救いの血/6
男は名を〈マルコ〉と言った。
彼はつい三ヶ月前にこの街に越してきた。彼の話ではサベクト以外の街も惨憺たる有様であると言い、この街に来たのは元々住んでいた街が壊滅してしまったからだと言う。
外の状況をまるで知らぬサインであったが、彼は彼で目的以外にさしたる興味も無く聞き流すだけであった。
しかし、マルコは思いの外この街の実情に精通しており、サインはマルコから幾つかの重要な情報を得ていた。
一つは〈月教会〉の現状。上層に位置する彼らの区画は今や音沙汰が無く、螺旋街の人々もその事について詳しくはない。しかし、養老院に住まう老人達は古い月教会の姿を知っており、それどころか元信者であったという者までいたという。マルコ曰く、いつもよくの分からない事を口走っていたそうだ。
その内容も、精霊がどうのこうのという、幻視じみた戯言であったとの事。
二つはこの街の現状である。この街では〈赤い月〉は不吉の象徴であり、怪物の現れる兆しであるという。今やこの街で外を出歩く者はいないというが、街に蔓延る人狼の様な怪物は街の者達の成れ果てなのは間違いない事が分かった。しかし、何故外を出歩かぬ者がこうなるのかは分かっていない。
またかつて街全体がここまでの異変に見舞われる事はなかったという。
三つは街にいるはずの厄狩り達の事。本来赤い月の日は街中に厄狩りが歩き回っているはずが、彼らの姿がまるで見えないという異変。彼ら自身もまた人狼に成り果ててしまっているかも知れない。そうなればこの街は確実に放棄されるであろう事。
この飄々とした態度の男に対しサインはどこか信用ならない雰囲気を感じ取っていたが、今はこの男の言う事を信じるしか無かった。
二人の男は一度は外周区へ進もうとしたがそこへ続く道には、各々が歪に変形し、汚らしい体毛を生やした灰色の怪物〈形り損ない〉が多数徘徊していた。
サインも足手纏いを抱えたまま戦えぬ為仕方なく引き返している。そうして二人は別の道を探すその道中であった。
「他に道はあるか」後ろを付いて歩くマルコにサインは投げかけた。
うーむ、と唸り、マルコはその返答に戸惑っている。彼自身その提案をする事に幾らかの躊躇があった。それも、自身の命に関わる事柄でもあるからである。
しかし、そうも言ってられない状況である事には変わりは無い。彼は恐らくは“一番”安全であろうその方法を提案する。
「一つありますよ。そこから行くんです」
そう言って彼が指差したのは数多ある建造物の一つ。他にも建ち並ぶそれと特段変わりのない建物だった。つまりマルコは屋根伝いにこの街を移動しようと提案したのだ。
「俺は問題ないが、お前は無理だろう」すかさずサインは返した。
当然、見るからにただの人間であるマルコにそのような盗賊じみた動きを
実行する能力はない。
「そうですよ。だから貴方が私を抱えていけばいいのです」善良なのか、礼儀がないのか、マルコは悪びれもなく非常に粗悪な案をサインに提供してきた。サインは口を固く結び返答しない。
彼はマルコに歩み寄ると腰に回されている革製の腰帯を掴むと「うわっ」と小さく悲鳴を上げる男を無視し、その小柄で痩身な男を持ち上げた。そして石畳を強く蹴り付け、高く跳んだ。高くなった視界には、街の居住区にモノリスの様に単一的な造りの建造物がその正視の先に広がっている。その内の一つ、すぐ側のモノリスの頂上に足を着け、マルコを雑に床に落とした。
そこから見えるのは、黒く単一的なモノリスと遠くに聳える大昇降塔、それと街を取り囲む巨大な壁。壁は上層を支える、四本の大支柱の外周をぐるりと円を描く様に伸びて繋がっている。
「まるで、巨大な墓場だな。この街は」
「え? 墓場がなんです?」呟くサインの横で、マルコが埃を払いながら立ち上がる。落とされた際に砂埃を吸い込んだのか、一度だけごほっと咳をする。その質問に答える必要が無い為、サインは無視してマルコの体勢が整うのを無言で見ている。
「全く無愛想な方だ……」何を考えているのか分からない。時折会話は出来るが、その実サインという人間の本質部分は見えてこない。無愛想というよりも不気味と形容されるのが正しいだろう。その彼はマルコが問題なくなったと判断すると、再び腰帯を
