3

 「随分と早いな」


 赤、橙、紫、あるいは青。何色ともいえない妖しげな空の下で、小野深雪は絵を描きながら待っていた。朝五時過ぎの駅前はおそろしく静かで、彼女が鉛筆を走らせているほかには、たまに通り過ぎる車の音くらいしか聞こえない。


 「小野が『六時には来い』って言うから。眠れないし、三十分前には着いておこうと」


「馬鹿言え、五十分くらい早いぞ」

深雪は僕に赤の色鉛筆の先を向け、呆れたように言った。



 深雪はいつもより洒落た身なりをしていた。深緑のベレー帽にベージュのトレンチコート。黒いスキニーは彼女の細い脚の形ををくっきりと見せつけている。

 いかにも芸術家らしい雰囲気を醸していた。


 僕がまじまじと彼女を見つめていたのを、当人は絵が気になっているものと勘違いしたらしく、「見たいのか?」と聞いてきた。


 「いや、いい」

そう僕は答えた。


「絵が気になっていたわけじゃないんだ。それに、君は自分の絵を見せることをよしとしないだろう?」


 はっ、と小馬鹿にするように深雪は笑った。

「街はまだ眠っている。空は幻想的に彩られている。そう長くは続かない、素敵な光景だ」


そう言って、彼女は構わずスケッチブックを僕に見せつけてきた。


 目に、脳に灼きつくようなタッチで、その絵は描かれていた。ぼんやりとしていながら明確、とでもいうのだろうか。あるいは、写実的ながら夢幻的。矛盾の中で秩序が保たれたような画風だった。


「素敵だ」

僕は思わず呟いた。


「でも、どうして」


 「隠す気がなくなった、それだけだよ。元々、見せたくなかったわけじゃないんだ。見せるとまずかっただけで」


深雪はそう言うと、スケッチブックを引き戻し、またその上で色鉛筆を動かし始めた。



 「座りなよ」

近くのベンチを手で示して、深雪は僕にそう促した。

「出発まで、ゆうに二時間はある。立ってたら疲れるだろ?」


 やっぱりそうか、と僕は肩を落とした。おかしいと思ったんだ。グリーンシティの開園時間は朝の九時。ここから新宿までが、長く見積もって一時間。書店で暮らしている葉月とは現地で八時半に合流するよう伝えた。そして、立夏に伝えられた集合時間は七時半だった。


 なのに。

「どうして僕だけ六時に呼び出されたんだ? 絵を見せるためか? いや、それにしても早過ぎる。見せたかったのは作業風景か?」


 「違うよ馬鹿者」

深雪は僕の顔も見ず、吐き捨てるように言った。


「例の子に、まだ告ってないんだろ?」


「告っ……!?」


「まだなんだな。人付き合いの少ない子だから誰にも取られない、とでも思ってる? 人生、なにが起こるかわからないぞ?」


 「余計なお世話だ」

僕はベンチに腰を降ろし、盛大にため息をついた。


「まさか小野、そのために佐々井さんを誘わせたのか?」


 「当たり前じゃないか」

僕の方へ振り返って、深雪は不敵に笑った。


「でなきゃ、わざわざよその子を呼ぶもんか。神無木とか、その辺を誘えば済む話だろう?」


「そうだな。?」


 僕がそう言った時、深雪は面食らった様子で目を見開いた。ふと表情を強張らせ、それから急ににやけた。「当てずっぽうか?」と彼女は問う。


「意趣返しってとこだ。図星か?」


「よくわかったねぇ、ハル」

その笑みに余裕を保ったまま、深雪は驚きの演技をしてみせた。大袈裟なのに心が込もっていなくて、滑稽にさえ思えた。


 「佐々井さんを誘えってのは、どうにもみのりさんの趣向と似ている気がしたんだ。告れ、なんていうのもそうだ。さしずめ、彼女の名刺を見せた時に連絡先を覚えていた、ってところか? 勘だけじゃなく記憶力もぶっ飛んでるな」


