救いの血/7



 咆哮と共に〈成体〉の脚が地面を蹴る。

 黒々とした爪が振り上げられ、獲物へと向けられていた。獣の視線の先には笑みを湛えサインが青白い眼で獣を見ている。


 次には獣の爪はサインの〈牙〉と衝突し、頭上から獣の膂力で圧されたサインの足が僅かに沈み込む。互いの膂力は拮抗しているが、サインは武器を抑え付けられ、空いた掌には何もない。片や獣はもう一つの腕を横薙ぎに振ろうと、柱の様な腕がばねが跳ね上がるが如くサインへと迫った。既に二体の闘いは人の理の内には無い。


 サインは横薙ぎに振られた腕をいつの間にか短刀で貫き、獣の腕を抑えていた獣がその状態に気付いた瞬間、一瞬の間にサインは身を屈め圧を逃す、牙を逆手に持ち替えるとそのまま獣の股下から乱暴に振り上げられる。獣の人間性の失われた脳が無機質に迫る鉄塊に反応し、その重々しい身体からは想起出来ぬ挙動でその身を退かせた。


 獣の内に一瞬だが恐怖が湧いた。理性ではなく本能が身体を動かしただけの事。知覚できていなければ容易く屠られていたであろう一撃。それを躱したのはこの獣がそう出来るだ肉体の怪物に変容していたからである。そんな事を獣は理解しない獣は目の前に立つ男を再度視認し、脚力に任せ高く跳ぶ。跳びあがった獣は両腕の爪を長くのばし、湾曲した刃のような形に変質させる。甲高い叫び声を挙げながら落ちて来る獣に対しサインは腰に携えられた二丁の拳銃の一つ、長めの銃身それを片手で扱う為に小さくなった銃把を握り腰のホルスターから引き抜く。


 単発式中折拳銃〈ブレイクバレル・サングウィス〉、弾丸は既に込められており直ぐに銃口は獣の頭蓋に定められた。落ちてくる獣は銃を理解してか、射線を切らすよう自らの頭蓋の前に腕を伸ばす。


 放たれた弾丸は獣の腕に遮られ、その身に大きな外傷を負わせるには至らなかった。獣は落ちる勢いのまま鎌の形状になった爪をサインの身に振り下ろす。四つの爪はサインの外套とその下の肉を裂き、傷は肩から腰にかけ斜めに走っていた。複数の傷からは血液がぼたぼたと垂れ落ち、地面に水溜りを一つ形成しサインに出血量の多さを自覚させる。


 「ぐっ──」奥歯を噛み締めてサインは声を漏らした。


 成体は爪に付着した血液を舐め取り、歓喜を表すかの様に息を吐く。獣に表情などないはずだとしても、サインには獣が笑っているかに見えた。傷は幸いそこまで深くは無い、サインはよろけた姿勢を直し〈牙〉を担ぐと獣に向け踏み込んだ。血を失った事でサインの飢餓感はより強まり、理性を奪おうとする。衝動的に動く身体とは裏腹に飢餓の渦の中、サインは思考を定めようとするが、頭の中で何かが騒ぎそれを阻む。最早思考と身体は分離し、サインの思考も染められつつある。サインにはこの渦に委ねることしか出来ない。


 咆哮し更に踏み込む。姿勢を低くすると垂直に地面を蹴って獣に襲い掛かる。

 身体は〈牙〉横薙ぎに振り回すが獣はそれを容易く回避する、しかしサインは振り回した勢いを乗せ、縦の振りへとシフトする。鉄の塊に近しい歪んだ剣は重さと勢いによってサインの体重を凌駕した。そうして振り下ろされた一撃は破砕音とともに地面を砕くが、それも獣には当たりはしない。巻かれていた赤布は解け紐状になると、この身体はそれすらも利用し、叩きつけた〈牙〉を支柱に、そのまま飛び上がると獣の顔面に取り付いた。


