第三章『戸惑う人』

(1)

「大丈夫かい?」

 そう訊ねて来る男の顔を見て、ソリスは眼を見開いて固まった。

 あるはずのない顔が、聴こえるはずのない声が、いるはずのないその人が、そこにいた。

「タ……ザ…ル?」呻くようにその名を呼べば、

「『クリム』!」

「!!」背後から突き刺さるような警告と共にソリスの名前が呼ばれる。

 瞬間、ソリスはしっかりと我に返った。

「ディ……『ノアール』!」

 咄嗟に偽名で返し、男から離れる。片膝立ちになり、いつでも逃げ出せる体勢を取って、改めて男を見た。

 心臓が早鐘のように打つ。明らかに自分が動揺していることをソリスは自覚していた。

 何故なら、眼の前にタザルと瓜二つの顔を持つ男がいたからだ。

 歳の頃も同じぐらい。髪の長さも同じ。顔立ちも同じ。ましてや声も同じ。違うのは、タザルが緑色の髪と瞳なのに対し、眼の前の男の髪は深い青い色の髪に、明るい青い瞳だと言うこと。タザルは動き易い服装にアクセサリーをつけていたが、眼の前の男は少し動き難そうな藍色のロングコートのような服に、虹色の羽根のペンダント一つだけ。

 派手な印象を受けるタザルとは違い、質素な服装。だが、その身から発せられるものは、タザルのものと瓜二つ。

「この男……何?」

 自分の声が震えている自覚はあった。

 眼の前の男の存在がソリスを動揺させていた。

死んだと聞かされた後に、瓜二つの顔が目の前にあれば、誰でも動揺するだろう。

別人だと思おうとしても、それを否定したくなるのは自然なことだろう。

 だが、その混乱と動揺は思考を停止させる。停止してしまえば隙が出来る。

 そして、その隙がソリスを無防備にしていたなら、

「『クリム』!」ディアナはソリスの名前を呼んだ。

 ソリスの体がビクリと震え、正気に戻ったのを確認すると、ディアナは問答無用でソリスの手を取り、走り出した。

「あ、待って……」

 男が驚いた声を上げて呼び止めて来るが、素直について来るソリスがいる以上、ディアナは振り返ることも立ち止まることもせずにその場を後にした。

 何事もなかったかのように降り注ぐ陽光。散歩中の老人達を横目に、ソリスとディアナは走った。寝過ごしたことを自覚したディアナは、心の中で舌打ちを一つした。


          ◆◇◆


「ほら、ちゃんと起きて歩いて、ダイン」

「んぁ~? 無理だべ、それ」

 左右を雑木林に挟まれた遊歩道。一応『サフラン公園』と名付けられている敷地内のその道を、呆れを含んだ掛け声と、少しイントネーションが違う寝惚けた声が通り過ぎる。

 寝惚けた声を上げたのは、歳の頃十代半ば。ダインと言う名前の少年だった。朱色の短い髪に、金色の目。本来であれば少し冷たい感じのする整った表情だが、今は睡魔に襲われ、殆ど瞼が落ちている間の抜けた表情。着ている物は明るい赤の上着を着崩し、中には白いシャツ。ズボンは藍色。膝まであるブーツに、朱鞘の一振りの剣を腰に下げ、耳には緑色のピアス。首からは虹色に染め上げられた羽根のペンダントをしていた。

 その隣を歩いているのは歳の頃は二十代の半ば。優しい表情を浮かべたシャルレイシカと呼ばれている女性だった。背中の中ほどまである空色の髪は軽くウェーブが掛かり、その肌は抜けるように白い。瞳は深みのある青い瞳。着ている物は淡い青系の何枚もの薄い布で作られたようなワンピース。ひらひらとゆらゆらとした質感のワンピースを着ているシャルレイシカは、見る者に『水の精霊』のイメージを真っ先に喚起させるような女性だった。足を覆うのは革で編まれたサンダル。耳にはピンク色のイヤリング。首にはダインと同じ虹色の羽根のペンダントをしていた。

「一日半一睡もしてねぇ状態で、ようやぐ朝に解放されだど思っだら、歩いで帰るってどういうごどよ。オラもう歩げねぇ」

 と、寝惚けたような不機嫌なようなどっちとも取れる声でダインが愚痴れば、

「ごめんな、ダイン。この公園抜ければ馬車を預けてる支所があるから。そこで一回仮眠を取ろう」

 ダインとシャルレイシカの前を行く、もう一人の青年が申し訳なさそうに謝罪した。

 歳の頃はシャルレイシカと同じぐらい。ダインよりも背が高いその青年は、深みのある青い短い髪に、眼の覚めるような鮮やかな青い眼を持った、爽やかな印象を与える顔の男だった。名前をイオライン。着ている物は紺色のロングコートのようなもの。ロングコートと言っても素材は薄手のもので、見た目ほど暑苦しくはない。その裾から見えるのは白いズボン。更に下から覗くのはこげ茶色の靴。装飾品の類は一切無く、唯一つけているのはダインとシャルレイシカと同じ虹色の羽根のペンダント。

