6

 一学期が、いつもより早く過ぎていったように思えた。


 夏休みが、もう一週間後に迫っていた。けれど、夏が近付いてくる気配はない。梅雨の雨降りがまだ続き、五月より涼しい日もたびたびある。


 その日の一限は柔道だった。僕は寝坊して出席していないから、保健室行きになることもなかったのだが、その日は立夏が足を怪我したらしい。二限に顔を出した時、立夏は教室にいなかった。



 その立夏が廊下を走ってくるのを見たときは、目を疑った。どだどたと音を立てながら、彼は教室に駆け込んできた。


 「やばい」

険しい顔をして、息を切らしながら立夏は言った。


「お前、足怪我したんじゃなかったのかよ」


「したよ、した。足首ひねってさ、保健室で湿布貼ってもらって、痛みが引くまで寝てろって言われたんだけど。いてもたってもいられないっての。すぐにでも駆け出したくて仕方なかったぜ」


 不意に、嫌な予感が頭をよぎった。


 そんなことなどつゆ知らず、ささやくように立夏は言った。

「不登校の佐々井さん。保健室登校してたんだ。初めて見たよ。めちゃくちゃ美人じゃん」


 きゅっと胸が締めつけられるような、そんな感覚が走った。自分の表情が固まるのがわかる。僕は笑顔で応じようとしたが、自嘲的な笑いしか生まれなかった。


 「反応悪いな、ハル。あ、もしかして知ってた? お前、保健室入り浸ってるもんなぁ」

僕の反応が気に食わなかったようで、立夏は冷めた態度に切り替わった。


 「——一目惚れしちゃったかもしれない」


ぼつりと、独り言のように。聞き逃してほしかったのかもしれない。それでも僕の耳は、それを聞き逃すことができなかった。

 多分僕は、立夏を睨んだのだろう。僕と目が合った立夏はふっと笑い、「そんな顔すんなよ」と言った。


 「もしかしてお前、佐々井さんのこと好きなのか?」


「好きとかなんとか、よくわからないよ。今まで恋なんてしたことないから」

そう僕は答えた。


「もし好きだってんなら、やめとけ。佐々井さん、めちゃくちゃ勉強熱心な真面目さんだぜ。お前なんかじゃ釣り合わねぇって」

立夏は顔の前で手を振って、嘲るように忠告した。



 立夏のその言葉を笑って流せるほど、僕は強い人間じゃなかった。


 僕なんかじゃ不釣り合いか。じゃあ、お前はどうなんだ。

 お前は僕に指図できる立場なのか。


 ——僕の気持ちは、そんなものじゃなかった。


 佐々井さんを一目見ただけの人間が、彼女を『めちゃくちゃ勉強熱心な真面目さん』なんて評した。その評価が正しいものであれ、間違っているものであれ、僕はそれが許せなかった。

