4

 「またひっでえツラしてんな、ハル。一、二限、全然聞いてなかっただろ」


ぐったりと頬を机につけた僕を、斜め前の席から立夏がのぞき込んでいる。


「あたまいたい」

いかにも苦しそうに、僕は喉を震わす。全部の文字に濁点をつけたいくらいだ。


 季節替わりの体調不良。今は、頭痛を中心として、軽い吐き気を催したり、腹を下したりする時期だ。


 梅雨の訪れである。

 かれこれ、こんなことが二、三週間続いている。天気が崩れると体調も崩れる。ずっと天気が崩れていれば、体調もずっと崩れているというわけだ。


 「保健室行ってこいよ。次の時間の先生には伝えとくから」


立夏は僕にそう声をかけて、前に向き直った。僕はその背中に「そうする」と唸るように答えて、席を立った。



 「あぁあぁ」

だるさのこもった声が漏れる。いざ立って、廊下に出て、のろのろと歩いてみて、初めてわかる。思っていた以上に、具合が悪い。


 悪化の原因は自分にもあった。近頃、自発的に保健室へ行くことに対して、気が引けるのだ。だから、こうして誰かに声をかけられるまで、机に突っ伏している。この時期の机はいやにべたべたしているから、余計に気分が悪くなる。



 『ひっでえツラ』のまま、僕はノックもせず保健室の扉を開けた。

 思った通り、泉先生と葉月が、保健室のデスクで顔を突き合わせている。


 僕の入室に気付いた泉先生は、ふと顔を上げて「やあ」とだけ言った。泉先生の一言で、葉月も僕に気付く。僕は葉月と目が合う前に、「ふぅ」と一息ついて表情を和らげた。


 「今日は二次関数やってるんだ」

僕を見るなり、葉月は言った。多少気分がマシな時は、いつも「今日はなにしてるの?」と僕が聞いていたから、最近では僕の方から質問しなくても、葉月がこうして教えてくれるようになったのだ。


