えくぼの理由

片瀬智子

第1話

「……もう、時間ないよ。あと、十分くらい。……なんにもしなくて、いいの?」


「ああ、そうだな。……別に、もういい」


「ふ~ん」


 ホテルの一室でシャワーを浴びただけで、俺らはベッドの両端に座り黙り込んでいた。

 いや、黙っていたのは俺だけだ。うつむいたまま彼女は時々、タイムリミットをカウントダウンしてたから。


 さっき、駅のホームで俺は彼女を見かけた。

 肩下までの黒髪、ノースリーブの華奢な二の腕、デニムのミススカートから伸びる白い足。そして、気だるそうな憂いのまなざし。

 二度目が合って、そして三度目。誘ってるのか?と感じた。

 女たちは必ず、そんなことしてないという態度を取る。露出や紅い口紅はファッションだと。

 だが、そんなのは嘘だ。女のほうがいやらしい生き物だってことを俺は経験上知っている。金額を提示して長い睫毛に囲まれた瞳を覗き込んだら、ほら見ろ。そそくさとついて来たじゃないか。


「……お前、何歳いくつ? なんでこんなことするんだ?」

「は?」

「金で身体、売るみたいなこと」

「え、ちょっと待って。……この状況、あたしのせい?」

 簡単なシャワーの後ブラも付けず、白いレースのキャミソールとタップパンツの女が顔を上げる。たっぷり塗ったマスカラと紅い口紅の顔。鼻の頭に散った薄いそばかすだけが個性と幼さを表していた。

 生意気そうに口を尖らかす。


「……あんたには関係ないでしょ。お金が欲しかったから、ただそれだけ。……悪い?」

「別に。お前ら女って……ホント」

「ホント……なによ。自分が物欲しそうな顔してこっち見てたんじゃん」

「だから? だから、身体売ろうとしたんだ。マジで軽いな」

「あんたは軽くないわけ? ……金で女買ったのはそっちだよ。それとも他になんか理由わけがあるの?! あるなら、言ってみなよ」


 知らない男と二人きりなのに、こいつ何も怖くないのか。本気で口答えする彼女に、俺も思わず言ってしまう。

「ああ、むしゃくしゃしてたからな。死にたいくらいに。……女なら誰でもよかった。特にお前みたいな生意気な女ならなおいい、乱暴にしても罪悪感が少ないから」


「……最低。死ねば?」

 彼女はベッドから立ち上がり、ミニスカートに足を通した。伸ばしかけの前髪を邪魔そうに何度も片耳に掛ける。

「……どうせお前、死にたいなんて気持ち感じたことないだろ?」

 俺の言葉を捉えると、見下すようにして半開きの唇のまま顔を向けた。

「ない。……どんなことがあっても、生きてく」


「へー。強いんだな、それとも本物のバカなのか。どっちだ」

 失笑する俺にいらついたようだった。彼女は黙ったまま白いキャミソールの胸の谷間部分を、指でぐっと引き下げた。

 俺ははっとする。

 そこには下向きに流れる白い線。地図に載った長い川のような傷跡があった。彼女は言った。

「子供の頃、大きな手術をして、いろんな人に……命を救って貰ったから」


「ふーん、そっか。……それは悪かったな。そういう風に思えると、……まあ人生、幸せ、なのかもな」

 俺は気まずくなり、とりあえずそう言った。

「別に……幸せとかじゃない」

「でも、生きていく理由になってるんだろ?」

 彼女はブラウスを頭から被り始める。

「さあ。……ねぇ、動物の中で自殺を考えるのは人間だけなんだって。知ってた? きっと神様が、人間は自分で死ぬのを決めていいよって言ってるんじゃないかな」

 鏡越しに冷めた視線をこちらへ向け、次は紅い口紅を塗り直す。


「人間は自殺してもいいってことか――」

 俺はつぶやく。

「それが嫌なら、そっちこそ生きてく理由を見つければ? どうでもいいけどあんたみたいな退屈で甘えた人間、あたし……大嫌い」

 片方の靴をキョロキョロと探しながら彼女は言った。

「理由か……。例えば?」


 なぜか俺はふたりの時間をもう少し稼ぎたくなった。タイムリミットが近づいてることは分かってる。そしてその扉を出たら、もう永遠に出会わないことも。


「……例えば? 例えば、……誰かのために生きるとか。それがよくある理由なんじゃないの?」

 つまらなさそうに彼女は答える。頭を微かに傾げて。


「他に理由は?」

「ね、もう帰りたいの。いいでしょ?」

「時間が……まだ、あと二分残ってる」

 俺が君を拘束出来る唯一の時間。


「……え、もう、うざいなぁ。あとは……えっと、んー、復、讐?」

「はぁ、復讐? 何だそれ、かっこいい。すげーワイルドな理由出てきた」

 すぐさま笑いが込み上げてきた。そして、大げさに仰け反って俺は笑った。笑い転げた。こんなに笑ったのは久しぶりかもしれない。

 彼女はバッカじゃないの?というような顔で、こっちを見ている。そして、つられて少し微笑んだ。


「お金貰っちゃったから、……キスだけでもする?」

 彼女が俺のほうへゆっくりと近寄って来た。

 ふたりのタイムリミット。別れのキスという儀式。それはすでにショルダーバッグを掛けた、彼女からの提案だった。


「いや、もういいんだ。ありがとう」

 俺は言葉を続ける。

「何だか、そんなことで君を、汚したくない……」

 本心だった。俺は手を伸ばし、親指で彼女の紅い口紅を拭う。じっとしている彼女は、一気に幼さの残る表情へと変わった。黒い瞳、いや、青みがかった白い部分がものすごく綺麗で俺は自分を恥じる。


 彼女が扉を目指した。

 なぜか突然立ち止まるとショルダーバッグに手を掛け、ゆっくりと振り返った。

「……あとひとつ、生きる理由を思いついた」

 俺の目を見る。時が一瞬止まった。


「それはね、あのね。たぶん……恋、だよ」

 彼女は恥ずかしそうに、でも笑顔を浮かべ言う。

 その時、口紅の滲んだ口角の両端に、愛らしいえくぼが生まれたことを俺は初めて知った。

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