 僕はお前なんかより、佐々井さんのことを知っているのに。


 はらわたが煮えくり返る思いだった。立夏に向けてこんな激情を抱くのは初めてだった。


 でも僕は、ただ目をつぶって、「そういうものかな」と答えることしかできなかった。


 「そういうもんだよ、ハル」

立夏は強く言い聞かせるように、しかし静かに言った。それから、「次、化学室だからな。そろそろ準備したほうがいいぜ」と僕の肩を叩いた。



 ぞろぞろという足音、生徒たちの話し声、それらはチャイムが鳴ってまもなく止んだ。

 ゆっくりと目を開く。みんな、教室移動を済ませている。


 僕は、窓際の席に残った一人の少女に、声をかけた。

「佐々井さん、君はどう思う?」


 もう一言。

「立夏のことを、どう思う?」


 さらにもう一言。

「僕のことを、どう思う?」


 返事はない。


 葉月がこの問いにどう答えるか、僕には見当もつかないのだった。



 いつもと違う気分の悪さが合って、僕は化学の授業をサボった。


 保健室に泉先生しかいなかった——特に、葉月がもういなかったことは、僕にとって都合がよかった。その時の僕は珍しく、泉先生と二人で話がしたかった。

 入室してきた僕を見るやいなや、泉先生は目を丸くして「どうした?」と聞いてきた。僕は質問の意図がわからなくて、「なにが?」と聞き返した。


 「顔が赤い。珍しいこともあるもんだ」

泉先生は、わざとらしくそう言った。

「いっつも血の気の引いた顔で来るのに」


 全く自覚がなかった。

 僕は「赤い? 僕の顔が?」とまた聞き返した。


「赤いとも。熱でも出したか?」


「だるかったり、寒かったり、そういうのじゃない。気分が悪くて。わだかまりを感じるっていうか」


 「ふむ」

泉先生は納得したように、一度手を叩いた。


「私と話をしようか」

 その時の泉先生の表情もまた、珍しいものだった。ふっと笑っていた。含みのある笑みではなく、見ているだけで心が安らぐような笑み。


 僕は、いつも葉月が使っている椅子に座り、泉先生と向かい合った。


 「やっぱり、熱があるわけじゃないな」

泉先生は僕の額に手を当て、そう言った。


「そうすると——。今日は相川君、葉月ちゃんと会っていないから、彼女となにかがあったわけでもないよね。なら、あとは……」


 そう言いかけた泉先生の目の色が、ふと変わった。目ざとくなにかを捉えたらしかった。

「そういえば、今日は珍しいことが続くな。さっきは沖田君が足を捻って来室していた。あいつが怪我するなんて、そうそうない」


 「立夏、どんな様子だった?」

できるだけ自然に、泉先生に尋ねる。


「苦笑いしてたね。そんな盛大にやったわけでもないらしかった。摺り足でだけど、歩くことはできていたし。沖田君がここへ来た時にはまだ葉月ちゃんもいたんだけど、お互いにあまり気にしていない様子だった。君と違って、沖田君はカーテンからのぞき見なんかせずに、ベッドで安静にしていたよ」


「そうか」

 僕はそう言って、小さく一息ついた。そのまま心のわだかまりも吐き出せればよかったのだが、もやもやはまだは残っていた。


 「佐々井さんって、どんな人なの?」

前振りもなしに、僕は尋ねた。口をついて出た、といった方が適切かもしれない。自分でも、どうしてこんな質問をしたのかわからない。


 「私には答えられない質問だ」

含みのある物言いだった。泉先生は言葉を続ける。


「葉月ちゃんがどんな子なのか、私の見解はあるけどね。でも、それを君に言うことはしない。大事なのは、君が彼女のことをどう見ているか、だ。誰が本当の彼女を知っているか? 当然、彼女自身だ。他人のくせして彼女のことをよく知っているとか、そんなことはありえない」


 「なるほど」

それもそうだと思い、僕は唸った。


 「葉月ちゃんのことを知りたくなったのか?」


「まあ、そんなとこ」


 なら、やるべきことは簡単だ、と。泉先生は人差し指を立てて、こう言った。


「話をしろ。話を聞け。話がしたい、という意志を持て。でも、独りよがりにならないことだ。君のことを知りたいんだと、心を開いて話をする。ただそれを続けるだけで、自然と相手がどんな人か見えてくるというものさ」


 「話をしろ……か。最も簡単な方法で、親しくなればいいんだ」

僕は呟いた。なんの変哲もないアドバイスだが、実際に言われてみると説得力があった。


「そうさ。ただ、授業をサボってまで保健室に来るのはナシだぞ? たまたま会った時でいい。そういう時に、チャンスを逃さず声をかけるんだ」


 前向きなアドバイスをもらって、僕の心はいささか軽くなった。わだかまりは晴れ、激情も鎮まっていた。


「泉先生と話して、いろいろすっきりしたような気がする。ありがとう」


「いいってことよ、これも私の仕事だからね」

泉先生が、にっと笑って親指を立てる。いつになく、彼女が頼もしく見えた。


 僕は「ありがとうございました」と頭を下げて、席を立った。立ち上がった僕を見上げて、泉先生は「かしこまらなくていいのに」と口を尖らせた。



 保健室のドアに手をかけた時、泉先生は僕を呼び止めた。


「ハル」


それに応じて、僕は振り返った。


 「応援してるからな」

泉先生は、また親指を立てた。



 その時の僕には、泉先生の言う『応援』の意味がわからなかった。

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