4

 新宿西口の交番前で、僕たちは葉月と合流した。葉月は五分前に着いたばかりだった。


 葉月は本を読んで時間を潰していた。薄いベージュのブックカバーがかかっていで、なんの本かはわからない。


「それ、なんて本?」


「『聞き上手の本屋さん』の最新刊」と葉月は答えた。


 それを聞いた深雪が、僕を押しのけて食いつく。

「おお、君も四谷先生のを読むのか!」


よくも白々しく言えたものだ。さっき、葉月は四谷轍のファンだと教えたばかりなのに。


 深雪の言葉が演技だとはつゆ知らず、葉月はややおびえた様子で頷いた。僕は深雪を肘で小突いて、「自己紹介くらいしろ」とささやいた。深雪は「ごめん」と僕にささやき返した。


 咳払いを一つして、深雪は胸に手を当てて言った。

「急に話しかけてすまなかった。私は小野深雪、相川春希の……なんて言えばいい?」


「逆に君は僕をなんだと思ってるんだ」


「ハル。ハルはハルだ」


「あのなぁ」


「仕方ないだろ。君みたいなやつは後にも先にも君だけなんだ。普遍的な言葉では表せない」


 深雪が引き下がらないので、僕は「こういうやつなんだ、小野は」と言っておいた。葉月は「いい人みたいだね」と言って微笑んだ。



 やがて僕をそっちのけでガールズトーク——といっても四谷轍の話なのだが——が始まってしまったので、僕は立夏の方に戻った。立夏は二、三歩後ろで、つまらなそうに僕たちを見ていた。


 「よくもまあ、そこまで女に好かれるな。お前は」


「なんだよ、女友達が多くたっていいだろ? そりゃ、佐々井さんのことは、あっちの意味で、好き、だけど……」


「お前があいつらをどう思ってるかなんて聞いちゃいねぇんだよ。問題は、お前がどう思われてるかじゃねぇのか?」


「どう思われてるかって、そんなの、小野が言っている通りじゃ……」


 僕の言葉を遮るように、立夏は「へぇ」と声を漏らした。

「女子との付き合いが悪い俺の言えたことじゃないが、お前、どうして小野をそこまで信用できる? 女ってのは、そう易々と信用していいものじゃないと思うぜ」


「別に、女だからって必ずしも疑ってかかる必要もないだろうに。それとも、小野を疑う根拠があるのか?」


 「疑うしかねぇよ」

即答だった。


「なんでって小野が佐々井さんを誘わなきゃならないんだ。初めは、佐々井さんとお前をくっつけるための作戦かと思った。だが、それでは単純過ぎる。なにか裏がある」


「そんな、裏なんて」

僕は妄言とも取れる立夏の言葉を止めようとしたが、僕の制止は立夏に届かなかった。


「俺の憶測だけどさ。例えば小野の言葉、後ろから聞き耳を立てていたんだが、それが偽りのないものだったとして、『君みたいなやつは後にも先にも君だけ』だったか? これを、小野がハルのことをかけがえのない存在だと思っていると解釈しよう。これが恋愛感情にせよ親友という意味にせよ、あるいは兄弟のように思っているにせよ、だ。ハルのことを自分の宝物のように思っているのなら、小野が佐々井さんに嫉妬してもおかしくはない。今日という日が、お前と佐々井さんから奪うために用意されている、そういう可能性だってあるんだ」


 「馬鹿言え」

僕は立夏の言葉を一蹴して、言った。


「小野は今日の目的を、ちゃんと僕に話してくれた。言っていいのかわからないが、君の誤解を解くためだから仕方ない。彼女は、僕が佐々井さんに告白する機会を設けるつもりで、僕たちを誘ったんだ」


