5
屋上には、緑化都市のお手本のような景観が広がっていた。地面は隅々まで芝生で埋め尽くされ、その上にレンガを敷いた道が設けられている。ちょっとした公園みたいだ。
「思ったより高いな……」
圧倒された様子で、立夏は言った。「高いの怖いか?」と深雪はからかっていたが、僕もこの高さには驚かされた。五階建ての高さじゃない。どのフロアも天井が高く、それぞれが三階分くらいはあったことを考えると、ゆうに十五階の高さはありそうだ。
その高さのせいか、あるいは木々が浄化してくれているのか、都心とは思えないほど空気がおいしかった。風も心地よいものだ。
「あれに乗ろう」と深雪が指差したのは、ゆっくり回る観覧車だった。観覧車があるというのはマップを見て知っていたものの、僕が想定していたのはゴンドラが十個程度の小さなものだった。しかし実際はそんな子供騙しなものではなく、遊園地の目玉らしい、大きな観覧車があった。グリーンシティの世界観を忘れず、支柱には植物のつるが伸びていた。
観覧車にはちょっとした行列ができていた。この高さからさらに観覧車のてっぺんまで昇ると、きっと圧巻の景色が見えるのだろう。みんな乗りたくなるわけだ。
てっきり、これが深雪の言っていた『想いを伝えるチャンス』だと思っていた。ゴンドラで二人きりにしてくれるのだろう、と。
だが、いよいよ僕たちが乗る番だという時、深雪は見事に僕の予想を裏切ってくれた。
あろうことか、彼女は僕の手を引いて、二人きりでゴンドラに乗り込んだのだ。
呆気にとられた僕を見て、深雪は腹を抱えて笑った。
「……なんで笑ってんだよ」
涙を拭いながら、彼女は言う。
「期待してたの? 葉月と二人きりになれるって? まだだよ。まだ、私から君に話さなきゃいけないことがある」
「僕には秘密を教えてくれる、ってやつか?」僕は尋ねた。
「でも、それってさっき教えてくれた、君がルミだって話じゃないのか?」
深雪は、今度は鼻で笑った。
「それは秘密じゃない。君に隠していただけだ。そのことは沖田も知ってる。ハルには教えてあげる、と言った秘密は、もうちょっと後で話すとしよう」
「君に話さなきゃいけないことがある」
もう一度、深雪は言った。
「実は——」
僕は息を飲んで、深雪の言葉を待った。
「私、葉月のファンだったんだ」
「は?」
間髪入れずに声が出た。
「小野、君、佐々井さんの小説を読んだことがあるのか?」
「さて、どこから話せばいいものか」
僕の問いに答えず、深雪は窓の外を眺めていた。どこか遠くを見ているようだった。
「そうだな、小説の出処から教えようか」
僕の目を見て、深雪は言った。不敵な笑みを浮かべながらも、その眼差しは鋭かった。
「それを見せてくれたのは四谷先生だった。学校の子が書いていて、その子にちょっと小説の書き方を教えているんだと言っていた」
「学校?」と僕は口を挟んだ。待ってましたと言わんばかりに、深雪はふっと笑った。
「気付いたか? 四谷先生は、前から君のすぐ近くにいたんだ」
そこまで言われて、気付かないはずがない。
葉月が言っていたことを思い出す。『町に恋して』を紹介してくれた時、それが四谷轍の実話に基づいたものだと教えてくれたっけ。
『町に恋して』は本屋に生まれた少女の話だった。冴えない本屋の跡を継ぐという運命に抗おうとして、少女は衝動的に家出をした。それから外の世界に惹かれていくのだが、そこは今は問題ではない。大事なのは、文庫版で追加されたエピソードだ。最終的に、本屋の跡を継いだのは主人公の兄だった。主人公の少女は、自分の選んだ道を歩み始める。
その小説を読んだのは、何年も前だった。『いずみ書店』を知ったのは、つい最近だった。だから僕は、その二つを結びつけることができなかった。
だが、そうだ。『いずみ書店』があるのは渋谷区笹塚、そして店を営む泉真澄には妹がいる。その妹は、養護教諭兼スクールカウンセラーとして、学校に勤めていた。そしてその学校で、小説の好きな少女の面倒を見ていた。