「褒め言葉にしては聞こえが悪いね」


「純粋な褒め言葉じゃないからな。画力のすごさも見せつけられて、正直、君は人間じゃないんじゃないかとさえ思えてきた。ちょっぴり、君が遠くなったように感じる」



 そう言って僕がため息をつこうとした時、突然、深雪が「ストップ」と口にした。


「表情そのまま。今、すっごく素敵な顔してる」


 深雪はスケッチブックをページをめくり、鉛筆を持ち替え、ものすごい勢いでクロッキーを始めた。


 嵐のような鉛筆さばきはものの十秒ほどで止み、一段落ついた様子で深雪は顔を上げた。

「もういいよ、ありがと」


 「僕は、どんな顔をしていた?」

表情を緩めてから、僕は気になっていたことを聞いた。


「そうだなぁ、語彙力がないから説明しづらいけど」

鉛筆を動かす手は止めず、深雪は答える。


「寂しげな目をして、口だけが笑っていた。私の大好きな顔だ」


 また、恥ずかしいことを平然と言う。僕は深雪に、それを指摘しようとした。が、やめた。


 「だからさ」と、彼女は続けて口を開いた。手を止めず、顔は上げず。


「そんな、遠くなったなんて言わないでくれよ。君のこと、けっこう気に入ってるんだから。私だけ君を近い存在に思ってるなんて、それこそ寂しいだろ」


 淡々と、彼女は言った。スケッチブックに遮られ、彼女の表情は見えない。


 静寂が気まずくて、僕は「ごめん」と呟いた。


 深雪は僕の謝罪を聞いて、呆れたようにため息をついた。

「謝ることじゃないさ。だからもう、気にするな。私は遠くへなんて行ったりしない。ずっと、君を近くで見ているよ」


 それから「ざっくり描けたぞ」といって、スケッチブックを僕に向けた。


 描かれていたのは、僕の顔だった。写実性はあまりなく、いわゆるイラストといったタッチの絵だ。それでも僕の顔だと認識できる程度には、特徴を捉えて描かれていた。

 やや下を向いて、物憂げな表情を浮かべている。口だけが笑っていた、と深雪は言っていたが、この絵にはそれがさほど表れていなかった。よく見ると、わずかに口角が上がっているようにも見える程度だ。


 そして、僕はこの顔の描き方を知っていた。そのことに気付いた時、思わず「あっ」と声を漏らした。


「『



 「気付いたね」

僕の言葉を待っていたように、ずっとずっと待ちわびていたかのように、深雪は言った。


「そう。私は『ルミ』だ。とある国で、雪を意味する名前さ」


 それを耳にしている時、ふうっと意識が遠のいた。彼女の言葉は、意味を持って僕の脳に届かなかった。『私』という単語と『ルミ』という単語が独立して処理された。


 「ルミっていったら、あの、四谷轍のカバーイラストを描いている……」


「そう。あれを描いたのは私だ」


「中学生でイラストレーターになったっていう、あの……」


「そう。早熟の天才と謳われた、それが私だ」


 そうして刷り込みを受けてなお、僕は深雪をルミとして認識できなかった。ルミの技術をコピーした紛い物なんじゃないか、なんて考えたりもした。


 でも、スケッチブックに描かれた僕の絵を眺めるうち、その疑念も消えていった。代わりに、僕の心には興奮の火が灯った。


 「知る機会はあったろうに。個展とか、来てくれたことなかったの?」

深雪は悪戯っぽく笑みを浮かべる。「ない」と僕は答えた。


「そんなことは、僕にとっては重要じゃなかったんだ。好きだったけど、別に思い入れがあったわけじゃない。ただ時々、ルミの絵が見られるだけでよかった。でも、君が——というなら、話は別だな。君を近くで応援したい」


 「ホントは、今バラすつもりじゃなかったんだ」

深雪はひねくれたように言った。照れ隠しのようだった。


「そういう恥ずかしいことはあの子に言え。君をあの子とくっつけるために、こうして時間を作ってるのに、それで私が浮かれてるんじゃ仕方ないだろ」



 まったく君は、と愚痴をこぼしながら、深雪はスケッチブックを片付け、代わりにピンクの大学ノートを取り出した。人物のイラストが描かれたページがぱらぱらと過ぎ去り、最終的には表の書かれたページで止まった。


 「作戦会議だ」

深雪は言った。時間と行動予定の書き込まれた表をなぞりながら、説明を始める。


 「まず、八時半に合流。時間通りに合流できたとして開園まで三十分の余裕があるから、退屈させないこと。それで九時開園、プレオープンだから混雑はないと言っていい。余裕を持って行動せよ。焦りは禁物、常に気遣いも忘れずに」


「具体的に何時にどこ、というのはないのか?」

表の行動予定がほとんど白紙なのを見て、僕は口を挟んだ。


「ああ。それは彼女と合流してからでも遅くない。昼食の時間は十二時過ぎくらいにしたいから、それを見据えて臨機応変に、だね」


 「それから」

深雪の声色が変わる。ここからが重要らしい。


「午後にはサプライズを用意する。予定は組まない。私から君への合図があるまで、適当に時間を潰せ。合図は『屋上に行こう』だ。それから隙を見て二人きりになる機会を作る。それが、想いを伝えるチャンスってわけさ」



 それから深雪は『最終確認』と称して、葉月のどこが好きなのかとか、どうして葉月を好きなのかとか、そんな質問攻めをしてきた。


 僕はほとんど答えられなかった。


 どこが好きか、といえば、漠然と好きだとしか説明のしようがない。そもそも、自分の恋はこれが初めてだし、他者の恋にも鈍感だったから、恋のなんたるかだってよくわかっていない。彼女の紡ぐ言葉が好きで、彼女の笑顔を見ていたくて、それを集約した時、彼女に恋しているんだと結論が出ただけだ。