 僕の言葉に、立夏は諦めたように肩を落とした。


「そうか、なら俺もお前を応援するが」


「するが……?」


「一応、これだけは考えてみてくれ。小野は本当に、お前を騙したり、お前に隠し事をしたりするようなやつじゃないんだな?」



 立夏はスマホで時間を確認し、葉月たちに「そろそろ行くぞ」と声をかけた。

 四人のうち一番後ろをついていきながら、ぼんやりと考える。


 ああ、深雪は隠し事をしていた、と。


 けれど、僕にとって、そんなことは深雪を疑う理由にはならなかった。むしろ、隠し事をしていてもいずれ話してくれるだろうと、深雪を信用することに繋がった。



 「どうだ、素敵なトコだろう?」


 想像した以上に、落ち着いた雰囲気の施設だった。


 照明は絞られ、熱帯系の葉の大きな植物が浮かび上がるように光っていた。鳥の声が響くほかに、水の湧き上がるような音も聞こえる。事実、エントランスを抜けた先、フロアの中央には大きな遺跡風の噴水が設けられていた。涼しげな空気に乗って、水の匂いが広がっている。

 グリーンシティには、その雰囲気に見合った大人たちが行き交っていた。


 僕たちの顔に緊張の色が浮かび上がっていたのか、深雪は「そう固くなることはないさ」と笑いながら言った。


「仕事なのは私だけだ。君たちは楽しめばいい。それに、私も仕事とて全力で楽しむさ」


 そして、深雪は大学ノートを開いた。



 すべてが楽しかった。


 まず初めに、マップと大学ノートを広げて、施設内のカフェで朝食ついでにプランを練った。深雪は当然のことながら、意外にも葉月も積極的だった。


 「そうだな、私はプラネタリウムとやらが気になる。山間で見上げる星空をイメージした、いかにもグリーンシティらしい施設だ。椅子がないのが、ちょっと酷かもな。葉月、君の希望はあるか?」


「そうだね、このお化け屋敷みたいな……屋敷じゃないけど。樹海? 設定がリアルで、期待が持てそう」


「へぇ、君はそういうのが好みか。案外肝が据わってるのか、あるいは」


「言うまでもなく後者だね」


「まだ後者言ってないぞ」


「聞くまでもないよ」


 なにか違うことに積極的な気もするが、まあいい。なんだかんだで、この二人の仲は良好な様子だ。


 ちらちらと落ち着かない様子で腕時計を見ていた立夏が、「そろそろ九時半」と報告した。深雪は顔も上げずに、「もうちょっとだから、待ってて」と応じた。


 「そろそろ男子陣の意見も聞かせてくれ」


「俺に希望はねぇよ。部外者じゃなくてハルに聞け」

払いのけるように手を振って、立夏は言った。「だとさ」と深雪は僕に話を振ったが、僕とて希望は特になかった。


「君たちについていくのが、僕の楽しみ方ってもんだ。好きにやってくれ」


 僕の言葉に、深雪は「そうか」と不敵に笑った。


「なら、まず一番にハルをビビらせてやろうか」



 そうして連行された先は、言うまでもなく例の『樹海』だ。入り口を見たところでは、ただのお化け屋敷とはなんら変わらなさそうだった。が、いざ入ってみると、そこはもう樹海そっくりの空間だった。


 足を踏み入れるなり、全員が「おおっ」と声を漏らした。


 苔の生えた岩や盛り上がった木の根で、足場は安定しない。暗いせいもあるが右を見ても左を見ても木の幹が見えるだけで、出口がどちらにあるか見当もつかない。これが樹海の風景か。


 手渡された懐中電灯で、葉月が辺りを照らす。


 ちらりと一瞬照らされた『それ』を見て、葉月は「いやあぁっ!?」と悲鳴を上げた。その拍子に、葉月は懐中電灯を落としてしまった。


 僕たちが見たのは、輪っかを作って結ばれた縄だった。使われていないのか、それとも朽ち果てた死体はもう地面に落ちたのか。どちらにせよ、その縄は、この樹海が自殺の名所を模したものであることを僕たちに思い知らせるには十分だった。


