3

 まさか。


 手渡された文庫を読み進めるうち、その「まさか」が疑いようもないものへと変わっていった。


 ページ数にしておよそ二割に差しかかった時、僕はおそるおそる顔を上げた。目の前には、変わらず女性店員が立っている。


 彼女に向かって叫ぼうかと思った。


 だって、こんな嘘みたいなことが! こんな嘘みたいなものが! 目の前にあるのだから!



 落ち着け、と自己暗示をかける。落ち着いて考える。



 この物語の主人公は、中学生の少年。周りからは『ハル』と呼ばれている少年だ。


 彼は中三に上がった春、一人の少女のことが気になり始める。いつも淡々と鉛筆を走らせている、もの静かな少女。名を『葉月』といった。


 彼女はいつもなにをしているのか、と気になった『ハル』は、ある日の休み時間に『葉月』の席へ近寄る。


 『葉月』は数学の予習をしていた。勉強熱心な子なんだな、と思った『ハル』は、そのまま立ち去ろうとする。それを「待って」と葉月が呼び止める。


「名前、なんていうの」


 そこで言葉を交わして以来、二人の仲は次第に深まっていく。物静かな第一印象だった『葉月』だが、『ハル』といる時には、賑やかな笑顔を見せた。


 頭のよさを競い合ったり、好きな小説を薦めたり。些細な出来事ひとつひとつの積み重ねが、そこにはあった。


 青春への憧れを綴ったような、そんな素敵な話だ。



 「佐々井、さん」

女性店員の目を見つめ、僕はその名を口にした。


 彼女の瞳孔が、はっと開くのがわかった。身の危険を感じたように、真澄の方へ振り返る。


 そんな彼女を、真澄は鼻で笑った。

「悪戯が過ぎたかな、葉月?」


「ちゃんと教えてください。どうしてこの人は私を——」


 「佐々井さん!」

思わず、僕は叫んだ。警戒心の解けていない目で、女性は僕を睨む。


 「僕も、わかっていて君のいるここへ来たわけじゃない。君と再会できたことに、心から驚いているとも」


僕も、みのりの悪戯に便乗することにした。名乗らずに、言葉を並べる。


「あれ以来、君がどんな人生を歩んだのか、僕は知らない。過去を想う余裕もないほど、過酷な道だったのかもしれない。僕のことなど忘れてしまうほど、過酷な道」


 「でも——いや、だからこそ。僕は変わらないように生きてきた。僕を見た君が、僕のことを思い出してくれるように」


二、三度、彼女はまばたきをした。その目に、少し輝きが生まれた気がする。



 「——そうか。まだ、答えが見つからないか」

あえて、僕はそう言った。彼女がとうに僕のことを思い出していることを確信していながら。

「なら、ちゃんと名乗ろう。僕は——」


 「相川春希だ。ハルだ。忘れるわけがないだろ……っ!」

僕の言葉を遮って、彼女は、佐々井葉月は悲鳴のような声で叫んだ。


 その時の僕がどれだけ驚いたことか。

 こんな叫びを聞くのは、初めてだった。彼女の叫び声なんて、ただの一度も聞いたことがなかった。

 ましてや、彼女の目が潤むところなど——。



 呆然として突っ立っていると、突然、両腕に激しい重みを感じた。

 葉月が、僕のパーカーの袖に、ひしとしがみついていた。僕の胸に顔をうずめて、小刻みに震えている。僕の頭は状況を受け入れるのを諦め、「ああ、同じくらいだった背丈も、頭一つ分以上の差がついたんだなあ」と感じるばかりだった。


 「会いたかった、ずっと会いたかった……」

葉月は泣いていた。嗚咽しながら、そう繰り返す。


「僕もだ」

そう言って、僕は葉月の背中にそっと腕を回した。抱き寄せた葉月は、とてもあたたかかった。


 「忘れられたかと思った。怖かったよ」


「名前を呼ばれて、なんとなくわかってたけど、信じられなかった。そんな都合よく、君に会えるなんて、思ってなかった。だから、受け入れられなくって……」


「僕も、君がここにいるなんて知らなかった。びっくりしたよ」


 肩を叩いて励まそうとして、僕は我に返った。葉月と密着している。なんともなかったのが急に恥ずかしくなって、慌てて手を離した。いきなり腕を上げたので、パーカーの袖を掴んでいた葉月も、びっくりした様子で僕から離れた。


