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 僕はたまらなく緊張していた。立っているだけで息切れするほど、精神が高速で擦り切れる。


 仕方のないことだ。僕は葉月を——いや、異性を出かけに誘ったことがないのだから。


 当然といえば、当然だ。葉月と出かけるなんてあるはずもなかった。中学時代に交流のあった女子なんて、葉月以外には神無木くらいしかいなかったし、その神無木との交流は主に事務的な要因によるものだった。今でこそ深雪という相手がいるが、そもそも彼女は勝手についてくるから誘う必要がない。



 近頃ではこれ以上ないほど、僕の精神は不安定になっていた。

 そのせいだろうか。一年以上ぶりに、あの声を聞いた。


 「大丈夫か、お前」


「……芥川」

気が滅入ってぼやけた視界に、自分そっくりな人間の姿が映っていた。


 「久しぶりだなぁ。お前、ここんとこずっと機嫌よかったからなぁ。私の出る幕じゃないなと思ってたんだが、ようやく私の出番みたいだな」


 「なにしに来た」

思った以上にドスの効いた声が出た。


「なにしにって、お前の緊張をほぐしに来たに決まってるだろ。私の役割は、お前の心を守ることなんだから」

芥川は気さくに笑った。この顔にこんな表情が似合うのか、と僕はちょっと意外に思った。


 「私で練習するか? ちょうど、電車には私たちだけなんだし」

その場でくるりと一回転して、葉月姿になった芥川は言った。


「練習か……。した方がいいかもな」

僕は呟くように言って、シートから重い腰を上げた。



 「やあ、佐々井さん」

笑みも浮かべず、固い表情のまま僕は言った。


「ハル!」

葉月の表情が、ぱっと明るくなる。


「また来てくれたんだ、ハル。嬉しいよ」


葉月の表情、口調、身振り手振りは興奮に満ちていく。


 僕は耐えられなくなって、「カット、カットカット!」とわめいた。


 「んだよ、せっかくいい感じだったのに」

芥川は僕の姿に戻って、そんな不平を述べた。


 「流石にないわ。怪演が過ぎる。リアル過ぎて気持ち悪いぞ芥川」


「そりゃ悪かったな。くれぐれも本人に向かって言うなよ、気持ち悪いとか」


「言うわけないだろ。相手が葉月なら全然平気だ」


「惚気やがって」


「ホントのことを言っただけだ」



 口論になりかけたちょうどその時、電車のドアが開いた。杖をついた白髪のお婆さんが、のそのそと電車に乗ってくる。


 「中止だな、こりゃ」

芥川は頭をかきながら、すうっと消えた。


 「君も君で、おせっかいが過ぎるな。小野のやつといい勝負だ」

誰にも聞こえないよう口の中で呟いて、それから僕は乱暴にシートに腰を降ろした。



 目をつぶると、また芥川がいた。どこから持ってきたのか、真っ白な空間に木の椅子を置いて、偉そうに座っている。


 「おせっかいで悪かったな」

組んだ足をぶらつかせながら、芥川は言った。


「感謝してないわけじゃないんだ。佐々井さんがいなくなってから半年くらいは、君のおせっかいに助けられたことだしな」


 その半年、僕は春からの思い出を反芻することで、自分の心を保っていた。


 芥川に葉月を演じさせ、寸分の狂いなく、保健室での会話や文化祭でのひとときを再現した。それをしている間は多幸感を得たが、現実に戻った時には虚しさが胸に沁みた。痛々しかった。

 虚しい茶番にも、虚しさから生まれた愚痴にも、芥川は付き合ってくれた。

 受験期にはそんな暇もなくなったが、苦しくなった時には、いつもトゲのあるもの言いで僕を叱咤激励してくれた。


 が、やがてそれも必要なくなった。進学という区切りがついて、クラスにも馴染めて、小野深雪という人間にいたく気に入られて、もはや芥川に守られる理由などなかった。なにもせずとも幸せだった。