 獣が反撃するよりも速く、サインの肉体は首筋に短刀を突き刺す。獣が悲鳴を上げる。直ぐに獣はサインを払いのけようと腕を伸ばそうとした。が、伸ばした腕は既に制御を失い、サインの背の手前、その中空で静止している。青白い眼が肩越しに腕を〈凝視〉していた。次の瞬間には獣の双腕は歪に変形し始める、あらゆる方向から不可視の圧力が働き、獣の爪から徐々に腕は原型を失っていく、不可視の万力が肉をひき潰していく、『痛み』などでは表せぬ神経が凝縮、破潰されていく感覚。獣の脳は痺れ、喉の

奥から臓物が込み上げてくる様な錯覚を起こす。


 獣は一層の混乱に満ちる。本能に備えられた危機回避の警報が鳴り止まない。


 ──死。死が迫る。


 獣は大口を開きサインに噛み付こうと牙を剥き出しにする。血と腐った肉片の臭いが獣の臓腑から漏れ出すが、今のサインには些事ですら無い。しかしそれが獣の死の運命を加速させた。


 サインの背後で潰れた腕がどす黒い血液を飛散させる。同時に開かれた大口にサインは握り締めた右手を突っ込むと、短刀を食道に深く突き刺す、銀と血でたれた刃が食い込んだまま再びその手は柄を握ったまま引き抜く。黒い血が噴水じみて吹き上げ、獣喉から血が泡を立てる音だけが発せられるのみ。


 巨躯の人狼は、今や見る影なく破壊され尽くした。動かなくなった成体を前にサインはその黒い血を浴びて失った血液を彼の体の内に潜む何かが取り込み補充し、理性がサインの手に戻された。


 「がぁっ……! 糞みたいな感じだ」


 口内の血を吐き出し地面に刺さったままの〈牙〉を引き抜く、赤布が生物の様に剣を包むとサインはそれを背負った。

 体の支配が戻る感覚に頭を震わせ、彼は広場の隅で震えているマルコに近寄ると彼のシャツの襟を掴み立ち上がらせた。


 「終わった」そう告げるとサインは閉ざされたままの門を見やる。

 

 「おお──お強いんですね……」彼はおそるおそる呟いた。


 マルコが血塗れのサインを見て述べた感想は賞賛を意味する所には無い。むしろ畏怖を含んでいる。サインがこれまでもこうして戦ってきたなら外套に染み込んだ血の匂いにも納得がいく、そして彼の獣に似た戦い振りはマルコには彼もまた怪物の類なのでは無いかと疑念を抱かせた。


 「門の向こうに同じようなのがいないといいんだがな」


 呆然としていたマルコを他所にサインは身の丈を優に超える門を押し開こうと両腕でそれを押し、僅かに門が動き出していた。


 「いない事を祈ります。しかし怪我は大丈夫なんですか?」


 怯えていたとは言えマルコはサインが獣の爪で切り裂かれた瞬間を見ていた、あの時確かに多量の血液が流れていた。だというのに本人は何の問題もなさそうに動いている。常人からしたら有り得ない傷の筈──マルコはそう考えていた。


 「平気だ。血は止まっている、何より俺には立ち止まってなどいられない」


 淡々と返答し門を押す力を強めると、巨大な門はその内側の景色をようやく、サインたちの前に開いた。


 門の向こう、協会のある区域は街の延長線上である事に変わり無く、街並みも雰囲気も変わらない。だが真っ直ぐに広がる街路の先には大階段があり、その上に古びた城が聳え立っているのが見えた。


 「あれが協会か」古城を見据えて呟く。


 「ええ、あれです。しかしあんな危険な怪物をこんな門の前で放置しておくなんて──」


 「あれは厄狩りの成れ果てだ」間髪入れずにサインが告げる。


 「俺は前にも一度ああなった厄狩りを殺した事がある。それがあそこに放置されていた。協会は既に機能していないか、あるいはもっと酷い状況かだな」


 彼はそう言って歩き出した。


 「そんな──」ここまで来たのに、とマルコは落胆する。


 「祈るのはよせ。惨めになるだけだ。生きたいのなら自分の運だけを信じろ。それがお前にとって最良だ」


 そう言われるとマルコは歯を食いしばり、サインの後を歩き出した。

 協会は既に目に見える所にある。


 歩みを止めれば辿り着く事は無い。


 そこに何があろうと抗い続ける以外の選択肢は無いのだ。


 何があろうと。

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Sin ガリアンデル @galliandel

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