 それは『虹の羽根』と呼ばれる、特殊な事情を持った自警団の人間であることを示す認識章のようなものだった。特に、『虹の羽根のイオライン』と言えば、それなりに知名度も高く、その名前は『ヒューマイン』地区の貴族達富裕層の間でも時折噂に上るほど。

 だが、いたって本人はマイペース。名前が知れ渡っているからと言って得意になることもなく、差別することも贔屓をすることも手を抜くこともなく、いつも眼の前のことに真剣に一生懸命に取り組む人間だった。あげくに欲の欠片の一つもなく、自惚れることも無く、『聖人のような人間』と巷では評判だが、一緒にいるものにして見れば、それほど高尚な存在ではないよ。と言うのが正直な感想だった。

 それでも、心の底からイオラインの事を悪く言う人間はいない。少なくとも悪態は吐いても後ろから刺し殺してやりたいと思う人間はいなかった。

 そういう意味では素晴らしい人間だとは思うが、睡魔に意識を乗っ取られようとしている今のダインにして見れば、殺意すら芽生えるほど憎らしかった。だが、心の底から申し訳なさそうな顔をされては、不思議とその殺意さえ霧散してしまうのだから不思議なもので、その代わりにやり場のない怒りをどこへ向けたらいいものか判らず、胸の内は苛立ちだけが募って行った。

「あー、本当にありえねぇ……」

「ごめん。本当にごめん。でもね、馬車で送ってもらうことになったら、そこの奥さんも一緒に乗り込んで来るんだよ? それでも良かった?」

 と言われると、ダインは露骨に頬を引き攣らせた。

 それはそれは本当に、心の底から口を塞いでやりたいと思うほどうるさい女だった。

 富裕層の住む『ヒューマイン』地区をぐるりと囲むように存在する『ツール』地区。

 そこに住む、ある大商人の依頼で、夜な夜なやって来る『何か』をどうにかしてくれとの依頼を請けたのが一昨日の昼頃の話。そこで手の空いている三人がわざわざ商人の屋敷に行き、事情を聞いて、その『何か』を退治したのが今日の朝方のことだった。その『何か』と言うのは、『シャドウ』と呼ばれる一般的な魔物だった。だとしても、一般人には恐怖を煽る存在として十分なもの。騎士や兵士、警備隊や『審判者』などは一応相手に出来るよう訓練は受けているが、一般人で魔物とやり合おうと思う人間はほんの一握りだろう。

 ダインは、話を聞いて楽なものだと思っていた。さっさと済まして帰ろうと思っていた。

 実際、退治すること自体は簡単なものだったが、問題はそこの女主人にあった。

ダインは、何度本気で黙らせようかと剣の柄に手を掛けたことか判らない。嫌味とかいちゃもんをつける人間も鬱陶しいが、マシンガントークで息つく暇もないほど喋り通しなのも十分に神経に障った。こっちは仕事で来ていると言うのに、聞こうが聞くまいが関係なく延々とどうでもいい事を喋り通すのだ。そんな人間とさっさと離れたいと思っていた。

 だからこそ、馬車で送ってくれるのは嬉しい申し出だと思ったのだが、あれが同乗するとなれば話は別だ。あの広い部屋でさえ鬱陶しかったのだ。馬車の狭い空間であの声と話を聞かなければならなかったかと思うとゾッとした。それが顔に出ていたのだろう。

「解ってくれて嬉しいよ。だから、もう少し我慢して。ほら、気持ちのいい風も吹いているじゃないか」

「いや、眠気にそれは関係ねぇがら」

「あ、やっぱり?」

と、子供みたいに舌を出すいい大人に、益々ダインが脱力仕掛けたときだった。

『!』三人の表情が一瞬にして鋭いものに変わった。

「今、聴こえた?」

 風に撫でられさわさわと鳴る葉の音だけが響く歩道で、三人は耳を済ませる。

「今呻き声のような声が聞こえたわ」

 シャルレイシカが囁くようにイオラインに答える。

「女……の声だったな」

 眠気が完全には取り去れていない厳しい表情で周囲を見回しダインが補足すれば、

「捜そう」イオラインの決断は早かった。

 こうなってしまえば何を言っても聞きやしない。たとえ独りでもやるのがイオライン。

 それが判っているからこそシャルレイシカは頷き、ダインも頷いた。

 周囲は見晴らしいのいい雑木林。呻き声なのだからそれほど遠くない。むしろこの近く。だとしたら、見える範囲の雑木林よりも、歩道と雑木林を隔てている低木の傍が死角になっている。

