2
中学三年、五月の末。息も絶え絶えに走る僕を、強い日差しが容赦なく照らしていた。
「ハル、無理すんなって。たかが体育の持久走で、ムキになったって仕方ないぜ?」
隣を走る男子、
「そういうことっ、余裕で走ってるやつにっ、言われるとっ、腹立つんだよなっ」
「無理してしゃべんなよ」
「君からっ、話しかけてっ、きたんだろっ」
その頃には、僕の息を吸う音はかすれたものになっていた。
そんな僕を尻目に、立夏はペースを上げる。僕もそれに続こうとしたが、重くなった脚がそれを許さなかった。
いつまで、僕は脚を動かしていられたのだろう。
チャイムの音で目を覚ました時には、僕は白いカーテンに囲まれたベッドに横たわっていた。どうやら、また倒れたらしい。誰かが僕を保健室まで運んでくれたのだろう。
カーテンの向こうから、二つの声が聞こえる。
一つは、養護教諭兼スクールカウンセラーの泉みのり先生。低血圧でズボラですぐ脳貧血や脱水症状で倒れる僕だから、この先生にはしょっちゅうお世話になっている。
もう一つは、知らない声。多分、女子生徒だろう。はっきり聞こえるのに消え入りそうな、そんな儚い声だ。
どうやら、泉先生がその儚い声の持ち主に、勉強を教えているようだった。
「そう、それがみんな傍心だ。傍らの心、と書いて傍心。こうして三つの傍接円は、三角形の外側に寄り添うのさ」
数学の、図形分野を教えているのだろう。それにしても、傍心を『寄り添う』と表現するのか。面白い言い回しだ。
それから十分ほど、泉ワールドによる数学の講義が繰り広げられた。三角形の五心についてまとめると、「じゃあ、一旦休憩だ」と言って、泉先生は保健室を出ていった。
ドアが閉まる音を聞いてから、僕はカーテンの隙間から目をのぞかせた。
一人の少女と、目が合った。
一瞬のことながら、僕にはずいぶんと長いこと見つめ合っていたように感じられた。
僕は片目でのぞくのをやめて、カーテンを開け払った。
「こっそりのぞいたはずだったんだけど、すぐバレちゃったね。びっくりさせてごめん」
少女は驚いた顔ひとつせず、ただ僕を見つめていた。お互いにそれ以上なにも言わないせいで、僕の意識は彼女を見つめ返すことに集中した。
品のありそうな子だな、というのが第一印象だった。背中の真ん中くらいまで伸びたつやのある黒髪。しわ一つなく、彼女の雰囲気によく馴染んだブレザー。他の女子生徒と違って、スカートは彼女の膝を隠している。
しかしよく見てみると、その品のよさには不完全さがあった。西洋の城を見ているのではなく、それを鉛筆で写実的に描いた絵を見ているような。そういう飾り気のなさを、僕は彼女から感じ取った。
そのうち気まずくなって、僕はもう一度「ごめん」と言ってカーテンを閉めようとした。
「待って」
少女は強い声で、僕を呼び止めた。その声は、静かな保健室にも関わらず、響かなかった。
「名前、なんていうの」
彼女は僕に、そう尋ねた。
「
と、僕は答えた。
「ハル」
少女はその名前を声に出す。
「ハルっていうんだ。私は
「よろしく」
そう挨拶を交わした後、僕の頭に、彼女の名が妙に引っかかった。会ったこともないのに。
その違和感の正体は、すぐに明らかとなった。
「私、こうやって保健室登校してるんだ。名簿に名前はあるけど、クラスには出席できてない。代わりに、ここで泉先生に勉強を教えてもらってるの」
言われてみれば、確かにクラス名簿の中に『佐々井葉月』の名はあった。だから、その名前に聞き覚えがあったのだ。なんらかの理由で教室には顔を出せていないが、彼女は確かに、この学校にいたのだ。
「でもさ」
僕は葉月に言う。
「その学習意欲は、すごいよ。教室に顔を出せなくても、そうやって違う形で勉強してるんだから。なにをするわけでもなし、こうして一限からぶっ倒れて休みに来ている僕とは違う」
「そう思うのなら、せめて安静にしていたらどうだ?」
席を外していた泉先生が戻ってきた。教科書やら資料集やら問題集やら、何教科分も抱えて。
「元気になったのなら教室に戻れ、とは言わないから。半端に回復しても、相川君の場合はまたすぐに立夏に背負われて保健室にやってくるからね」
「え、背負われてくるの?」
泉先生の言葉に、葉月が食いつく。
「来るねぇ。男子中学生が、男子中学生に背負われて」
「ちょっと、泉先生」
耐えかねて、僕は抗議しようとしたが、「いいから君は寝ていろ」と、先生に押し倒され、さらにカーテンもきっちり閉められてしまった。
白い布一枚の向こうから、葉月の声が聞こえる。
「また、新しいのを書いてきたの。私が問題解いてる間に、よかったら読んでくださいね」
なにを書いてきたのだろう。話の続きが聞こえないかと耳を澄ましてみたが、それからしばらく、どちらもなにも言わなかった。
いつしか、僕はまた眠りに就いていた。
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