 怯えきった葉月は、ひしと僕の腕にしがみついている。


 「言い出しっぺがそれかよ。佐々井さん、怖いの平気じゃなかった?」


「子供騙しなのは平気だけど、こういうリアル路線のは無理なんだってぇ……」


 「先が思いやられるな」

深雪は懐中電灯を拾い上げ、そう言った。


 それ以降、僕たちは怖いものを見ることはなかった。事前にすべてを把握しているかのように、深雪はそういったものを一切照らさなかった。彼女は先頭に立ち、肉眼で周囲を見回し、「そこに死体がある。踏むなよ」とか「右の方で死にかけがよろめいてる。避けて進もう」とか指示を出した。


 途中、僕は気になって聞いた。

「小野、全部知ってるのか?」


「まさか」と深雪は答えた。

「早々に目を慣らしただけさ。葉月に怖いもの見せたくなくてね」


 「平気なのに」と葉月は不満そうに言ったが、深雪はそれを「馬鹿言え」と一蹴した。



 二階には温室が広がっていた。世界の様々な植物を見られる、本格的な温室だ。熱帯のエリアもあれば、水辺のエリアもある。香りのいいハーブの庭もあった。場所によっては、キツい匂いにも感じられたが。


 色とりどりの小さな花の前で深雪は立ち止まり、「これ、素敵だな」と呟いた。

 ピンク、紫、黄色、白。その一本ごとに異なる色の、独特の形をした花。リナリアというらしい。


 「ヒメキンギョソウか」

身をかがめて、立夏は言った。


「沖田、詳しいのか?」

びっくりした様子で、深雪は立夏の顔を見た。


「名前がわかるだけだ。自分の撮った写真に映っているものの名前は、言えるようにしているんでな。こうやって集めると見ごたえがあるが、実はそこらの線路脇にでも生えている植物でね。見た目に反してタフなやつで、なんなら庭で育てることもできる」


 これには僕も驚かされた。名前がわかるだけなんて、デタラメもいいところだ。普通に詳しいじゃないか。


「なんでこのスペックでモテないんだか、立夏は」


「花言葉でも覚えて出直してこいってとこだろうな」

そう言って、立夏は鼻で笑った。いつになく機嫌がよさそうだった。


 深雪はリナリアの方を向いて、「写真かカメラが恋人みたいな態度だからだろ」と言った。立夏は「一理あるな」と、滑稽なほど真面目に頷いていた。



 それから向かったのは、どんぐりをテーマにしたエリアだ。どんぐりのコマを回せたり、どんぐりのネックレスを作れたり。食べ歩きの屋台までどんぐり一色だった。


 葉月はどんぐりの射的に興味を示した。「また口だけじゃないだろうな?」と疑ってかかる深雪に、僕は「期待していいぞ」と耳打ちした。



 射的ブースで貸し出されたのは、奇妙な見た目の道具だった。鉄砲型に組まれた竹筒の上に、しなった竹のパーツが付いている。この竹のアーチが元に戻ろうとする力を使って、どんぐりを射出する仕掛けらしい。圧力を感知する的に当てて、その点数に応じて景品がもらえるというルールだ。


 まず出たのは深雪だった。「まあ見てなって」と自信ありげに位置についた彼女だったが、一発目は的の端を掠めただけ。続く二発目は一本内側に当たったものの、最後の三発目は的の手前で落ちてしまった。


 バトンタッチで続いたのは立夏だ。「今ので理屈はわかった」と、彼なりにコツを掴んだようだった。けれど現実はそう易くない。初弾は見事に五〇点——内側から一〇〇、五〇、三〇、一〇点だから、かなりいい線だ——に命中したが、次は一つ下の三〇点に落ちた。焦りからか弾道を見誤ったか、最後の一発ではマズルが上を向き過ぎ、どんぐりは的を超えて飛んでいってしまった。立夏は「ま、こんなものか」と納得のいったような素振りを見せながらも、心なしか不服そうだった。その態度が、余計に深雪の悔しがる気持ちを煽ったようだ。彼女は腕を組んで、僕たちからふいと顔を背けてしまった。


 僕の番だ。


 とりあえず、渡された中で一番重いやつを込めて、ろくに狙いも定めずに撃った。気持ち上を向け過ぎたくらいの構えだったが、どんぐりは的の右上寄りの三〇点の線に命中した。


