス』の力は使っちゃいけないって、タザルが……。

 そうだ。あのときタザルは『駄目だ』とはっきり口にしていたのだ。だから、ソリスとディアナは力を使わなかった。だが、

《本当に俺がそんなこと言ったのか? 見殺しにした自分達を責めないように捏造したんじゃないのか?》

 ち、ちが……。

《本当に、そうか?》

 静かな声音。しかし、はっきりとした憎悪が籠もっている声音。

 今までタザルから向けられたことのない拒絶の壁。

 心臓が早鐘と化していた。震えが止まらない。涙が溢れる。

 本当に、タザルは力を使うなと言ったのか? もしかしたら、その力で助けてもらうことを望んでいたのではないか? 力を使うことで自分達は危険に晒されたかもしれない。

 でも、その代わりにタザルを助け出せたかもしれない。

《お前達は、自分と俺を天秤に掛けて、自分達を選んだんだ》

 心臓が握り締められるような苦しさに、ソリスは己の胸を強く掴んだ。

《そんな我が身可愛さで自分達を守った人間を、どうして俺が危険も顧みず守らなけりゃならない。冗談じゃない》

「!」

 それは、当然のことだった。言われて当然のことだった。だが、違うと思いたかった。タザルの口からだけはそんな言葉を言われたくはなかった。

 守ってくれると約束してくれた人の口からは出て来て欲しくはない言葉だった。

 拒絶の言葉。全身を刺し貫く絶望の言葉。

 頭の中を共に過ごした日々が蘇る。ずっとずっと年上なのに、子供のように笑うこともあるタザル。皆にいじられて不貞腐れた顔をするタザル。そうかと思えば眼光鋭く的確な指示を出すタザル。不安になっていれば笑顔をくれた。大丈夫だから安心してと言葉をくれた。『家』を知らない自分達に居場所をくれた。安心して暮らせる『タザル』と言う名の『家』。それが、全身全霊をかけて、今、自分を拒絶した。


―どっかに行って! 汚らわしい!


 名前も顔も分からない。かつて自分のことを蹴り飛ばして拒絶した女の人の声が強烈に蘇る。

 謝れば許してもらえる。何か悪いことをして、謝らなかったから『家』を追い出されて、あんな場所にいた。光も差さない寒い路地裏に。だから、謝って許してもらえれば、また『家』で暮らせると思っていた。だから、謝ろうとしてドアを叩いた。だが、返って来たのは拒絶だった。

 そのときの憎悪と嫌悪の籠もった眼差しだけは強烈に覚えている。

 蹴り飛ばされた後の浮遊感。そして衝撃。階段に背中を打ちつけ、転がる。

 何がどうなったか解らなかった。ただ、怖かった。ただただ怖かった。

 ソリスはボロボロのタオルケットを掴んだまま、路地裏に逃げ帰って震えていた。

「ご、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」

 ソリスは両手で顔を覆って謝った。壊れたように謝り続けた。

 目の前にタザルの幻影はもういない。いや、初めからそんなものはどこにもない。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」

 かつてずっと昔に、自分を蹴り落とした名前も知らない女に謝る。

 誰に向かって、何のことに対して謝っているのか、ソリスにもわからない。

 ただただ、ソリスは謝罪の言葉を口にし続けた。

 自分が悪い。自分が悪いから追い出された。ちゃんと謝らないから相手を怒らせた。

 ちゃんと謝れば……、ちゃんと謝れば許してもらえる。また『家』で一緒に暮らせる。

 外と内を隔てる壁はなくなる。外から内へ入ることが出来れば……、それを許してもらえれば、自分はもう独りになることはない。

 人は悪い事をしたら謝らなければならない。ちゃんと謝らなければ許してもらえない。心の底から何度も何度も謝り続ければ、人はちゃんと許してくれる。

 だから、一度や二度謝ったぐらいで満足してはいけない。不満を抱いてはいけない。謝らなければならないようなことをしたのは自分なのだから、何度でも許してくれるまで謝らなければならない。

「でも」……と、ソリスは思い出す。

 あたしは一体、何をしたのだろう?

