終章:もう一度
——……あれから、どれくらい経っただろう。
俺はカレンダーに目を移してみた。
もう、八月も中旬に差しかかる。夏休みは終わりに向かって、暑さも少しずつ引いていっている。
だけど、沙羅は……先月の二十三日以来、一向に、部屋から出て来ない。
母さんが作っておいてくれた夕飯のカレーを、二人分、皿に盛り付ける。一つは俺の分。もう一つは、沙羅の部屋に届ける分。ノックしても、話しかけても、反応が返ってくることはないけど……食事だけは、少しずつ食べる量が増えてきた。
早く、元気になってくれるといいんだけどな。
俺はやっぱり……少しずつでも、昔の明るい沙羅が、戻ってきてほしい。
——……と。
不意に、階段を降りる足音が聞こえた。
今、家にいるのは、俺と沙羅だけだ。
……まさか!
「沙羅……!?」
リビングのドアに駆け寄る。俺が開けるより一瞬速く、向こう側からドアノブがひねられた。
「——うわっ、びっくりした」
目の前にいたのは、やっぱり……沙羅だった。
顔色は良いとは言えないけど、そこまで具合の悪そうな雰囲気もない。
「お兄ちゃん、どうしたの? トイレ近いの?」
……声も、元気そうだ。
「あ……いや、そういうわけじゃなくて」
「ふーん……あっ、今日のご飯、カレー!? いい匂ーい!」
沙羅は俺の隣を抜けて、キッチンのほうに駆けていく。
今まで引きこもってたのが嘘みたいに、いつもの沙羅だ。
「さ……沙羅。もう、大丈夫なの?」
「え? 大丈夫って……何が?」
「その……体調、とか」
「んー、お腹はすいてる」
沙羅は、カレーの入った自分の皿を持ち上げて、とてとて歩いてくる。
「お兄ちゃん、食べないの?」
「あ、うん……食べる、けど……」
「……何、お兄ちゃん。さっきから、ちょっといつもと違う」
椅子に座りながら、沙羅は怪訝そうな顔で俺を見てくる。本当に、返事すらしなかったこの数週間が嘘みたいだ。
無理をして、元気なふりをしていないだろうか……。
「沙羅。その……無理しなくても、いいんだよ」
そう言うと、沙羅の目が少し丸くなった。幼い頃からあまり形の変わらない目を見つめて、言葉を続ける。
「確かに、俺も、母さんも父さんも……早く沙羅に元気になってほしいとは思ってたけど。あんなことがあったんだし……立ち直るのはゆっくりだって、いいんだよ?」
いつかは、元の生活に戻らないといけない。受け入れがたいことだけど、どうしても最後には受け入れて、生きていかなきゃならない。
それは、すごく辛いことだけど。沙羅自身が、どうにかしないといけない問題だけど。俺たち家族にまで嘘をつきながら、たった一人で頑張って欲しいわけじゃない。
そんな思いを込めるように、丸い瞳を見つめ続ける。
ふっと沙羅が微笑んだ。
「……ありがとう。でもね、大丈夫だよ、お兄ちゃん」
その声は、とても穏やかで。同時に、少しだけ、何かを諦めたような響きがあった。
「お兄ちゃん、私が急に引きこもるのやめたから、びっくりしたんでしょ? だけど、私は無理して元気になったりしてないよ」
どこかおどけるように、沙羅が笑う。
「さすがにちょっと辛すぎて、何にもできなくなっちゃったけどさ。いつかは、立ち直らなきゃいけないし、ね」
その笑顔に、少し目が熱くなってくる。
よかった。やっと沙羅は、前を向いてくれる。ずっと同じ時間に縛られずに、生きていけるんだ。
「……そうだね。よかったよ、沙羅がそう思ってくれて……」
「ちょっと、お兄ちゃん、なんで涙目なのー! 涙もろいなあ」
笑いながら立ち上がった沙羅が、俺の肩を軽く叩いてくる。
「まあ、でも……すぐに全部忘れられるわけじゃないけどさ」
「全部は忘れなくたっていいんだよ。……もし沙羅が大丈夫なら、お墓参りとかも……今度、一緒に行こうか?」
「そうだね……ちゃんと、璃奈に挨拶しないと、ね」
——……え?
「……沙羅」
ざわざわと、胸が苦しくなっていく。
「どうしたの?」
不安で、埋まっていく。
「今……何て、言った?」
恐怖で、詰まっていく。
「え? だから……『璃奈に挨拶しないと』、って」
沙羅は、いつもの顔のままだ。
——いつもの、目だ。
「璃奈、って……誰のこと……?」
「え……お兄ちゃん、忘れちゃったの?」
——今を、見ていない目だ。
「璃桜の双子の妹だよ。去年……事故で、亡くなっちゃったでしょ」
「それは……璃桜ちゃん、だろ? 璃奈なんて子……双子の妹なんて、いなかったよ」
「何言ってるの! ちょっとひどいよ、お兄ちゃん。いたでしょ? 璃桜と同じくらい仲良しの、私の親友だった子だよ」
——現実を見ていない目のまま、沙羅は、語る。
「それに、璃桜はまだ生きてるもん! ほらっ」
沙羅が部屋着のポケットから出したスマホの画面が、俺に向く。SNSのメッセージ画面だ。
『沙羅ちゃん、大丈夫?』
『あんまり……。でも、璃桜はもっと大丈夫じゃないでしょ?』
『正直キツイ(涙) でも、こういうときこそ、沙羅ちゃんに会って話したいなって』
『わかった、会おう! ふたりでいるほうがしんどくないよね』
『よかった! じゃあ、明日学校で会おうね』
そんなメッセージが並んでいる。
沙羅のアカウントと、もう動かないはずの璃桜ちゃんのアカウントだ。
……また、沙羅が自分で動かしたんだ。璃桜ちゃんのパスワードを使って。
「ね、生きてるでしょ? だから、明日から私も部活行くんだ。それで璃桜に会うの」
沙羅は楽しそうに、無邪気に笑う。
この子は、もしかしたら、何度でも親友が死んだ事実をねじ曲げるのかもしれない。
作り上げて、書き換えて、本当のことは忘れて、受け入れずに生き続けるのかもしれない。
生前のあの子がいた時間を、自分の中で何度も繰り返して、古い時間に居続けるのかもしれない。
——……俺は、どうしたらいいんだろう。
この子は、どうしたら救われるんだ。
立ちつくす俺の横を過ぎて、沙羅はカレンダーに歩み寄る。
そして、オレンジ色のペンで、二十三日にマルを付けた。
待ち合わせは、いつもの駅前 角霧きのこ @k1n05
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