夢現の遭遇
1
驚くほど電車が空いている。
いつにも増して、タタンタタンと電車の音が大きく聞こえる。人が少ない——つまり、騒音を吸収する肉の塊が少ないからだろう。僕はスマホから伸ばしたイヤホンを耳に突っ込んで、さらにパーカーのフードを被った。
七連シートの真ん中にゆったりと座った僕は、いささか興奮していた。端から端まで、誰もいない。向かいのシートにも誰もいない。一両全体を見渡しても、乗客は両手で数えられるほどのしかいなかった。
なぜ空いているか? 理由は至って簡単だ。日曜日の昼、しかも各駅停車だからだ。通勤通学ラッシュの地獄に慣れ親しんでしまった僕にとってみれば、この時間帯の電車はもはや癒し空間だった。
休日に遠出なんて滅多にしない。
そんな僕がこうしてガラガラの電車に揺られているのには、ちょっとした理由がある。
「本屋……?」
「そう。基本一人で回しているような、ちっぽけな本屋さ」
ブラックコーヒーをかき回しながら、みのりは答えた。
「私の実家でね、兄さんが跡を継いで営んでいるんだ。相川君、兄さんと趣味が合いそうだからね。一度行ってみるといい」
駅前での再会から約一週間。土曜日の昼に、みのりの方から電話で呼び出しを受けた。先週と同じカフェで落ち合い、一服しながら話したいことがある、というのだった。
話したいことというのは、とある本屋についてだった。青春小説を読み耽っている僕に、是非薦めたい本屋がある、というのだ。
その本屋はみのりの実家で、店を営んでいるのは彼女の兄、ということらしい。
「でも、なんでわざわざ今日呼び出してまで? 先週教えてくれればよかったのに」
「いやあ……先日の私は、君の近況にしか興味がなくてね。実家のことをすっかり忘れていたんだ。せっかくの休みに呼び出してしまって申し訳ないな」
みのりは苦笑いして、コーヒーを一口すすった。
「私の兄さん——
「四谷轍先生のもですか?」
とっさに僕は尋ねた。
「もちろん。四谷轍は兄さんの一番のお気に入りだからね。私がこの間店に顔を出した時にも、がっつり平積みされていたよ」
「ふむ」と僕は声を漏らした。
「お、興味を持ってくれたか?」
「まあ、四谷轍好きと聞いたらね。みのりさんのお兄さんと、是非話をしてみたい」
「じゃあ、決まりだ。近いうちに君が店を訪れると、兄さんに伝えておく。店で相川春希ですと名乗れば、ゆっくり話す時間を取ってくれるだろう」
それから、みのりは店の場所やその外観などを教えてくれた。『いずみ書店』は住宅街の一角で、ひっそりと営まれている。一階の正面がガラス張りになったその物件は、一軒家が立ち並ぶ中で一際目立つのだそうだ。
どんな洒落た店なのだろう、と僕は期待を膨らませる。
最寄り駅まで、もうすぐだ。
いつもより一駅手前で、僕は電車を降りた。スマホの地図アプリを開いて、『いずみ書店』の住所を打ち込む。
少し歩いて行くと、左手に大通りが見えた。その上には、高架が走っている。高速道路だろう。いかにも都心部、といった印象を受ける。
だが、僕の向かうべきは右方向だ。左とは一変して、スーパーや百均、ドラッグストアなど、人の生活を感じる情景が広がっている。この先に、例の住宅街があるのだろう。
のんびりと店を目指している最中、ちょっと面白いところを通った。車が通れるかどうかの狭い道路に沿って、小さな店がぎゅうぎゅうに並んでいる。商店街というやつだ。
まだ小学校にも通っていないだろうか、小さな子供が赤い道の上を駆け回っている。見ていると、時々つまづいたりして危なっかしい。しかし、道に向かって開いた店から、大人たちはちゃんと見守っていた。
あたたかい空間だった。都心部にこんな場所が残っていたのかと、僕はなんだか嬉しくなってしまった。
さて、商店街には肉屋や駄菓子やこそあれど、『いずみ書店』はない。
この狭い商店街から外れて、さらに狭い路地へと入っていく。そこから先は細道の入り組んだ住宅街だ。僕の地元と、なんら変わらない。強いて言うなら、家の密度はここの方が高かった。土地が高いが故の特徴だろう。
そんな一軒家の密集地帯で、一際異彩を放つものがあった。
おおよその見た目は、他の住宅と変わらない。飾り気のないTシャツが、二階のベランダで干されている。建物の上半分は、いたって普通だ。
一階の前面が、ガラス張りだった。その向こうには、本が平積みされたラックと、五つばかりの木製の本棚が見える。
玄関の上に、看板が掲げられていた。緑の地に、白い文字で。
『いずみ書店』
玄関の窓からまっすぐ先、本の積まれたカウンターから、眼鏡の男がこちらに微笑んだ。
重いドアをゆっくり開けて、僕は店に入った。カラン、と来店を知らせるベルが鳴る。
「いらっしゃい」
眼鏡の男が、僕に手を掲げて挨拶する。「こんにちは」と、僕は男に会釈した。
その男性はすらりとした爽やかな顔立ちで、しかしどこか物憂げな雰囲気を醸していた。カウンターの中で座っているから背の高さはわからないが、一八〇センチは超えそうだ。真っ白なTシャツに焦げ茶のエプロンという格好が、よく馴染んでいる。
男は僕にあまり興味がない様子で、すぐに視線を手元のデスクトップPCに移した。
「あ、あの」
と、おそるおそる声をかけてみる。
「うん、どうした」
男は顔を上げて、愛想よく笑みを浮かべた。彼の胸元を見ると、『泉 真澄』と書かれた名札があった。この男が、みのりの兄というわけか。
真澄は僕の顔を見ると、少し考え込むような顔をして、それから「ああ!」となにかを思い出したように声を上げた。
「君が例の子か。妹から話は聞いている。ちょっと待っていてくれ」
男はそう言って席を立ち、バックヤードへと消えていった。
話を読めずに立ち尽くしていると、やがてバックヤードから若い女性店員が現れた。白いワイシャツの上から、真澄と同じエプロンを着用している。名札は着けていなかった。僕は思わず、その店員の艶のある黒髪に目を奪われた。腰上まで伸びたその髪に、僕は上品で質素な印象を受けた。
彼女は、その白く細い腕に一冊の文庫を抱えていた。その表紙は真っ白で、タイトルすら書かれていない。
「えっと、あの、これ……」
そう言って、彼女はうつむいたまま、その文庫をゆっくりと僕に差し出した。
「これ、僕に……?」
僕は文庫に両手を近付けながら、そう尋ねた。
その様子を見ていたのか、「そうだ」と言って、真澄が裏から顔を出す。
「ぜひとも君に読んでみてほしいんだ。この子が書いた小説を製本したものなんだがね」
真澄の言葉に、女性店員が頷く。
どうして僕なんだろう。それとも、ここを訪れた人みんなに読ませているのだろうか。そんなことを思いながら、僕は真っ白な文庫を受け取った。
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