3

 「え、あれ彼女じゃないの?」


「違うって。たまたま今日ついてきただけ」


 深雪と付き合ってるわけじゃない。それを言っただけで、これだ。泉みのりという人間は、他人の色恋沙汰だけを養分に生きているらしい。およそ一年ぶりに顔を合わせたが、その点ではちっとも変わっていなかった。



 僕と奇跡の再会を果たした泉先生は、「久々に君と話がしたい」と言って、半ば強引に僕を駅前のカフェに連れ込んだ。どれほど長くなるかわからないので、深雪にはもう帰っていいと言ったのだが、彼女は時間を潰して待っているの一点張りだった。仕方なく僕は折れたのだが、どうやらその様子が、泉先生には恋人同士のやりとりに見えたようだ。



 「わりといい関係に見えたんだけどなぁ。葉月ちゃんのことも忘れて、青春を謳歌しているのかと思ったのに」

泉先生は銀のスプーンをブラックコーヒーの中で回しながら、にやにやと笑っている。


「佐々井さんのことは忘れてない。女の子との約束を破れるような人間じゃないから、僕は」


「そういうところ、変わってないなぁ」

 もう染みついちゃってるし。そう言って、僕は頬をかいた。



 「ところで、泉先生。話っていうのは……」


僕がそう切り出すと、泉先生は「ふふふ」と思わせぶりに笑って、コーヒーからスプーンを抜いた。真剣な眼差しを向けられるより、よっぽどぞくりとする。


 「実はね、もう私は君のいう先生じゃないんだ」

衝撃の告白だった。


「まさか、辞めたってこと? どうして」


僕は身を乗り出して、泉先生——いや、先生でないならただの泉さんか——を問い詰める。


 「勘違いされる前に言っておこう。別に、葉月ちゃんのところとのいざこざのせいで辞めたわけじゃない。葉月ちゃんの親がきっかけ、というのは正しいけどね。辞めたのは自分の意志だよ」

だから安心したまえ、と泉さんは僕をたしなめた。


 「私は今、フリーのカウンセラーをやっている。悩める少年少女とはフレンドリーな関係を築いていきたいからね、私のことはみのりと呼んでくれ」


泉先生改めみのりはそう言って、僕に名刺を差し出した。



 フリーランスカウンセラー

 泉 みのり



 薄い水色の背景に、明朝体の文字が並んでいる。


 「こういう肩書きになってからも、葉月ちゃんのサポートは続けている。むしろ学校に縛られることもなくなった。私のサポートがいいかは置いておいて、葉月ちゃんはもう十分に他者と関われるようになった」


 「じゃあ、佐々井さんは今、なにを?」

ミルクの行き渡ったコーヒーを一口すすって、僕は尋ねる。


「引きこもりだ」

息をするように、極めて自然な返答だった。


「え、でも、佐々井さんは十分に他者と関われるようになったって」


「それは心の枷を無視した話だ」

みのりは冷ややかに言い放つ。


 「逆に聞こう。あの家庭で育った葉月ちゃんが、そう易々と人間社会の営みの中に繰り出せると思うか?」


「そう言われると……」


僕は、その問いに返す言葉を持ち合わせていなかった。みのりの言うことは至極真っ当で、そして葉月を取り巻く環境は異常だった。


 「そもそも、葉月ちゃんは精神的に重大な問題を抱えていたわけじゃない。半年も彼女と接した君ならわかるだろう? 彼女の心は、初めから他者に開いていたんだ。他者を寄せつけなかったのは、彼女の母親の教育方針に他ならない。心身ともに育ち盛りの小中学校時代、その空白を、今さらそう簡単に取り戻せると思うか?」


 「確かに、それは難しいと思う」

みのりの言葉に、僕も苦言を呈した。


 「でも、それを取り戻すのが私の仕事だ」


繊細そうな指で、みのりはコーヒーカップを口元に運ぶ。その時の彼女には、ある種の大人の女性の風格があった。教諭時代には、見られなかった一面だ。


 その後は、みのりが「君の話も聞かせてくれ」とうるさいので、僕の方から近況報告をした。体調が人並みには良くなったこと。高校も同じ立夏のこと。それから、みのりがしつこく聞いてくる、深雪との関係性についての弁明。特にこれの話が長かった。二人でよく出かけるのはデートじゃないし、深雪が他の男といたって嫉妬なんかしない。そんなことを延々と話した。