 続く第二撃は慎重に。残った中でも少し重い方を竹筒に転がし込んで、さっきよりもマズルをやや下に下げてやった。少し度が過ぎたらしく、命中したのは中央よりわずかに下、五〇点の線だった。


 最後の一発は一番軽いどんぐりだ。先二発とその前の二人のことを踏まえながら、震える手で狙いを定める。背後から「外せ……外せ……」という深雪からの呪いのような声援が聞こえるが、気にしない。


 撃つ。


 どんぐりは勢いよく飛び出した。


 そして。


 それは、的の真ん中に当たった。


 拍手が上がった。振り返ると、スーツ姿の大人たちで、ちょっとした人だかりができていた。高校生が珍しいからか、それとも僕の腕に惹かれたのだろうか。それは自意識過剰か。



 そして、真打が位置についた。葉月は竹筒を構え、前髪を払ってからじっと的を見つめる。


 どんぐりが飛ぶ。弾道はわずかに左に逸れたが、それでも五〇点。まばらな拍手が上がったが、観客たちはまだ物足りないようだった。


 葉月は彼らに応えてみせた。息をするように容易く、どんぐりを百点の丸に命中させたのだ。これには周囲の大人たちも「おおっ」とどよめいた。


 だが、まだだ。彼らの中には、まぐれだと思っているやつもいるはずだ。だから、そいつを心の底から驚かせてやれ。僕は葉月の背中を見つめて、そう念じた。


 彼女はマズルを右に向けた。

 そしてあろうことか、薙ぎ払うように竹筒を左に振ったのだ。


 遠心力でどんぐりが飛び出し、それは見事に的の中央に当たった。


 葉月は僕の方へ振り向いて、無邪気な笑みを見せた。



 「ったく、なんなんだよ君は……」

どんぐり味のソフトクリームのコーンを握り潰しそうな剣幕で、深雪は葉月を睨んだ。


「たくさんの人が見ていたから、なにか面白いことやらないとなって」


「それであんなことするか普通!?」


「だって、変わった的はないし、奇をてらうにはそれしかないと思ったの」


「それですんなりできちゃうわけ!?」


 見るに見かねて、僕は二人の間に入った。

「小野、別にそうイライラすることじゃないだろう?」


「天才の希少価値が下がるんだよまったく!」


「天才の方向性が違うだろ!」


「私が言ってるのは『天才』の肩書きのことだ! 天才が四人中二人だぁ? そんなありふれた天才に用はないね!」


「僕はそうは思わないな。佐々井さんの文才には憧れるし、射的の才能もいいなって思う。それと同じように、君の絵を描く才能だって、素敵なものだ。それぞれに長けていることがあって、それぞれに存在意義があるだろう? 多様な天才がいたっていいじゃないか」


 深雪は頭が冷えたようで、「そうかよ。君がそういうなら、まあ」と落ち着きを取り戻した。


「でも、私はそうは思ってないからな。天才が近くにいるだけで悔しい」


「それを言ったら、俺ら全員悔しいっての。天才さんよぉ」


輪の外で、吐き捨てるように立夏が言った。機嫌の悪さが顔に出ているのを自覚したからか、「アイスで冷えた。頭痛い」とも言った。



 深雪はゴミを捨て、飲み物を買ってきた。彼女はペットボトルの水をラベルの上くらいまで一気飲みしてから、再びノートを開き、「さて、昼以降の予定だが」と切り出した。

「まず、昼食はどうする?」


 「私は今のアイスで十分かな」と答えたのは葉月だった。立夏もそれに頷き、「出費も痛いからな。ハルや佐々井さんと違って、俺は全額支払いだったんだ」と言った。一〇〇点を超えた僕はどんぐりソフトクリーム一割引き、二〇〇点を超えた葉月は半額の券を獲得していた。


 「出費については私も同意見だ。となると、さっきのソフトクリームは昼食代わりってことになるが……ハルはそれでいいか?」


「構わないよ」と僕は頷いた。


 「なら、そうだな」

深雪はノートを閉じて、言った。


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