掴み肩に担ぎ上げた。
「協会に向かうのはどっちだ」
マルコに落ち着く暇を与えずサインは問う。
問われたマルコは、サインの纏う衣服に染み付いた余りにも濃ゆい血の匂いに顔をしかめていた。
「……一番近くの大支柱、南にある奴です。その先に協会区の入り口と広場があります。しかし協会は閉じた組織です、月教会程ではありませんが──今更言うのもなんですが行ったところでその門扉を開けてくれるかどうか──」
言ってマルコは視線を落とす。この胡乱な男にも多少の不安を抱く能力があったのか、サインは僅かに感心を示した。
「安心しろ。開かないなら壊してでも開けてもらうだけだ」
心遣いのつもり──だが彼のその言動にマルコは安心どころか、余計に不安を抱かせた。サインはやはりその様に意識を向けず、南の大支柱その根元の広場をまず目指して再び外套を翻し、モノリスの上を渡って行った。
◇
月光に照らされ、路地に影を落としながら街の上を飛び駆ける。サインとその肩に担がれた男は協会の入り口、その手前にある広場に到着した。マルコは協会にまで辿り着ければ──と語っていたが、ここで彼らを待ち受けていたモノによってマルコの期待はあえなく散った。
「お前が思っているよりも、酷い状況になっているようだな」サインは既にマルコを降ろし、背の赤い布の一片に手を伸ばしている。
「みたいですね……まさか、こんな〈え……〉──怪物が居るとは」
マルコはサインから離れ、対峙した怪物とサインの戦いに巻き込まれない事に備えた。
彼らの前に立ちはだかるのは、痩身の人狼〈形り損ない〉とはまるで違う。正しく完全な姿を持った人狼。醜く強靭に発達した四肢は黒々とした爪を有し、両腕は柱の様に太く、その体が尋常では無い膂力を秘めている事が想像に難くない。そして今にもその怪物はサインに喰らい付こうと牙を濡らし、興奮した息遣いと共に、その歪んだ口元からは蒸気が漏れ出している。
「〈成体〉か。お前に似た奴を以前にも見た事がある」
告げて背中の赤布を勢い良く引き、内に包まれた歪んだ剣、〈牙〉がその姿を現した。それを右掌で掴むと赤布が剣の柄とサインの手を引き離さぬ様に巻きつく。文字通り剣身一体となり、サインは怪物と対峙する。
〈成体〉と呼ばれた怪物、巨躯の人狼は溶解した黄色の瞳孔でサインを見据える。正面に立つ男がここで喰らった人間と厄狩り共とは違う、力を持った存在だと獣の本能が告げていた。しかし、正常な理性など持ち合わせてなどいない獣に類する怪物に退くなどという発想、それどころか思考すら存在しない。相対してしまった以上、獣は人を喰らい、狩人は獣を狩り殺さなければならない。それが摂理。
獣の本能がサインの力を感じ取る様に、サインの内にも似た感覚が沸いている。それは妙な感覚であった。思考は冷静、どう立ち向かうか、身体は合理的な戦いを理解し、それを実行すればいい。だというのに──この身は破滅的な程に奴の血を欲している。
抑え難い感覚。思考を奪われかねない暴力的な飢餓感がサインを襲った。それに抗う術がない事を知っている以上、彼はその飢餓感の渦、その中ではただ意識を奪われない様にする事が限界だった。
成体とサインが対峙して、一分。二体の間にある静寂、それはしばらくの間広場を揺蕩っていたが、その終わりは直ぐに訪れた。
獣が咆哮を上げる。悲鳴の様に甲高い叫び声、聴く者の不安を煽り、精神を歪めてしまう。聴いていたマルコは耳を塞ぎ、がたがたと肩を震わせ完全に怯えきっている。よって静寂は無惨に引き裂かれ、獣と狩人だけが対峙する。言い難い焦燥感がサインの身体を迸る、同時に緊張感も高まる。
携えられた歪な剣が呼応するかの様に形を変え、牙が表出する。
「──ああ。いいな、お前。久々に満たされそうだ」
青白い眼を細め嬉々とした様子で言葉を漏らす。この場には確かについ先程まで、人と獣がいた。人らしい感覚があった。
しかしそれ以上にサインの内の何か、制御の効かなくなったそれがサインを咆えさせた。
「はははははははっはははははっはははははははははっっ!!」
──狂気が蔓延した。
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