2
保健室に入るなり、僕はカーテンの向こうに隔離された。それから泉先生に、「これを飲んでおけ」と、水の入ったペットボトルを渡された。僕はそれを、一息に飲み干した。
静かな時間が続いた。
いやな沈黙だった。
泉先生と葉月は、黙っていた。
僕はそのとき、カーテンの隙間からのぞくことをしなかった。
僕はそのまま、眠りに沈んでいった。
***
夢を見た。
真っ白で、どこまで続くかわからない空間に、葉月が立っている。
「やあ」
僕は彼女に、そう声をかけた。
「なんの用?」
彼女は言った。明らかに、会話がすれ違っていた。
「どうして、私を呼び出した?」
「君と話がしたいからだ」
僕は答えた。
「僕の創り出した役者とね」
葉月の姿をしたそれは、僕の言葉を聞いて、ふっと鼻で笑った。
「そうか」
そしてその場でくるりと回って、僕そっくりに姿を変えた。
「私と話をしたがるとはね」
もう一回転して、今度は神無木の姿になる。
「しかし、どうしてだ? ただ白昼夢に浸っていればいいものを」
それから、また僕の姿に戻る。
「ただの興味だ」
僕は答えた。
「興味、か。そうか、そうだな。お前はきっと、私を利用することに興味があるんだろう」
『役者』は独り言のように言って、二、三度頷いた。
「話が早いね」
「まあな。お前の思考から生まれたもんだ、お前の考えることくらいはわかる」
「じゃあ、こうやって夢の中に君を具現化させた意味はわかるか?」
「知るか」
『役者』は舌打ちした。
「わかることとわからんことがある。お前がどういうことに興味があるか、なにを好みなにを嫌うかはわかる。そういう趣味趣向のことはわかる。だが、お前の行動一つ一つについては、知る由もないんだな」
「なるほど。過程をすっ飛ばして創ったにしては、中々の出来だね」
「はぁ?」
『役者』は非常に不機嫌そうな顔をした。僕は構わず、言葉を続ける。
「君のキャラクター設定を教えてやる。君は、僕が創り出した空想の住人たちを集約するための存在だ。まあ、後付け設定ってやつだな。白昼夢の佐々井さんも、脚本用の神無木さんも、君が演じていたということになる。僕の空想がうまくいっていれば、彼女たちの記憶は君の中に統括されているはずだ」
「ああ、その通りだ」
呆れた様子で、『役者』は答えた。
「器用なもんだな。私自身は最近生まれたばっかだってのに、全部覚えてる」
「なら、いい。話を戻そう」
この夢がいつ覚めるかわからないので、僕は話を急いだ。
「突貫工事で申し訳ない。実はまだ、君の名前も決まってなくてね。そうだな、『役者』を意味する『アクター』から取って、
「芥川、か。悪くない」
『役者』、これから芥川と呼ばれるそれは、僕の提案をすんなりと受け入れた。
「で、さっき言った仮説だけど。これはね、白昼夢の葉月が消える現象についての仮説だ。僕が思うに、空想は現実に勝てないんだ。僕の空想は、『この人はこんなとき、こういう言動をするに違いない』という確信によって成り立っている。だが、これは脆い。本物を目前にすると、その確信が揺らぐ。確信が揺らぐと、空想は崩れる」
「そこで、その脆さに対して開き直るために創られたのが君だ。役者が偽物を演じているのだから本物に勝てるわけがないのだと、そう開き直るために君を創った。ま、僕が僕自身の心を守るために創ったってところだな。 自信をなくさないために」
「だから」
「まだ続くのかよ」
芥川は、僕の長話にうんざりしているようだった。だが、「大事な話だから。聞いてほしい」と懇願し、僕は話を続けた。
「これより、君の存在目的は、僕の心を守ることだ。役者はその役割の一部に過ぎないが、代わりに自由度が上がる。僕の日常生活に、芥川春希としてしゃしゃり出てきてもいい。話し相手になったり、助言をくれたり、文句を言ったりしてくれていい。要するに、イマジナリーフレンドってやつだ」
「本人に向かって言うやつがあるか」
芥川は相変わらず不機嫌な顔だが、不満そうではなかった。
(相川君)
僕を呼ぶ声が聞こえる。そろそろこの夢も終わりらしい。
「じゃあ、最後に一つ約束だ。これだけは、ちゃんと言わないと不安だからね」