 いくら思い出そうとしても解らない問いだった。

 何故自分が路地裏にいたのか思い出せない。

 何故タザルに責められたのか解らない。いや、解る。自分が何もしなかったからだ。

 だが、確かにその瞬間は力を使わなかったとしても、その後タザルを救うために様々なことをした。何度力を使ってゴウラを攻めようとしたか分からない。

 だとしても、そんなことをして万が一タザルに危険が及んだら、本末転倒。だからソリスは我慢した。我慢して、嫌な仕事も頑張って来た。

 でも、それはタザルの望んだことではない。自己満足。自己弁護。

 何をどうしたところで、あのときタザルを見捨てたのは自分だ。傷ついても、この命が果てるとしても、本当は助けなければならなかったのだ。

 元々タザルに救われた命だった。タザルのためなら惜しげもなく捨てるべきだった。

 そうしなかったから、タザルは怒っているのだ。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」

 どうか、許して下さい!

 大粒の涙をこぼし、両手で顔を覆って、膝に埋め、謝罪する。

「ソリス!」

「!」刹那、ディアナの声がソリスの耳を打った。そして、ぬくもりを感じた。

「……ディアナ」

 ディアナがソリスを抱き締めてくれていた。その力一杯抱き締めて来るディアナを見た途端。ソリスは悪夢から覚めたような気がした。

「……ソリス、大丈夫?」

 ディアナが少しだけ心配そうな顔をして、少しだけ心配そうな口調で問い掛けて来る。

 傍から見れば、傍で聞いていれば、普段とどこが違うのかと言われそうなほどのささやかな変化。それでも、その綺麗な眼は雄弁に心配していることを物語っていた。

「ディアナ……」

 もう一人のあたしの『家』。

 ずっとずっと一緒だったディアナを抱き締め返す。

 まだ大丈夫。自分はまだ独りじゃない。

 あれは夢。悪い夢。あんなタザルはタザルじゃない。

 自分自身に一生懸命言い聞かせる。ディアナに心配を掛けないように言い聞かせる。

 だから笑う。切り替える。

「うん。大丈夫だよ。ちょっと心細くなってただけだから。ディアナが戻って来てくれたから大丈夫」

「……本当?」

「うん」とは言うものの、ディアナにはすぐに嘘だとバレるんだろうなぁ……と思う。

 それでも、ディアナは知らない振りをしてくれるだろうと思っていると、実際ディアナはそれ以上追究することはなかった。

「……なら、いい。これ、着る物。お腹が空いているなら、これ、食べる」

 そう言って、ディアナはどこから調達して来たものか、麻袋の中から顔まで隠せる大きなフードのついた巡礼者のローブと、パンと林檎を取り出した。

「ありがとう」

 ソリスはディアナから受け取ると、早速ローブを着込んだ。良く見ればディアナも既にローブを着込んでいた。お陰でボロボロの格好は見事に隠れた。

「これ、どこからもって来たの?」

 パンを頬張りながら訊ねれば、『神様』と言う単純明快な一言が返って来る。

 つまり、盗んで来たのだと解釈する。だとしても、明日の食事も食うや食わずの人間からは盗みを働かないディアナだ。盗んで来たと言うことは、それなりにお金のある『家』からなのだから、罪悪感を持つ必要もない。後ろめたさの欠片もないままに聞き流す。