 その判断は三人共通したようで、合図することなく三人は左右に分かれた。そして、「来てくれ」と、イオラインに呼ばれて駆けつけてみれば、低木の下に寄り添うように二人の少女が倒れていた。目立った外傷はないものの、その衣服は所々切り裂かれボロボロになっていた。

「一体、何があってこんなところに……」

 口元を押さえてシャルレイシカが囁けば、赤い髪の少女が眉間に深い皺を寄せ、下唇を噛みながら呻き声をもらした。

「うなされでらのが?」

 傷らしい傷がないにも拘らず呻くときは、大抵うなされているとき。

何があったか知らないが、こんなところでそんな姿で寝ていてはうなされもするだろうと思っていると、イオラインが低木を乗り越えて、少女達に声を掛けた。直後、

「いやあああぁあ!」「!!」

 悲鳴と共に赤い髪の少女が飛び起き、同時に黒緑色の少女も目を覚ました。

「だ、大丈夫かい?」

 と、不意打ちを食らったイオラインが声を掛けると、少女達の反応はダインの予想を裏切るものだった。その反応は『驚愕』だった。明らかな動揺だった。大きく眼を見張り、イオラインの顔を食い入るように見詰めると、赤い髪の少女が呻くようにその名を呼んだ。

「タ……ザ……ル」

 そう呼びながら、頭は小さく左右に振られていた。それは否定の動き。

 自分でも勘違いをしていると判っている証拠。だが、少女は動かない。

「お、おい」

 と、ダインが声を掛けようとするが、それより早く、黒緑色の髪の少女が叫んだ。

『クリム!』

 途端にビクリと体を震わせる赤い髪の少女。その少女が振り返って『ノアール』と答えると、『ノアール』と呼ばれた黒緑色の髪の少女は、赤い髪の少女『クリム』の手を取って走り出した。その動きは無駄の一つもなかった。寝起きにも拘らず、野良猫の如く素早い身のこなしで駆け抜けて行く。

「おい!」と言うダインの声と、「待って!」と叫ぶイオラインの声も、二人の少女には届かなかった。

「……ったく、何だったんだ、あれ」

 せっかくイオラインが心配して捜したと言うのに、まるで変質者にでも遭ったかのような反応で逃げて行く二人の少女に不満が募る。

 が、それも一瞬のこと。あんな状態になる過程がどうだったか知らないが、眼が覚めたらいきなり男の顔が間近にあったら逃げたくなるものなんだろうとダインは考えを改める。それよりも、

「どうしたの、イオライン?」

 シャルレイシカが呆然としているイオラインに声を掛ける。

「何だ? 若い女に逃げられで、人並みにショックでも受げだが?」

 と、からかってみるが、イオラインの反応は今一だった。

「おい。本当にどうしたんだ? 何があったのが?」

 と、少し心配になって声を掛ければ、

「これ……彼女達が落として行った」

「って、それは『銀の鬣』のブローチ。じゃあ、あの子達、『銀の鬣』から逃げて来たというの?」

 シャルレイシカが、イオラインの手の中にある銀細工のブローチを見て、顔を蒼褪めさせた。かつては義賊を名乗っていた『銀の鬣』。しかしクーデターが起きてからはその手口は一変。ただの盗賊強盗の集団と化していた。

 それまでは『銀の鬣』と言えば一部では英雄呼ばわりされていたこともあったが、今では恐怖の代名詞に取って代わられている。

 もしも、そんな場所からやっとの思いで逃げ出して来られたのだとしたら、それは奇跡だ。そして、どれだけの心の傷を負ったのか想像も付かない。

 だからこそ、同じ女であるシャルレイシカは顔を蒼褪めさせたのだが、イオラインは違う意見を持っていた。

 もしも彼女達が『銀の鬣』の被害者ではなく、『銀の鬣』のメンバーなのだとしたら話は違ってくる。自分の顔を見て、『タザル』と思わず口走ったのだとしたら、可能性としては『銀の鬣』のメンバーである確率の方が高い。

 だが、メンバーだからと言って今の『銀の鬣』が安全な場所ではない。それを知っているからこそ、イオラインは逃げ出した少女二人のことが気になった。

 だとしても、追い駆けることが良いことなのか悪いことなのか咄嗟に判断できなかったイオラインは、ただ呆然と佇んでいることしか出来なかった。それこそ、

「悩んでても仕方ねぇべや。捜すにしろ捜さないにしろ、一回休むべ」

 と、溜め息混じりにダインに促されるまで、イオラインは悩んでいた。

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