 「ごめん」

二人同時に言った。


「興奮しちゃって。つい」

葉月がうつむく。


「僕も、頭がオーバーヒートしてた」

僕は葉月から目を逸らす。


 代わりに、真澄の方と目が合ってしまった。


「あの、いい感じのとこ悪いんだけど」

気まずそうに、真澄が言う。

「あとは二人きりで、な。葉月はもう上がっていいから」


 真澄の言葉を聞いた葉月は、バッと真澄の方に顔を向けた。真澄が「お疲れ様」と葉月に微笑むと、葉月はコクコクと頷いて、そして瞬く間にバックヤードへ消えていった。



 葉月を待つ間に、少しだけ真澄と話をした。


 「意外だな。葉月が、ここまで心を許す相手がいるなんて」


「そうかもしれませんね。あの人、保健室の加護の元で生きてましたし。本来なら、誰とも関われずに中学時代を終えていた」


「君がたまたま、身体の弱い子だったから。彼女には友達ができた」


 「それは知っていたけどね。あれほど感情的になれる相手だとは、思っていなかった。僕が見ている葉月は、すごく堅苦しい子だったから」


「堅苦しい? 佐々井さんが?」

逆に意外だ。


「ああ。接客ができないわけじゃないんだが、いかんせん機械的でね。やっぱり不登校・保健室登校の影響か、人と関わることに慣れていない様子だった。僕もいささか信用されていないみたいだし」


真澄は自分を嘲るように、苦笑いを浮かべた。そういえば、僕が「佐々井さん」と口にした時、真澄は不信感のこもった眼差しを向けられていたっけ。


 「みのりが言うには、葉月は人と関わるポテンシャルがあるらしいけど。まだ、時間かかるかもなぁ。信用されてるのは、みのりと君だけのようだし」


 信用されているのは、みのりと僕だけ。なんだかくすぐったい気分になった。


 「話は変わるが」

急に陽気に笑い、真澄は僕の肩を叩いた。

「あの子のことは大事にしなよ?」


「い、いきなりなんですか」


「相川春希君、君は葉月と友達なのか?」


 酒に酔ったようにおどけた口調だったが、真澄の眼差し、笑み、声色、それらはみな僕の心を鋭く捉えているようだった。


 僕も、真澄に対して探りを入れ返す。

「友達、という関係ではないだろうという問いかけですか?」


 真澄は顔色ひとつ変えない。僕は仕方なく、その解釈のもとで葉月の問いに答える。


「なら、僕は『友達だ』と答えます。友達ではないと示す反例がないから——」


 そう言いかけて、僕は不可解な感覚を覚えた。言い切れないような気がした。


 「ないから?」

追い討ちをかけるように、真澄は言う。


 「——いや、今のは撤回します。でも、僕たちの関係は友達……だと思う」


  今の関係でいいかと言われると、そうではないですけどね。

 そう言おうとして、やめた。


 バックヤードから、着替えを済ませた葉月が戻ってきた。さっきのワイシャツと紺のスラックスに、膝下まであるロングコートを羽織って。なんともいかつい格好だ。


 「かっこいいでしょ、これ」

葉月はその場でくるりと回ってみせる。


「不思議なくらい似合ってる」


「でしょー」

葉月は自慢げに笑った。彼女の目は、まだ少しだけ赤らんでいた。


 「じゃあ、行こっか。いいところがあるんだ」

長い袖からのぞかせた小さな手で、クイクイと誘っている。


「期待していいのかな、佐々井さん」


「もちろん」


なら、うんと期待してやろう。そう思いながら、僕は葉月と店を出た。

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