「そうか、みのりさん……」
「驚いただろ? でもって四谷轍作品を葉月に薦めたのは、みのりさんなんだからな。どういう神経してるのかね、あの人」
「じゃあ、僕の見せた名刺から連絡先を知ったってのは——」
僕が言い切る前に、深雪は「うん、違う」と答えた。
「その前から、具体的には私が中一の時から知り合いだ。無名な自費出版作家だった四谷先生が出版社に拾われた時、表紙絵の担当として選ばれたのが私だった、ってわけさ」
「話を戻そう、と言いたいところだが」
外の景色を確認し、深雪は言った。
「てっぺんまで来たな。じゃあ、観覧車を降りてからのことを説明する」
深雪はポケットから小さな紙を取り出して、僕に渡した。『グリーンシティ・シアター』という施設のチケットだった。施設名の脇に、楕円で囲われた『貸切』の文字があった。その下には十二時からと時間が印字されている。
「関係者特権ってやつだ。開演まであと十分とないから、ゴンドラを降りたら走って向かう」
「佐々井さんたちは?」
「別行動。沖田には事前にLINEで伝えてある。心配はいらないさ」
「そういう問題じゃ……」
僕の言葉を遮って、深雪は言った。
「言っただろ? 君には秘密を教えてあげる、と。だから全速力で走れ。それまでは、ゆっくり新宿を見下ろしていろ」
僕は言われた通り、窓の外を眺めながらその時を待つことにした。といっても、辺りに見えるのはビルばかりだった。ゴジラの頭がちょっぴり見えた。それ以外に面白そうなものはなさそうだったので、芝生の上のちっぽけな人たちを見下ろしていた。ふと気になって、一つ後ろのゴンドラを見ると、葉月と立夏が楽しそうに話しているのが見えた。二人とも笑顔だった。嫉妬してもいい場面なのに、僕はただ葉月が誰かと話せていることを喜ばしく思った。
腕が抜けるかと思った。走ったというより、走る深雪に腕を引っ張られたと言った方が近い。
歩く習慣こそあれ、全力で走らされることに慣れていなかった僕は、シアターに着く頃には肩で息をするほどになっていた。
「喉渇いただろ」
深雪は飲みかけの水を差し出してきた。僕が受け取るのをためらうと、深雪は「毒でも入ってると思ってるのか?」と言って、その水を目の前で二、三口飲んでみせた。
なんだか断るのが申し訳なくなって、深雪がキャップを閉める前にそのペットボトルをひったくった。「全部飲んじゃって」と深雪が言うので、その通りにした。
空のペットボトルを近くのゴミ箱に捨て、僕たちはシアターに入った。
簡単に言えば、映画館の一シアターを一回りか二回りくらい小さくしたような部屋だった。スクリーンも小さめだ。それでも、僕たち二人で貸し切るには、あまりにも大きかった。
「ようこそ、グリーンシティ・シアターへ。上映の前に、注意事項をお伝えします」
アナウンスが入った。液晶禁止、喫煙禁止とかそういうやつだ。
「誰もいないから、おしゃべりは大丈夫。私が許す」
英語のアナウンスが流れている間に、深雪が僕にささやいた。
「残念ながら、僕は映画を静かに観る主義でね」
「知ったことか。私はしゃべるからな」
ブザーが鳴った。たった二人分の拍手は、それにかき消された。
ジィジィとうるさい。蝉の声だ。空は真っ青に晴れ、緑の山の夏らしさを引き立てている。その風景は、紛れもなくルミの絵柄だった。
静止画は切り替わり、山道を歩く五人の後ろ姿を映した。声はあてられていなかったが、楽しく談笑している様子が一目で伝わってきた。その絵に生命が宿っているのか。
それとも、僕がこの映画を知ってるから、そう感じられたのか。
驚きを隠せなかった。
「安心しろ」深雪は言った。
「本営業で流すのは、この映像じゃない。私の描いた、別の風景だ。脚本家様に無許可で上演、というわけにもいかないからね。君のために、別に用意した映画だ。もちろん沖田のやつには許可を取っているとも。なにに使うかは秘密にしてあるけど」
「これを、どこで知った?」
おそるおそる、僕は尋ねた。
「文化祭」
当然のように、深雪は言う。