 「二次関数か。難しいよね」


「そうなの。グラフの応用が難しくって」


 「ああ……」と共感したように振る舞ったが、実はグラフの応用などやったこともない。


 「目が泳いでる。やったことないでしょ」

僕のそんな態度も、葉月はお見通しだった。


 僕は軽くムキになって、

「やったことないけど、見てみたらわかるかもしれないだろ」

と、デスクに広げられた参考書をのぞき込もうとする。


 だが、そんな僕を、泉先生は

「ほら、また頭痛ひどいんだろ? 張り合ってないで休んでいたまえ」

と言って押しとどめた。


 「はいはい」といい加減な返事をして、僕はベッドに飛び乗った。ベッドの反発が全身に響いて、引きかけていた吐き気がぶり返した。



 それからまもなく、誰かが席を立ち、保健室のドアを開け閉めする音がした。葉月か泉先生のどちらかが、保健室を出たのだろう。


 僕はカーテンの隙間から、デスクの様子をのぞいた。残っていたのは、葉月の方だった。


 「……行ったね」


「行ったよ。もう大丈夫」


潜入任務中のようなやりとりをして、僕はベッド周りのカーテンを開け払った。


 「今日は具合悪そうだったけど、大丈夫? 見なかったことにしたほうがいいのかもだけど、すごい顔してたよ」


「あー、見られてたか。でも大丈夫、いくぶんかマシになった」


 事実、ベッドに飛び乗ってぶり返したのを除けば、僕の体調はかなり回復していた。いつも、葉月と話しているだけで、不思議と気分が良くなる。



 「梅雨って、好きになれないんだよね」

窓の外、黒ずんだ曇り空を眺めながら、僕は言った。

「雨が降らなくても、こう天気が少しでも悪いと、頭痛が来る」


 窓の方を見つめる僕の視界の隅で、葉月がメモ帳を開いていた。


 「でもさ、好きになれないけど好きになりたいものって、あるんだ。梅雨だってそう。梅雨の雨って、降られても悪い気がしないっていうかさ」


「わかるわかる。叩きつけるような雨じゃなくて、雨粒も、雨音も、空気も、『さぁっと』している感じだよね」


 互いの顔も見ずに、僕たちはふっと笑った。


 ちょうど梅雨の雨のような、『さあっと』した音が聞こえる。葉月の鉛筆の音だった。なにを書いているのか、ベッドのところからは見えない。


 「ねえ」

鉛筆を走らせる手を止めた葉月が、僕の方に顔を向けた。僕も、葉月に視線を戻す。


「他にも、好きになれないけど好きになりたいものって、ある?」


 メモを開いた葉月は、よく、僕の言葉を掘り下げる質問をしてくる。これはここ一ヶ月、保健室で葉月と何度も会ううちにわかってきたことだ。先週くらいからは、僕の方から意図的に、掘り下げやすい話をするようになっていた。


 「好きになれないけど好きになりたいもの……青春小説とか?」


別に、これは用意していた答えではなかった。ましてや、この答えが葉月にとってどんな意味を持つかなんて、考えもしなかった。


 いつもなら、「ふぅん。なんで?」と言って視線をメモに落とすところを、その時の葉月は「青春小説? どうして?」と食いついてきた。目を輝かせて、とはちょっと違う。彼女の目は、むしろ野性的に、鋭く光っていたように思う。


 もしかして逆鱗に触れたかと少し怯えながら、僕は答えた。


「部活に全力、友情に全力、恋に全力、全力疾走な少年少女って眩しくてさ。ああやって青春を駆け抜けていくのを、直視できないというか」


 「あはは、なんだぁ。そんなことかぁ」

葉月は今度は、いきなり笑い出した。呆気にとられた僕は、思わず「は?」と声を漏らす。


 「ごめんごめん。私、青春小説が大・大・大好きでさ。って言っても、詳しいわけじゃないよ? 等身大のもどかしさとか、思わず『そうじゃないだろっ!』って言いたくなっちゃうようなさ。青春の醍醐味はソレだよ。『努力・友情・勝利!』みたいなのだけが青春じゃなくってさ。そうだなぁ……言うなら、太陽の光が当たるところだけじゃない、日陰にだって青春はあるんだよ。君は、そっちの青春を知らないとみた。そんな君には、例えば——」


もはや僕のことはそっちのけだ。葉月はそう熱弁したかと思えば、足元に置いていたカバンを漁り始めた。


 「これなんてどうかな」

彼女が取り出したのは、一冊の文庫本。書店の名が入ったベージュのブックカバーを剥がし、その表紙を僕に見せた。町の中、スマホを持って満月を見上げる少年が描かれていた。夜空は真っ黒ではなく、深い深い藍色で、月の周りには、やわらかい光が灯されていた。


四谷よつやてつで、『君と見上げた月』」


 「……よつや、てつ?」

聞いたことのない作家だった。


「まあ、そういう反応だよね。有名どころじゃないし」


僕に向けて掲げていたその本を、葉月は自分の胸元に引き戻した。彼女は寂しそうに笑っていたが、その笑顔は少しだけ嬉しそうにも見えた。


 葉月はその文庫に視線を落とし、おもむろにページをめくり始めた。


 「四谷轍は、東京住まいの女性作家。ネット小説から始まって、のちに自費出版でデビュー、それから出版社に拾われたっていう経歴を持っている。ふっと心が持っていかれるような、すごく切ない青春小説を書く人なんだ」


そしてその本をデスクに置いたかと思うと、カバンからまた別の文庫を取り出した。表紙の絵は、『君と見上げた月』と同じ画風。小さな本屋の並んだ道に、物憂げな少女がこちらを振り向いて立っていた。遠くなるほど白くなっていく澄んだ色の空には、うっすらと小さな雲が一つだけ浮かんでいた。