 今、その平穏は揺らいでいる。

 余計なことを、と僕は心の中で毒づいた。


 葉月のことは好きで、葉月と接しているのが幸せで、それは疑いようもなく恋心のはずなのに、僕は葉月との関係を進展させようとは思わなかった。


 深雪なら、僕のそういう性質をわかってくれそうなものなのに。どうしてあんなおせっかいを——。



 次の瞬間、僕は溺れたような息苦しさに襲われた。ちょうど風呂で寝落ちしてしまった時のような、そういう感じだ。


 僕はもがいた。ただのシートの上、ただの電車の中で僕はもがいた。


 後頭部を窓枠にぶつけて、僕はようやく我に返った。ひどい息切れだった。



 息を整えようとしていると、「どうした」と焦った様子で芥川が湧いてきた。


 「ちょっと息の仕方を忘れただけだ」


「冗談は聞いてない」と、彼は軽くあしらう。


 「ふと、気付いたんだ」

もう、周りの目など気にしていなかった。


「もし、小野がみのりさんと繋がっていたとしたら、どうだ?」


 「突拍子もないな。なぜそう思う?」


「『おせっかい』だよ」

僕は答える。


「似ているような気がしたんだ。小野と、みのりさんのそれが。小野がみのりさんと通じているのなら、彼女の当てずっぽうの的中ぶりにも合点がいく」


 僕はそこそこの確信を持ってこの仮説を述べたのだが、芥川は「馬鹿言ってんじゃねえ」とそれを一蹴した。


「合点なんざいかねぇよ。お前、いつ、どうやって小野がみのりさんと通じたと思ってる?」


「名刺を見せたことがある。その一瞬で、連絡先を……いや、それじゃあ説明がつかない」


 「そうだ」と芥川は頷いた。

「それだと、高一の時から当てずっぽうが的中し続けたことの説明がつかない。通じているとしたら、そりゃもっと前からだ」


 「だよな。やっぱり、当てずっぽうが当たるのは、彼女の直感が鋭過ぎるからか」


 僕はそれ以上考えるのをやめた。立ち上がり、窓の外を見渡すと、もう目的地の一つ前の駅まで来ていた。



 『いずみ書店』では、腰元から顎の下まで文庫を抱えた葉月が出迎えてくれた。思いのほか穏やかな対応だった。


「いらっしゃい。一週間ぶり、だね」


 「仕事中か。後で、ちょっと時間取れる?」


自然体で話せている。余計なことを考えていたおかげで、緊張はどこかに消えていた。


 「今でもいいよ」

葉月は抱えていた本をラックの上に置いて、答えた。

「お客さんはあんまり来ないし、私もハルと話がしたい」



 「だからおいで」と、彼女は僕の腕を引いて、バックヤードへ連れ込んだ。カウンターの真澄はそれを止めようともせず、パソコンの画面に映された原稿をじっと見ていた。


 バックヤードには、簡素な机といくつかのパイプ椅子が置かれていた。机の上には筆記具や原稿用紙が乱雑に散らばり、その上に煎餅の大袋が乗っかっている。


 「私のボツ原稿」

部屋の隅、台所でコーヒーを淹れながら、葉月は言った。机の上に散乱した原稿用紙のことらしかった。確かに、そこに書かれた文字は、葉月のものだった。


 「書いてはいるんだけど」


腕を高く上げて、サイフォンに熱湯を流し込んでいる。香ばしい香りが、部屋中に漂い始めた。


「なかなかネタが浮かばなくてね。無理に絞り出しても、いい仕上がりにはならないし」


「もったいないな。せっかく文才があるのに」


「みのりさんにも、真澄さんにも言われたよ。けど、こればっかりはね」


「読んでも?」


「どうぞ。君ならいいよ」


 許可はもらったものの、散乱した原稿用紙は、順番もまとまりもわからなかった。手に取ってみた一枚は、文の中途半端なところから始まっていた。男女の会話シーンのようだったが、用紙の三分の二辺りで途切れていた。会話の内容を見るに、夜の学校に忍び込んでいるらしい。