自分が鏡に映ったような芥川の目を見つめて、僕は言う。
「僕の人格を乗っ取ることだけはしないこと」
「信用がないな。自分で創っておきながら」
芥川は、そう言って笑った。相変わらず性格の悪そうな笑顔だが、信じていい笑顔だと思った。
(おい、相川君)
僕を呼ぶ声が聞こえる。
「じゃあ、またあとで」
僕は最後にそう言って、そっと目を閉じた。
***
ベッドの感触が戻った。
二、三度まばたきして、うんと伸びをしながら身体を起こす。
「もう出てきていいぞ、相川君」
カーテンの向こうから、泉先生の声が聞こえる。僕はカーテンを払って、「はい」と答えた。
葉月はもういなかった。
近くで車のエンジンの音がして、それから車の音は遠のいていった。
「いまさっき、葉月ちゃんの父親が、葉月ちゃんを引き取った」
泉先生はそう切り出した。心なしか、暗い表情だった。保健室には、重い空気が漂っていた。
「さよならくらい、言わせてやりたかったがな。君のことは秘密だから。すまない」
僕がその言葉から不穏なものを感じ取ったことは、言うまでもないだろう。
「さよならって、泉先生……」
思わず、声が震えた。頭をよぎったものを信じたくなくて、自分の震えも認めたくなかった。
「君に黙っていたことがある。本当にすまない」
「先生が謝ることはないでしょう」
ベッドから身を乗り出して、僕は悲鳴を上げるように言った。
「ああ、確かに、私のせいでないかもしれない。でも、葉月ちゃんのために戦ってきた身として、責任を感じずにはいられないんだ」
「心して聞け」
先生は一度、大きく深呼吸をした。
「今日を最後に、佐々井葉月はこの学校には来なくなる」
どうして。
そう吠えたくなって、でも僕はその言葉を飲み込んだ。
「彼女の母親との約束だった。文化祭に行くなら、以降は自宅学習に集中すること。そういう交換条件だった。提示されたのは私じゃない。葉月ちゃん自身だ。これは、葉月ちゃん自身が取った選択だった。彼女自身の意思を盾にされては、私にはどうすることもできなかった」
怒っているのか、嘆いているのか。泉先生が今抱いている感情はなんだろうと考えて、ああ、悔しいんだ、と僕は悟った。
「彼女を君に任せたのは、私にできる最後の抵抗だった」
先生は平静を装っていたが、その顔には激情の片鱗が垣間見えた。
「当然、文化祭では私が葉月ちゃんに同行するよう命じられていたさ。他の誰とも極力接触させるなと命じられていたさ」
「でも、それで彼女が楽しいわけがあるか!」
とうとう、泉先生は声を荒げた。
「学校関係者として、特定の親についてどうこう言うのはあまりよろしくないけどな。私には許せないとも。子供の青春時代をなんだと思っているんだ! くだらない教育方針とやらで踏みにじっていいわけがあるか!」
先生は激昂した勢いでデスクを叩き、「ったあ!?」と悲鳴を上げた。
「先生、落ち着いて」
「落ち着けるか! 君はこれでいいのか!?」
「いいもなにも、僕はまだ現状を受け入れられてない」
僕は先生を制止し、それから「どうして」と切り出した。
「どうしてこんなことになっているのか、なにがどうなっているのか、今の僕にはさっぱりだ。落ち着いて、一から説明してよ、先生」
「——そうか、そうだな。すまない」
泉先生はうつむいて、自分を責めるように言った。
「君にはなにも言っていなかったな。なにも、言いたくなかったからな。でも、君が望むなら、話そう。佐々井葉月という人間が、いかにして生きてきたかを」
「彼女の不登校は、小学生時代から——小学校に入学するその日から続いたものだ。学校に行けなかったんじゃない、学校に行かせてもらえなかったんだ。その前には、幼稚園にも、保育園にも行かなかった。ただ、家に閉じ込められ、勉強ばかりさせられていた」
「小学校受験をした。落ちた。中学校受験をした。落ちた。毎日勉強していたにも関わらず、彼女は合格点に程遠い結果しか残せなかった」
「そもそも、どうして勉強詰めで家から一歩も出られなかったのか。その原因は、彼女の母親の教育方針にある」
「葉月ちゃんの母親は、葉月ちゃんの母親自身が望んだ人間としか、葉月ちゃんを関わらせようとしなかった。世の中には、子供の健全な教育に悪影響を及ぼす人間もいるから、だと」