 「小説家としてのデビュー作、『町に恋して』。ネット掲示板の小説を大幅に加筆修正して出版された小説で、元々のタイトルは『新宿通りを歩いていて、素敵なものを見つけたことがある』だった。渋谷区に住む主人公の女子高生は、ある秋の夜、衝動的に家出をしてしまって、新宿を越え、四谷を越え、ついには日比谷にまでたどり着く。夜の日比谷公園を歩いて頭を冷やした主人公は、地図や看板をアテにして、なんとか家まで帰るんだけど、それ以来、歩くことに魅せられて、たびたび遠くまで散歩をしにいくようになるんだ。神保町、浅草、新宿御苑や東京ドームシティ、いろんな場所のことがさっぱり書かれているんだけど、『また来たい』と主人公が思った場所には、妙な統一感があるんだ」


 あらすじを語り続ける葉月は、一度そこで言葉を止めた。どうやら、僕がなにも言えず硬直していることに、気付いたらしかった。


 一応話は聞いていたので、僕は「どうぞ、続けて」と葉月に声をかけた。


 「じゃあ、そうだね。君に聞いてみようかな」

葉月は『町に恋して』の表紙を僕に見せて、こんな質問をした。


「主人公が「また来たい」と思った場所の妙な統一感。本文でもその正体はしばらく語られないんだけど、この統一感は、なにによるものだったと思う?」


 「潜在的な、自分の趣味とか?」

少し考えて、僕はそう答えた。


「ふせいかーい、惜しい!」

葉月は言った。


 「正解は、ある同級生の男子生徒の趣味。主人公は『また来たい』を繰り返し見つけるうち、その気持ちがただ『また来たい』のではなくて、『あいつと来たらもっと面白いだろうな』というものなんだ、って気付き始めるんだ。あいつと共有したい。あいつがこれを見たらきっとこんな顔をするだろうな。想いはどんどん増幅していくんだけど、主人公は『その男子生徒を散歩に誘う』という行動を思いつきもしない。そしてやがて——」


 そこまで言うと、葉月は掲げている本を太ももの上に伏せて、にっと笑った。

「それからどうなるのかは、実際に読んでみてほしいな」


「あれ? 読んでほしいのは『君と見上げた月』の方じゃないの?」


「おすすめはね。でも、四谷轍の入門は、『町に恋して』の方がいい。デビュー作だからっていうのもあるけど、これ、四谷轍自身の青春時代を元にしているらしいから。四谷轍を知るためには一番いいんだよ」


「なるほど」


 詳しいわけじゃない、なんて謙遜じゃないか。そう僕は思った。自分の好きな作家のことをよく知っていて、その作品を他人に進めるノウハウもある。


 一人頷いて感心する僕に、葉月は謙遜を重ねた。

「……なんて、一人前に語っているけど。私、四谷先生の自費出版時代の本は持ってないんだ。ここにあるのは、最近大手出版社に拾われて、『ルミ』ってイラストレーターの絵が付いた後の本。私がハマったのはこれ出てからだから、四谷先生のファン歴は一年にも満たない」


 「その辺はよくわからないけど」

うつむく葉月に、僕は言った。


「好きなら好き、すごく好きならすごく好き、それでいいんじゃない? モノでも知識でも時間でもなくて、ただ好きって気持ちをたくさん持っていれば、作者にとっては最高のファンになれると思う」



 「そんなもの、かな」


 葉月が言い終えないうちに、保健室のドアが勢いよく開かれた。僕は慌ててベッドに倒れる。


 「十分くらい前から部屋の前にいたけど、もういいな? 葉月ちゃんは勉強再開。相川君には、さっきの参考書のコピーを取ってきてやった。二次関数のね。見てみたらわかるかもしれないんだろ? ならやってみせるといい」


保健室に戻ってきた泉先生はそう言って、僕にA3のプリントを一枚寄越した。


「もう調子は戻ったんだろう? だったら、それ持って教室に戻れ。それで、放課後までに解いてくるといい。もし解けたなら……いや、解けなかったら解けなかったで、そのプリントをここに持ってきな」


