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「あ、久しぶり!」
顔を上げた葉月の表情が、ぱっと明るくなる。
「新学期の初日から勉強? すごいな、佐々井さん」
「ううん、先月も勉強。週五日でもなければ六時間授業でもない、マイペースな学校生活だからね。私には夏休みなんてないのです」
葉月は誇らしげに言った。泉先生はすかさず、「誇れるようなことじゃないだろ」とツッコミを入れる。真っ当過ぎる正論に、葉月は「むぅ」と頬を膨らませた。
夏休みが明けた頃には、僕は葉月といっそう親しくなっていた。泉先生の助言通り、心を開いて話をすることを心がけたおかげだろうか。
「そうだ、体調悪くなかったらでいいんだけど」
葉月はなにか思い出したように、カバンの中を探し出した。
「あった、これこれ!」
そう言って取り出したのは、原稿用紙の束。右側に二つの穴が空いていて、そこに紐を通して束ねてある。枚数にして、およそ十枚くらいだろうか。
「新作。読んでみて」
葉月はそう言って、僕に原稿様子の束を差し出した。僕はそれを受け取り、ベッドの上で読み始める。
葉月と親しくなったことで、彼女は自分の書いた小説を読ませてくれるようになった。
彼女の書く小説にはいつも、少年少女の些細な出来事が綴られている。放課後にちょっと寄り道したり、深夜に電話したり。さりげなく手を繋いだ日には、一晩中悶えていたり。
甘酸っぱくて、もどかしい。葉月の書く短編小説は、僕の心によく沁みた。
その日の小説は、駅前を散歩する男女の話だった。
いつも一人で散歩する少年と、初めてその散歩について行った少女。「いつもこんな風景を見ているんだ」と、少女はあちこちを見回している。少年は、そんな少女を見つめている。同じ場所を歩いていても、見ているものは違う。
けれど二人は、同じ空間にいること自体を楽しんでいるようだった。そうとは書かれていないけれど、文章のどこからともなく、それが伝わってきた。
僕は、彼女のそんな小説が好きだった。その時も、それを何回も読み返した。
「何度目だ、まったく。葉月ちゃん、そろそろ帰るぞ?」
泉先生に言われてはっと我に返ると、原稿用紙を受け取ってから、優に一時間が経過していた。僕は慌てて、その小説を葉月に返す。
「なにも焦せらせることでもないのに、先生」
申し訳なさそうに、葉月は言う。
「君はいいかもしれないけれど、私や君の——」
そう言いかけて、泉先生は一度言葉を詰まらせた。
「いや、尊ぶべきは君の意思、か。帰る前に、相川君からの感想が欲しいんじゃないのか? そういう時間も必要だろう」
「それも、そうだね」
原稿用紙の束をそっと畳みながら、葉月は笑った。
「どう、だったかな。今日のは」
「素敵だったよ」
僕は即答した。
「誰もが一度は思い描く、そんな物語な気がする」
「——ああいや、誰でも書けるって意味じゃないよ?」
誤解を招く発言だったと思い、僕は慌てて補足した。
「誰の心にもある風景だから、心に響きやすいんじゃないかって、そういうことだ。心にあるものをこうして文字にできるって、すごいことだと思う」
「ありがとう、嬉しい」
葉月は屈託のない笑みを浮かべて、そう言った。
「私ね、夢があるんだ」
「夢?」
「そう、夢。いつか、みんなが憧れるような青春を書きたい。そういう小説を、書き上げたい。そんな力が、私にあるかわからないけど」
「できるよ」
興奮気味に、僕は言った。
「そう、かな?」
照れくさそうに、葉月は頬をかいた。
「できる」
僕はもう一度言った。根拠らしい根拠はないが、その時の僕は確かにそう思っていた。彼女はいつか、絶対に夢を叶える。絶対に、だ。
「だから、僕の夢は——」
言おうとして、言葉が喉に詰まった。声に出す前に、ためらいが生じた。多分、言うのが恥ずかしかったのだと思う。
でも、言わなきゃいけない。約束しなきゃいけない。そんな使命感が、僕にはあった。
「君のその小説を、世界で一番最初に読むことだ。一番に読む。なんなら、君の編集担当にでもなってみせる。それがダメなら、完成形——世に出回ってすぐに、それを読む」
葉月は、不意を突かれたような表情を見せた。それから、ふふっと笑った。
その横で、泉先生が笑いを押し殺していた。
「ちょっと、泉先生?」
少し苛立ったように、葉月は泉先生の顔をのぞき込む。
「ごめんごめん。つい、ね。すごく微笑ましいんだよ、君たちったら」
泉先生は一度深呼吸をして、それから言った。
「痛烈なファンがいるって、それはそれはありがたいことなんだぞ? 葉月ちゃん、彼のことは大切にしたまえ。私の添削なんかより、相川君の感想の方がよっぽど価値があるからな。ゆめゆめ忘れないことだ」
葉月は泉先生の言葉に頷きかけて、しかし首を横に振った。
「ハルの言葉は嬉しいけれど」
葉月の表情が、物憂げなものに変わった。彼女は僕に、視線を移す。
「みんなが憧れるような——。君には、そういう青春を送ってほしい。私はそれを、書くことしかできないけれど。君は、そういう青春を過ごすことができるから」
今日はありがとね、と言葉を残して、葉月は保健室を去った。泉先生もそれに続く。
セミの鳴く音だけが響く保健室、そのベッドの一つで、僕は魂が抜けたように座り込んでいた。泉先生に葉月が首を振った、その瞬間が、強く脳裏に焼きついた。
保健室を立ち去ったのは、午後一時前。だるさに負けて抜け出した始業式は、とうに終わっていた。
体育館、教室、昇降口。人の気配は、もうなくなっていた。
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