 「最後に、これを聞こうか」


カップの底の砂糖が見えてきた頃、みのりの声が、なにかを懐かしむようなものになった。


 「君は、女の子との約束を破れるような人間じゃない、と言った。それについて、聞かせてくれ。葉月ちゃんとの約束——、君はなにを守っている?」


「佐々井さんが書きたいと言った小説。それが世に出たら、僕が一番に読むと言った。僕はそれを忘れていない」

選手宣誓のように堂々と、僕は答えた。


 「でも」


でも、約束はそれだけじゃない。


「誰もが心の片隅で憧れるような青春を送ってほしい。佐々井さんは僕に、そう願った。その願いに、僕は応えられていない。これだけは、どうしようもないと思ってる」


 「そうか」

僕の答えをすべて見抜いていたかのように、みのりは言った。

「それが、君の悩みかな?」


 「悩みというより、諦観だ」

そっけなく、僕は答える。僕は、佐々井さんのその願いに応えることを諦めている。なぜなら、彼女が僕に求めたものと、僕が求めているものは、違うから。


 僕がそれをみのりに説明すると、みのりはまた「そうか」と言った。


「なら、私が君に約束しよう。そして、保証しよう」


 みのりは胸を張り、親指で自分を指した。そして、こう宣言した。


「近く、君を佐々井葉月に会わせてみせる」



 コーヒー一杯はみのりの奢りだった。


 「無理に話し相手になってもらったんだ。これくらい当然だろう?」

みのりはそう言って、駅の反対方向へと立ち去った。


 店の前でみのりを見送ったちょうどその時、タイミングがわかっていたかのように、深雪が僕の元へやってきた。


 「ハル、ああいう年上の女が好みなのか?」


「違う」


ため息交じりに、僕は首を振った。先ほど受け取った名刺を見せて、僕は弁明する。


 「そういうのじゃなくてさ。僕が上は百を、下は五十を切る低血圧少年だったってのは知ってるだろ? たびたび脳貧血起こしては保健室行きになってさ。それでしょっちゅうお世話になってたのがあの人。元養護教諭兼スクールカウンセラーの泉先生だ。恩人、ってとこかな」


「恩人、ねぇ。あんな子供みたいにはしゃいでた人が」

深雪はまだなにか疑いを持っているらしかった。


 「それで、なんの話をしてきたんだ? 中学時代、先生と生徒の間で禁断の恋をしていた頃の思い出話か?」


「違うって」

そう言って、僕は深雪の頭を叩く真似をする。


 それから、その手を引っ込めて、空を見上げた。立ち並ぶビルよりさらに上に、綿菓子みたいな雲が浮かんでいる。青空は薄い色。爽やかと言うには、穏やか過ぎる空模様。


 時間の流れがゆっくりになったように感じる。自然と、足の動きも遅くなる。深雪は怪訝そうな顔をして、横から僕の表情をうかがっている。


 「……忘れられない人がいる」

前置きもなく、僕は独り言のように言った。


「ふぅん?」

顔色ひとつ変えず、深雪は声を漏らした。


 そのことが、僕には少し意外だった。だって、そうじゃないか。さっきまで、みのりとの関係をあれほどいじってきたのに。急に深雪が聞く態度になったせいか、僕はそれ以上話すのがなんだか恥ずかしくなってしまった。


 なにも言わずにいる僕を、深雪は静かに見つめている。彼女がいくら待っても、僕が続きを話すことはないだろう。かといって、話を変えて切り抜けられそうもない。


 「あっ」

気まずい沈黙を破ったのは、深雪だった。

「ハル、鼻に花びら乗っかった」


 「え、うそ」

僕は寄り目になって花びらを探そうとする。が、それを見つける前に、深雪の指が僕の鼻先に触れた。


 見ると、彼女の指には白っぽい花びらがつままれていた。深雪はそれを眺めながら、「ふふふ」と嬉しそうに笑みを湛えている。


 深雪の興味が僕から花びらに移ったようなので、僕はまた歩き出した。深雪もまた、それにつられて歩き出す。何事もなかったかのように。

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