 「やってやろうじゃん、先生」

僕はベッドを飛び降りて、先生に言ってやった。葉月はその様子を見て、くすりと笑っていた。


 結局、僕はその放課後に一時間居残りして、そのプリントを解いた。出来は八割、泉先生は「なかなかできる男じゃないか」なんて笑って、それから間違えたところを理解できるまで教えてくれた。葉月と同じことをしているみたいで、その時間はとても楽しかった。



 僕が『夢』を見始めたのも、その頃だった。


 朝、窓からの日差しが最もよく当たる席に、葉月が座っている。必ず、僕が教室に着くより前に登校していて、彼女の机には一限の教科書と、自立するタイプの筆箱が置かれていた。


 彼女は熱心に板書をしていた。黒板を見る目はとても真剣で、彼女の手は絶えずノートの上を走っていた。


 彼女の休み時間の過ごし方は多様だった。ノートをまとめ直したり、伸びをしながら窓の外を眺めたり、それこそ小説を読んだり。保健室で彼女がそうしていたように、メモになにか書いている時もあった。



 廊下で雨漏り騒ぎがあったその日、昼休みの教室には、僕と葉月以外に誰もいなかった。教室で葉月と一度も言葉を交わしたことのなかった僕は、初めて彼女の席に歩み寄った。


 葉月は昼食も摂らずにメモを書いていた。僕が近付くと、彼女はそのメモを閉じて、顔を上げた。


 「見に行ったところで、どうなるわけでもないのにね」

葉月は小さなため息をついて、呆れたように首を振った。


 「やることないんだよ、みんな。欲しいものをだいたい手に入れた人間っていうのは、次に話題を求める。……って話を聞いたことがあるんだけど、なんでだったかな」

僕も呆れたように返した。


「でも、佐々井さんはいいね」


「どうして?」


「やることがある。それにきっと、やりたいことをやっている。そんな生き方が、きっと一番いいんだ。なににも魅力を感じられないより、ずっといい」


 「なににも魅力を感じられないって、ハル、君自身のことを言ってる?」

葉月は少し苛立ったように聞いてきた。


「まあ、そうだ」


「なら、そんなことはないよ。例えば、梅雨の雨にだって魅力を感じていたじゃない」


「それとこれとは違ってさ。傍観者でいるうち——例えばその梅雨の雨であれば、眺めたり、せいぜい浴びたりね。そうするうちなら、魅力的なものもあるさ。でも、なにかを創ったり、なにかの一員となったり、当事者になりたいと思うことがないんだ。そういうものに魅力を感じないわけさ」


 窓枠から水の滴るのを眺めながら、そんな言葉をつらつらと重ねた。どうやら、僕の心もじめじめとしてきたらしい。


 気を紛らわせるために伸びをして、それからふっと一息つく。

「言い訳なんざ、するもんじゃないな」



 「一人でなにやってんだ、ハル」

教室の入口の方から、怪しむような声がした。振り返ると、立夏がなぜか髪を濡らして立っていた。


 「窓の外眺めながら一人でぶつぶつと。宇宙と交信でもしてたのか?」


「いや、雨を見ていると、感傷的になってさ。愚痴をこぼしていたんだ」


「そうかよ。頭でも冷やしてきたらどうだ? ちょうどそこらに、いいシャワーがある」


その言葉で、やっと立夏の髪が濡れている理由を理解した。


「遠慮しとくよ。東京の雨はなにが溶けてるか、知れたもんじゃない」


 立夏はまた「そうかよ」と言うと、犬のように頭を振って、水気を払った。


「やめろって、かかるだろ」


「お前が汚いとか言うからだろ。おら、食らえっ」


 飛び散った水滴が近くの机にもかかっていることに気付き、僕は立夏の顎を無理やり掴んだ。

「うにゅっ」という声とともに、彼のスクリュー運動は止まった。

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