 極めつけに、深雪は「それで、付き合ってどうしたいの?」という質問を僕に投げかけた。

 答えは「わからない」だ。だが、それを即答するのも気が引けたので、とりあえずなにも考えずに、ううんと唸った。


 「その展望もなしか。どうやら、ただ好きになっちゃっただけみたいだな」


深雪は露骨に肩を落として、それからなにも聞いてこなくなった。彼女はスケッチブックを取り出して、空の続きを描き始めた。



 やがて七時半を過ぎ、八時前といった時間に立夏はやってきた。


 「遅い」

低く鋭い声で、深雪は指摘した。立夏は首から提げた重そうなカメラを掲げてみせ、「どれを持っていくか迷ってな」と弁明した。


「前日のうちに選んでおけ、そんなの」


「選ぼうとしたんだが、寝落ちした」


 「情けない」と、深雪は大きなため息をついた。

「女の子を待たせる気か? ったく、ハルの想い人が来るってのに」


 立夏はそれを聞いて「あっ」と声を漏らし、それから「あー……」と頭をかいた。

「そっか、そうだ。ごめん」


僕へ謝る立夏を、深雪は「ハルに謝っても仕方ないだろ」と咎めた。



 僕たちは速やかに電車に乗った。ここから新宿まで、特急でおよそ三十分。一応、八時半には間に合う計算だ。


 車両に乗り込んですぐ、深雪が席を確保した。ゴールデンウィークで外出する人が多いからか、空いていたシートは辛うじて深雪が確保した一ヶ所だけだった。

 カメラやらが重いだろうからと、深雪はその席を立夏に譲った。立夏は一瞬ためらったが、深雪は「遅刻者に抵抗の権利はない」とそれを一蹴した。席を立った深雪は、ちょっと背伸びをして吊り革を握った。



 三駅いった頃、少し離れた場所に二人分の空席が生まれた。深雪はそれにいち早く気付き、僕の意見も聞かず、僕をその席へと引っ張っていった。

 僕を半ば強制的にシートに着かせ、それから深雪は僕の隣に座った。彼女は腰を下ろすなり、「ふぅ」と息を漏らした。


 「自分の身長の足りなさがつくづく嫌になる」

細い脚をぶらつかせながら、深雪は不平を述べた。

「せめて一六〇センチには届きたかったな。もう成長が止まったらしいから、望み薄だけど」


 「そんだけスタイルいいんだ、身長までってのは贅沢だろ」


慰めのつもりで言ったのだが、「君、それ本気で言ってる?」と睨まれた。


「背は低い、胸はない、生理重い、あぁいっそ生まれ直したいわ」


「反応に困るな」


「なぁに、私が愚痴をこぼした分だけ、私を褒めてくれればいいのさ」


 いい褒め言葉が思い浮かばなかったので、とりあえず「君の絵は好きだ」と言っておいた。


「それでいい」

深雪は上機嫌だった。


 「そういえば」

今さらのように気になって、僕は深雪に聞いた。

「深雪まさか今朝、わざわざこっちまで電車で来たのか?」


 「そうだけど?」

当たり前のように、深雪は答えた。


「私も現地集合でよかったんだけどさ。でも、それだと話せなかっただろ? 告白のこと」


「そんなのLINEでもなんでもできるだろ」


「君の顔を見て、ちゃんと話したい事柄だったからね。あとは、駅前の風景を描きたかったってとこかな」


 そっちがメインだったんじゃないか、というのは失言だった。深雪は「馬鹿言え」と頬を膨らませ、僕にデコピンをお見舞いした。かなり効いた。


 もう一つ聞きたいことを思い出して、「それと」と僕は言った。

「君がルミということは、君、四谷轍と面識があるのか?」


「もちろん」と深雪は頷いた。


「というか、仕事で関わってる人の中では一番仲がいい。ついこの間も、お茶しながらプライベートの話を交わしたよ」


 「だが、そうか。ルミの招待に興味はないが、四谷先生の正体には興味があるんだね」


深雪はからかうように言った。「まあ、そうだね」と僕は答える。


「四谷轍という人は、僕にとって特別だから。それに、佐々井さんも四谷轍のファンでね」


 「ふぅん」

深雪はなにかを察したように笑みを浮かべた。


「じゃあ、佐々井さんにも私の正体を教えてあげようかな。許可さえ取れれば、四谷先生と会わせてあげてもいいな」


 「彼女も喜ぶだろう。できれば、そうしてあげてほしいな」


僕の言葉を聞いた深雪は、疑うように目を細めた。

「へぇ。羨ましがったりはしないんだな」


「彼女の熱烈さには敵わないから。四谷轍と会うには、佐々井さんの方がふさわしい」


 「まったく、謙虚なこった」

そう言って、深雪は天井を仰いだ。

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