「地元の小中学校ってのは、その『望んだ人間』だけがいる環境じゃなかった。だから、葉月ちゃんを学校にへ行かせることはしなかった」
「自分の意思で目指した学校でもないのにさ。親に言われたからって理由だけで、超名門校に受かれるわけがないんだよな。あの母親、子供のことをまるで考えちゃいない」
「スクールカウンセラーとして、キレたよ。あの親には。いや、大人げない真似はしなかったけどさ。彼女が中一から中二に上がろうって頃にその状況を知って、私は葉月ちゃんの担任に、彼女の母親と交渉をさせた。娘の健全な教育を望むなら、学校に通うことは必要不可欠だ、だから、少しでもいいから学校に通わせてやれってね」
「交渉は丸一年続いた。まるで聞かないんだ、その担任教師の言葉を。うちの子の教育に悪影響が出たらどうするんだ、責任は取れるのか、ってね。結局、その教師は音を上げた。仕方がないから、私が直接、母親の元へ出向いた」
「担任教師と同じことを言われたんでね、私は言い切ってやったのさ。責任はすべて私が取る、って」
「それからなんとか粘り続けて、私が保健室で集中的に受験勉強を教えるなら、って形で交渉は成立した。もしも第一志望校——笑っちゃうよな、葉月ちゃん自身が志望してるわけでもないのに。とにかく、その学校に葉月ちゃんが合格できなかったら、私は責任を取って学校を辞める、ということになった」
「それから九ヶ月。こういうことになってしまってね」
先生は自嘲するように言って、それから吠えた。
それを見ても、僕は大したことを思わなかった。いやに冷めた感じだった。弱い弱い心しか持ち合わせないはずの僕が、いやに落ち着き払っていた。
「あああああっ……」
先生の唸りは、やがて鎮まった。
「すまない」
息を整えた泉先生は、また僕に謝った。
「君は心を乱さないのに、私だけが激昂してしまって」
「考えても仕方ないよ、佐々井さんのことは。先生はできるだけのことをした」
いい慰めを思いつかなくて、僕はそんなことを先生に言った。
「……はぁ」
僕の言葉に、先生はため息を返した。
「確かに、葉月ちゃんのことは、これ以上考えても仕方ない」
含みのあるもの言いだった。
先生は目を伏せて、ぼそりとこんなことを言った。
「私もね、悩むことがあるんだ」
「先生に……悩みが?」
思わず、僕は聞き返した。
「あるとも。私をなんだと思っている? 人間であれば、どんな天才だって悩むだろうよ」
誇らしげに笑う。空元気、って感じだった。
「先生、しかもカウンセラーという立場にあっては、自分を殺すのが当たり前というものだ。弱音を吐くなんてもってのほかだが……」
「僕には話すんですか」
「なんだ、君も私に、人間をやめろと言いたいのか?」
先生は僕を肘で小突いた。
それから、大きなため息を漏らした。
「葉月ちゃんの父親を、救いたい」
「佐々井さんの……お父さん? さっき佐々井さんを引き取ったっていう……」
「そうだ」と先生は深く頷いた。さっと髪を耳にかけて、頭を上げる。
「あの人、いい人なのに、不憫で、救われなさ過ぎる」
「奥さんとは教育方針が違って、彼は真に娘を想っているのに。『健全な教育』を掲げられて、なにも言い返せないのが現状だ。彼は娘を一番大切に想っている。彼が葉月ちゃんの親の務めを果たしたほうが、父も娘も幸せだろうに……」
「手を差し伸べてやれれば、よかったのに」
額に手を当てて、泉先生は呻いた。
「できない。私は生徒の味方以上にはなれない。あの母親は、それを許さない。あの人をこれ以上敵に回せば、葉月ちゃんも危ない」
「でも、救いたいんですね」
うなだれる泉先生の顔をのぞき込んで、僕は言った。
「きっと、いつか救われますよ」
先生はなにも言わない。
僕は何度も、先生に言い聞かせた。いつか救いの機会は来ると。
葉月の父親が救われなければ、葉月も救われないだろうから。
だから、なんとしても、先生には葉月の父親を救ってもらわなければならないと思った。
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