「で、これからどうするの?」

 硬すぎず柔らかくもないクルミの入っていたパンを食べ終え、林檎にかじりつきながら問い掛けると、

「隠れアジトに行く……」

 即答して来た。おそらく、ローブを調達して帰って来る間に考えていたのだろうが、ソリスは一つ気になっていたことを口にしてみた。

「んー、それも一つの手だと思うんだけど、あのタザルに似た男の人……」

「忘れなさい」

 言い切る前に、言い切られた。それも、ソリスの事を見ることなく、チマチマと林檎を齧りながらの即答だった。

「あ、いや、でも、あの人、確か虹色の羽根のペンダント、していたよ」

 そうなのだ。初めこそタザルと瓜二つの顔に動揺してしまって気が付かなかったが、あの男は確かに虹色の羽根のペンダントをしていた。それが意味するのは『虹の羽根』と呼ばれる自警団のこと。そして、

「ほら、タザルが昔言ってたよ。外に出て何か困ったことがあれば、数ある自警団の中でも『虹の羽根』に行けって……」

「そうね……」

「でしょ? だからね、だから……」

 だから……の後が続かなかった。

 自分でも判っていた。行ったところでどうなると言うのか。タザルに似たあの男と会って、どうすると言うのか。問い掛けるつもりなのか? 問い掛けて本当にタザルだったらどうするのか? 否定されたら、拒絶されたらどうするのか? 瞬時にして巡った問い掛けに答えられず、ソリスは中途半端な笑みを顔に貼り付けて固まった。

 橋の下に、シャク、シャクと、ディアナが林檎を齧る音だけが響いた。

 少なくとも三口齧る間、ソリスは何も続けられなかった。

 その代わりだろうか? ディアナが林檎を飲み込んで口を開いた。

「……その羽根が本物だとは限らない」

「でも、ディアナは気にならないの? 見たでしょ?」

「……見たわ。でも、気にしてどうするの?」

「どう……って」

「どれだけタザルに似ていても、それはタザルじゃない。タザルと同じ顔だからと言ってタザルと同じだとは限らない。知らない人間は信用してはいけない。そう教えたのはタザル……」

「でも、その上で利用しろって、タザル言ってたよ!」

 無理矢理感情を押し殺したような平坦な声音のディアナに、真正面から向き直ってソリスは反論した。

「あの人がタザルかタザルじゃないかそれは判らない。でも、上手く利用すれば『銀の鬣』のことも分かるかもしれないじゃない!」

「……逆に、そのまま引き渡されるかもしれない」

「!」

「……確かに、虹の羽根のペンダントは『虹の羽根』の印。でも、偽造するのは簡単。本物かどうかまで判らない。信じたフリをしてついて行くことは簡単。でも、無事に逃げ出せるかは判らない。人数も力も判らない。もう、私達を守ってくれる人はいないのだから、無謀なことは出来ない」

「!」

 最後の一言は真っ直ぐにソリスの胸を貫いた。幻視の刃は確実にソリスを傷つける。

「……確かに情報は欲しい。少しでも早く『銀の鬣』に帰ってゴウラを殺してやりたい。

 でも、その前にソリスに何かがあっても嫌」

「え?」

「……大切な人を失いたくはない。だから、危険が伴うことは避けるべき」

「え、えっと、ちょ、ちょっと待って、今ディアナ何て言った?」

「……何?」

「今、あたしのこと大切な人って……」

 ディアナが自分のことをそう思っていたなんて、改めて口に出されて言われたなら、ソリスの傷ついた心が、癒されるように温かくなって行った。が、ディアナは冷めた目線をソリスに向けて容赦なく、言う。

「そんなこと、言ってない」

「え?」ニヤついて来た顔が凍りつく。

「……そんな幻聴を聞くぐらいなら、人の話をちゃんと聞くこと。

 あのタザルに似た男のことは忘れること。『虹の羽根』には行かない。これから行くのはこの町の中にある隠れアジト。そこはタザルとタザルの親友だけが知っている場所だから、情報を仕入れるには一番効率的。判った?」

「え、だって、今……」

「判った?」と、幾分強い口調で来られたなら、

「はい、判りました」

 ソリスは素直に頷くことしかできなかった。

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