「素敵な映画だったよ。君の隣で観ていた。覚えてない?」
必死に記憶をたどる僕をよそに、深雪は続ける。
「並んでいる間に、葉月とシガーキスごっこなんてしちゃってさ。見せつけやがって、まったく。ああでも、困ってる神無木を助けたのは感心したな」
ザッ、ザッと草を踏む足音とともに、心がざわつく。口を開こうとした時、見透かしたように深雪は言った。
「次に君は、『どうして』と聞く。簡単な話だ。文化祭に行って、君を観察していた」
美しい絵などそっちのけで、僕は深雪に迫った。
「僕が聞きたいのはそんなことじゃない」
「わかってるわかってる。どうして君を観察していたか、だろ?」
深雪は悪びれもせず僕に微笑みかけた。
それから一度、大きな深呼吸をした。息を吐いたあと、さらにため息をついた。
「言っただろう? 私は葉月のファンだったって」
——言っていた。
「私も、彼女の文章に魅せられた一人だった。日本の宝、とまでは言わずとも、同い年の人間として、彼女の才能は守るべきものだと思った」
「なにが彼女の原動力となっているのだろうと興味を持って、四谷先生に聞いたことがあった。先生は教えてくれた。『いつか、みんなが憧れるような青春を書きたい』、それが彼女の原動力だと」
——知っているとも。でも、それがなんだ。
「それから、先生はこう付け加えたんだ。『葉月ちゃんにとって、青春は過ごすものではなく綴るもの。言い換えるなら、当事者にならないことこそが彼女の原動力なんだ』と」
「ちょっと話が飛ぶ。秋の——九月の末だったかな。四谷先生が、すごく楽しそうに、嬉しそうに話してくれたことがあった。『葉月ちゃんに春が訪れそうだ』とね。よく保健室にやってくる、貧血がちな少年の話だ。惹かれ合っているらしい二人のことを話す先生は、本当に楽しそうだったな。今度の文化祭で二人きりにしてやるんだって張り切ってた。ちょうどその頃だったな。葉月にスランプの予兆が起こり始めていたのは。先生はまだ気付いていないみたいだったけど」
「それで、決めた。その文化祭に行って、貧血がちな少年とやらがどんな人なのか見極めようと。そして、そいつを葉月ちゃんから引き離してやろうと」
——それで、文化祭に。
「文化祭に行った。ずっと君たちを見ていた。葉月の射的も見たし、イチャイチャしてるところもしっかり見た」
「それが始まりだった」
「それ以来、一年半にわたって君を観察し続けた。私にも学校生活があるから、主に土日だな。君の住む町は遠かったが、あいにく金は余っていてね。高校は君と同じところに進んだいかげで、高一の四月からはもっと君を見ていることができた」
「そして、君の関心を葉月から引き離すために、私は自ら君に近付いた。観察に基づいて、君が好きそうな人間になった。話が合うように、心が通じているかのように」
「それが、君の知る小野深雪の正体だ。君の友達はストーキングの成果であり、私の『当てずっぽう』は当てずっぽうなどではなく、ただ知っているだけだった。そう、例えば、君がクリぼっちだったと言い当てたことがあったね。実は、私も高一のクリスマスは誰とも過ごしていなかった。寒空の下、ひとりぼっちの君を陰から見ていたんだからね」
一年半も、見られていた。普通なら怒ってもいいはずのことだ。訴えたっていい。れっきとしたストーキングなのだから。
でも、僕はなぜか平然としていた。いや、意識がぼやけていた。眠かった。
スクリーンで一人の少女が振り返った時、ぼんやりした頭を働かせ、僕は言葉を発した。
「小野」
深雪はゆっくりとまばたきして、穏やかな目で僕を見た。
「君は、そこまで佐々井さんを想っていたんだね。佐々井さんの才能を守るために、そこまでできるなんて」
「そうだったら、よかったんだけどね」
今にも消えてしまいそうな、そんな小さな声で、深雪は言った。
「ずっと君を見ているうちに、ずっと君と関わるうちに、私は……」
深雪はそう言いかけて、そのまま僕の方に倒れこんできた。
——どうした?