 「どうかな」

熱いコーヒーを二杯持って、葉月は机の方へ来た。カップを持ったまま、腕で原稿用紙を押しのけて、机の上にそれを置いた。


「衰えていないと思う。君らしい小説だ」


僕は原稿を置いて、白い磁器のカップを手に取った。淹れたてのコーヒーから立ちのぼる湯気はまだ熱く、そしてひときわ強い香りがした。



 熱いブラックコーヒーを一口すすって、それから葉月に「で、本題だけど」と告げた。


「四月の三十に新宿のテーマパークに行こう、って小野に誘われてね。チケットが四枚、手に入ったからってさ。それで彼女、佐々井さんも誘え、っていうんだ」


「テーマパーク?」

初めて聞く言葉かのように、葉月は聞き返してきた。


「そう。グリーンシティ、っていったかな。緑の豊かな屋内施設だ。まだプレオープンの段階なんだが、深雪がそこの関係者ってことで特別に入れるらしい」


 「ふぅん」

興味があるのかないのか曖昧に、葉月は息を漏らした。

「いいんじゃないかな、とは思うけど」


 「お父さんと相談?」と僕は聞いた。


「ううん」と葉月は首を振った。

「それなら大丈夫。ハルと一緒なら、お父さんもいいって言ってくれるよ。あ、残りの一人は誰なの?」


「立夏。まずいか?」


「それも大丈夫。そうじゃなくって」


 葉月は僕の目を鋭く見つめた。睨むわけでもなく、ただ僕の本心を見通すかのような眼差しを向けていた。


「君はどうしてほしいの?」

それが彼女の言い分だった。


「君の言葉を聞いたところだと、『深雪さんに誘えと言われたから誘っている』ようだけど。ハル、君はどうなの? 私に来てほしいの?」


 「そりゃあ、僕は……」

もちろん来てほしい、と答えようとして、言葉が詰まった。心からそう思っているのか、自信がなかった。


 「僕は……ちょっと不安かもしれない」


「深雪さんとうまくやれるか、ってこと?」


「それは心配ないと思ってる。不安なのは僕自身の立ち回りだ。君との時間を大切にしたいけど、せっかく四人ならみんなで楽しみたい。そこの調整がうまくできるか」


 僕はほんの一部だけ、本心を隠して言った。僕のいう『調整』には、考慮すべき要素がもう一つだけあった。


 深雪との時間も大切にしたい。


 といっても、その感情は葉月に対するものと同じではなかった。

 きっと彼女は、僕と行きたかったのだろう。自意識過剰かもしれないが、僕はそんな推測をしていた。


 僕と深雪はそれまで一度も、自ら誘いをかけることをしなかった。僕がどこかへ行くという時に、深雪が勝手についてくるのがお決まりだった。

 僕が葉月を誘うにあたって緊張したように、深雪も僕だけを誘うのは難しかったのだろう。それで、わざわざチケットを四枚用意して、みんなでいくという体にした。考え過ぎかもしれないが、そういうことのような気がする。初めから四枚だった可能性も大いにあるが。


 もしも僕の推測通りなら、僕は深雪との時間も大切にしたい。僕と楽しみたくて誘ってくれたなら、僕もそれに応えたい。それだけのことだ。


 「ふぅん、そっかぁ」

緩みきった顔で、葉月は言った。

「私との時間を大切にしたいって言ってくれて、私、嬉しい」


 本心を隠したことに後ろめたさを感じないでもなかったが、僕はそれを顔に出さないようにした。葉月の屈託のない笑顔に、僕も微笑みを作って返す。


 「まあ、それはうまくやるさ。だから、君のことだけを見られなくても、許してほしい」

君に来てほしい、という意思表示代わりに、僕はチケットを差し出した。


「もちろん」

それを受け取った葉月は、その日を心から楽しみに思っているようだった。

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