3

 それから僕たちは、手近なベンチに並んで座った。もう日が暮れ始めていた。

 足元にやってきた鳩を、葉月が足で追い払おうとした。鳩は一瞬、羽を広げたが、すぐにそれを畳んだ。葉月は不満そうな顔をした。



 ふくれっ面をしぼませて、葉月は僕の方を見た。


「高校、落ちたよ」

悔やむようなもの言いではなかった。望んだ結果のように、彼女は告げた。


 「なんとなく、わかってた。泉先生が、先生じゃなくなっていたから」


「泉先生、って呼ぶと嫌がるよ、みのりさん」


「知ってる」

葉月もみのりに同じことを言われたのか、と僕は思った。よく考えれば、当然だった。彼女の方がきっと、みのりと会って、話をしているのだろうから。


 「なんでか知ってる?」

葉月が聞いてきた。その意図は読み取れなかった。


「親しくしたいから、だっけ」


「そう説明されたの?」


「確か、そうだ」


 「隠し事じゃ飽き足らず、か」

空を見上げて、葉月は言った。呆れたように、肩を落とした。


 「隠し事?」


「だけじゃなくって、みのりさん、嘘をついてる」


「嘘を?」


「そう、嘘。中高生の子供みたいな嘘」


 葉月の言うことは、いまいちわからなかった。



 「高校に落ちた」

さっきと同じようなことを、葉月は言った。


「ああ、聞いたよ」

不思議に、むしろ不審にさえ思って、僕はそう返した。


 「みのりさんは責任を取った。学校を辞めた」

淡々と、彼女は言葉を続ける。


 「お父さんは気に病んだ。すごく気に病んだ」


 「お父さんは、やさしい人なんだ。私にやさしい人。お母さんは保健室登校に反対していたし、文化祭に行くのも認めようとしなかったけど、お父さんはそれをなんとかしようとしてくれた。お父さんは私の味方だった。でも、お母さんの敵にはなりたくなかったみたい」


 「そんなお父さんが、すごく気に病んで、それで怒って、お母さんと喧嘩したんだ。きっとお父さんは、それまで一度も、お母さんと真っ向からぶつかったことはなかった。積もりに積もったものが爆発したのか、それともその時だけは許せなかったのかわからないけど、お父さんとお母さんの間に、初めて決定的なすれ違いが生じた」


 「それから裁判になって、だけど、このことは思い出したくない。その時のお母さんは、すごく醜かった。見苦しかった。こんな人の言うことに従わされて、こんな人の所有物みたいに育てられてたんだって、衝撃的だった」


 「お父さんはすごかった。ずっと前から、その時のために用意していたんだ。極めて冷静で、極めて紳士的で、誇れる、頼れるお父さんだった」


 「お父さんとお母さんは離婚した。それで私は、お父さんと暮らすことになった。私も、お父さんと暮らすことを望んだから」


 「でも、お父さんはやさしい人なんだ。私から母親という存在を引き離したことを——いや、もしかしたらそうせざるを得なくなったこと自体を、気に病んでいたのかもしれない」


 「お父さんは弱って弱って、苦しそうで、仕事に行くのも辛そうで、でも、私のことばかり心配していて——私はそんなお父さんが心配だった」



 葉月の言葉は加速して、支離滅裂になって、とても危ういものになっていた。追い詰められた記憶が、恐ろしいほど現実味を持って伝わってきた。


 「君のお父さんは——」

大丈夫なの、そう聞こうとした。僕の言葉は、葉月の興奮しきった声にかき消された。


「お父さんはもう大丈夫。もう大丈夫」

言い聞かせるように言った。


 「お父さんもね、救われたの。みのりさんに、救われたの。私と同じように」


「……なんだって?」

思わず僕は聞き返した。みのりさんに、救われた?


 「うん。みのりさんは、学校のしがらみにとらわれることもなくなったって。一人のカウンセラーとして、全面的にお父さんの力になってくれてる」


 それを聞いて、僕は安堵した。

「なら、きっと。みのりさんも救われたんじゃないかな。いや、みのりさんこそ救われた」


 言っても葉月はわからないだろうな。僕はそう思った。

 当の葉月は、「ありえない」とでも言うかのように笑った。



 日が暮れていた。


 藍色は空のてっぺんへ向けて深く、深く。やわらかな闇だ。

 星は見えない。鋭い眩しさの街灯が、じりじりと光っている。



 「そろそろ、帰ろうか」

僕は腰を上げ、葉月に言った。


 葉月は顔を上げ、僕の目を見た。それから、ふいと目を逸らした。

「まだ一緒にいたい」


「僕は帰るよ」


「一緒にいたい」


葉月は僕の服の袖をつまんで、僕を行かせなかった。


 「なら、もう少しだけ一緒にいよう。君を店まで……いや、駅までか? 送っていく」


「それで、終わり?」


おかしなことを聞くな、と僕は思った。今日はそれで終わりで、次がいつかあるものだ。


 「今日のところは、終わりだ。また会おう」

僕はそう答えた。


「まだ一緒に——!」

葉月が金切り声を上げた。追い詰められた顔をしていた。


 彼女を追い詰めているのは僕だ。そう言われているようで、たまらなく息苦しかった。

 それと同時に、彼女に必要とされているようで、心地良くもあった。



 どちらの感情も振り切って、僕は静かに言った。

「素敵なところだ。必ず、また来るとも」


そして、僕は葉月に背を向けて、歩き出した。


 去り際、一つ思い出して、言った。

「立夏にも、よろしく伝えておく」


「深雪さんにも!」

葉月は、そう返事した。ベンチのある木陰は薄暗くて、彼女の表情は見えない。


 「小野に?」

僕は聞き返した。


「佐々井葉月って知らないかー? って、聞いてみて!」

さして離れてもいないのに、葉月は声を張り上げていた。


 「ごめん、もう名前教えちまったー!」

声を張り上げて答えないといけない気がして、そうした。


 それから手を振って、今度こそ公園を出た。葉月が手を振り返しているのが、尻目に見えた。



 葉月との再会は、それからほんの一週間後のことだった。

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