そう声をかける前に、僕のまぶたが閉じた。
***
白い世界に、二人きり。
目の前には、佐々井葉月が立っていた。
「目が覚めた?」と彼女は尋ねる。ああ、と僕は答えた。
「だから、もういい」
「もういいって、なにが?」なんて彼女が聞くから、僕は正直に言った。
「僕は佐々井さんを愛していた。それは間違いない。けれど、僕は勘違いしていた」
はっきりと告げる。
「僕は彼女に、恋してなんかいなかったんだ。だから、芥川。もう演技は終わりだ」
「突然だな。小野の手のひらで踊る気か?」
僕の姿で、芥川は言った。彼のもの言いが不服だったので、僕は抗議する。
「人聞きが悪いな。自分で気付いたんだよ、小野の言葉を聞いて。多分、僕は、佐々井さんに憧れていて、佐々井さんの文才を宝物のように思っていて、佐々井さんのためになにかをしたかったんだと思う。それは愛というもので、そして僕は、それを恋と履き違えた。知らなかったんだ。その違いってやつを」
「すると、お前が恋をしていると睨んでいた泉みのりの目は、節穴だったってのか?」
まだ信じていないらしい芥川は、そんな質問を投げてきた。
「先に先生を擁護しよう。ついさっきまでの僕は、自分が恋をしていると思い込んでいたし、他人の目にも恋する少年と映っていたはずだ。だから、みのりさんは間違っていない」
「じゃあ、擁護しないとどうなる?」
「あの人の目は元から節穴だ。僕と小野の関係を誤解していただろう?」
ぱん、と手を叩いて、会話を仕切り直した。
「こんな話がしたいんじゃない。ちょっと、君に聞きたいことがあってね」
「なんだ? お前が私を作ったんだから、私のことはお前の方が詳しいんじゃないか?」
「いや」と僕は首を振った。
「正直、自分ではわからないことだ」
「なら言ってみろ」
芥川も聞く気になったようなので、僕はその問いを投げかけた。
「じゃあ、聞こう。君は同時に、複数人存在できるのか? もしできるのなら、それぞれが別の人間を演じることは可能か?」
「どちらも可能だ」
芥川は答えた。
「だが、そんなことを聞いてどうする?」
「中三の春からの出来事を再現する」
「なんのために?」
「みんなが憧れるような青春を書くために」
「履き違えた恋のどこに憧れる?」
「はっ」
思わず笑ってしまった。
「あっはははははは! 馬鹿か、君は!」
腹を抱え、膝をついた。夢の中なのに息苦しい。
「予定が変わったんだ。まだ小野は隣にいる?」
息を整え、立ち上がって僕は尋ねた。
「まあ、一応、二人きりだ」
「そろそろ目が覚めそうだ。じゃあ、見守っていてくれよ。芥川」
僕は芥川にそう告げて、目を閉じた。現実に引き戻されていく感覚の中、「悪かったな」という芥川の声が、かすかに聞こえた。
***
目を開けると、視界が真っ白だった。顔一面に、布のような感触がある。息苦しい。顔を上げて、二度深呼吸する。
ここは救護室だろうか。あのままシアターで寝てしまった僕たちを、誰かが運んできてくれた、といったところか。
それにしてはおかしな状況だ。深雪はベッドで横になっているというのに、僕は近くの丸椅子に座ったまま、そのベッドに突っ伏して寝ていた。腰が完全に折りたたまれた、無茶な格好だった。
深雪は先に目が覚めていたらしい。僕が身体を起こしたのに気付いて、「おはよう」と声をかけてくれた。僕はおはようを返さず、代わりに「深雪」と呼びかけた。
「……ハル? どうした?」
なんでもない。
そう言ってしまえば簡単なことだ。それで終わる。でも、そうはしない。ここで立ち止まっちゃいけないんだ。
「君と見る景色が好きだ」
——だから。
「君がいる空間が好きだ」
——僕は。
「君の感性が好きだ」
恥ずかしさも、息苦しさも、全部振り切って、言ってしまわなければならない。
「それが全部、君に仕組まれたことだとしても、僕は、君が——」
不意に、深雪が僕を抱き寄せた。彼女の唇が、僕の口を封じた。
二、三度まばたきをする間くらいの出来事だったと思う。
それから彼女は、僕を引き剥がして、飛び起きて、声をひそめて叫んだ。
「それ以上はだめだ」
言われなくても、僕はそれ以上言葉を続けることはできなかった。さっきの勢いのまま言わなければ、続きはもう喉でつっかえたまま出てこない。
「そこから先は、私が言うんだからな」
深雪はベッドの縁に腰かけ、拗ねたようにうつむいて言った。
「あろうことか、言いかけたまま先に寝ちゃったし。だから、ちゃんと続きを言わせて」
「ずっと君を見ているうちに、ずっと君と関わるうちに、私は君を好きになっていた」
顔を上げ、はっきりと告げる。
「ハル。私と、付き合ってください」
息を飲んだ。風に吹かれたように、何気なくも新鮮な感覚だった。
「ああ」
彼女の目を見るように努めて、僕は答えた。
「よろしく、深雪」
「ありがとう。こちらこそ、よろしく。ハル」
そう笑いかけた深雪は、今までで一番かわいく、そして素敵に見えた。
それから、僕たちの間には静寂があった。
彼女の顔は徐々に紅潮して、そしてついには飛び込むようにして布団に顔をうずめた。
「ああぁぁぁ……」
深雪は声にならない声を漏らす。
「よかったぁ……夢みたいだ……」
「夢じゃない」
僕は深雪の頭に、そっと手を添えた。黒髪というには少し明るい彼女の髪を、そっと撫でる。
「これは現実だ。僕が初めて掴んだ現実だ。夢だったら怒るよ」
深雪は顔をうずめたまま、手探りで僕の手を掴んだ。そして、あたたかい両手で、僕の手を握った。
「そっか。ハルは、ずっと夢を見ていたんだもんな。葉月のいる白昼夢を。そっちを現実にしなくてよかったのか?」
「これで——いや、こうなってよかった」
僕は深雪の手を握り返した。葉月よりも指が長くて、そして繊細な、素敵な手だった。
「もし、佐々井さんと結ばれたとしても、僕はなにもできなかったと思う」
「それは、どうして?」深雪が尋ねる。
「佐々井さんを見ているのは好きだった。佐々井さんの笑顔を見るのは、幸せなことだった。でも、それはきっと、ただ尊いものだった。僕が入る余地のない、そういうものだった。僕が彼女を笑顔にしたかったんじゃない。ただ、彼女に笑顔でいてほしかった。わかるかな」
「わかる、かも。自分の手が加わっていない、純粋な葉月を見ていたかったんだろう?」
僕は頷いた。これも観察の成果なのだろうか、やはり深雪は僕の感性をよくわかっているようだった。
「なら、ちょっと不可解だな」
深雪は顔を上げて言った。頬の赤らみは引いて、いつもの深雪に戻っていた。
「君は、君自身の作った映画を葉月に観せただろう? あれは、君的にはどうなんだ?」
「ああ、それか」
僕は顔を綻ばせて答えた。
「一応、彼女の所属するクラスの成果物だから。そういう意味で観せたんだと。それに、僕が脚本を書いた映画で誰かを喜ばせることができたとしても、『喜ばせた』の主語は僕じゃない。映画が人を喜ばせるんだ」
「なるほどね」
納得がいったように、深雪はふっと笑った。
「頑固にすら思えてくるな。決して、自分では葉月の笑顔には干渉しないってか」
「でも、君を笑顔にするのは僕だ」
握られていない左手を、深雪の頬に向けて伸ばす。
「好きな空を一緒に見上げて、好きな町を一緒に歩いて、好きな本を一緒に読もう。二人一緒に、ずっと近くで笑おう」
「いいね」
僕の手を握ったまま、深雪はベッドから降りた。
「すごく素敵だ」
僕がこのような行動をとったことで、深雪の計画は完全に狂った。
僕が狂わせたと思っていた。
僕の行いで予定を狂わされた、そんな深雪を僕は愛おしく思った。
でも、一つだけ見落としがあった。
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