第七章:記憶

 ——……蝉の声が、聞こえていた。

 嵐の日の雨音みたいに。

 強い日射しから逃げて、駅の屋根の中に入った。

 空気が、べたべたと熱かった。


「——……沙羅!」


 不意に呼ばれて、顔を上げる。

 お兄ちゃんが、いつの間にか立っていた。肩で息をして、顔中汗まみれにして。


「どうしたの、お兄ちゃん? 大丈夫?」


 ハンカチをバッグから出して、お兄ちゃんの額を拭った。


「電話……しようとっ、思ったんだけど……俺のケータイ、電池切れてて……っ」


 切れる息の合間に、お兄ちゃんは必死に喋っていた。


「大変なんだ……璃桜ちゃんが!」


「……璃桜、が?」


 蝉の声が、ざらざらと響いてきて。

 胸の中にまで、言いようのないざらざらした感覚が、充満した。



 お兄ちゃんに、連れて行かれた病院。霊安室。

 白い布の下にあった顔は、私の親友と同じ顔で。


「車道を走っていた車が、いきなり歩道に突っ込んでいったって……」


「警察が調査を……飲酒運転かもって……」


 そんな声は聞こえたけど、璃桜の声は、少しも聞こえなかった。



 みんな、黒い服を着て。

 お経が響く部屋にみんなで座って。

 気がついたら、お墓の前で。


「……沙羅、そろそろ行こう」


 お兄ちゃんの、声がした。

 行くって、どこに?

 振り向くと、璃桜の家族が見えた。

 みんな悲しそうな顔。璃桜のお母さんは泣いている。


「……璃桜は」


 お兄ちゃんに顔を向けて、尋ねる。


「璃桜は、どこ?」


 そうだ。璃桜がいない。

 璃桜の家族はみんないるのに、あの子だけ、いないの。

 どこにもいない。

 璃桜は、どこ?


「え……沙羅、何を」


 お兄ちゃんが戸惑っている。

 どうして、そんなに驚いてるんだろう?


「……あっ、わかった。璃桜、他のところにいるんでしょ」


 そうだ。きっとそうだよ。

 あの子、昔から好奇心旺盛だから。目を離すと、すぐどこか行っちゃうもんね。

 もう、璃桜ったら。


「仕方ないなあ。私、探してくるね」


 走り出そうとすると、お兄ちゃんが慌てて私を捕まえた。


「ちょっ、沙羅……! どこ行くんだ!」


 お兄ちゃん、どうしてそんな青い顔してるの?

 ……ああ、きっとまたいつもの心配性だ。私ももう高校生なんだけどなあ。


「大丈夫。璃桜の行きそうな場所ならわかるもん、すぐ見つかるよ」


 笑いかけて、また駆け出す。お兄ちゃんの手がほどけた。


「待って、沙羅! ……沙羅!!」


 お兄ちゃんの声が追いかけてきた。大丈夫だって言ってるのに。

 それより、早く見つけなきゃ。



 璃桜、どこにいるんだろう。


  *


「——……りお……璃桜が、いない」


 口から不意に零れた言葉は、雨の音にかき消されそうなくらい、細い音だった。

 私の右肩を、お兄ちゃんの手が、優しく撫でる。


「……璃桜ちゃんがいなくなって辛いのは、よく分かるよ。あの子は、沙羅のいちばんの親友だったもんな」


「うん……そう。私の、いちばんの親友」


 璃桜。親友。

 いない。生きてない。どこに行っても……もう、会えない。


「……ちがう」


 思わず、言葉が出る。

 違う。違う。そんなこと、ない。

 あの子は生きてる。あの子は、ちゃんといる。


「沙羅?」


 お兄ちゃんの声。同時に、右肩を軽く叩かれる。


「やめて……やめて、違うの!」


 手を振り払う。足がふらついて、石畳にへたり込む。


「違うの……あの子は……あの子は、死んでない……」


 ううん。本当は、わかってる。

 あの子は、もういないの。

 どんなに待っても、何度この駅前に来ても、あの子には会えないの。

 ——嫌、そんなの嫌! 違う!!

 だって、いやだ。あの子がいない世界なんて、いや。


「嫌だ……璃桜、どうして……」


 どうして。

 どうして、いなくなってしまったの。


「璃桜……っ!!」


 もう、言葉が出なかった。

 喉が絞られるように詰まって、胸が痛くて、苦しくて、泣き声しか出せなかった。

 優しい手が、私の背中を、ずっと撫でていた。

 きっと璃桜が……ううん、違う。

 だって、あの子の手はこんなに大きくないもん。


「……帰ろう、沙羅」


 耳元でそう言った声も、あの子の声じゃない。

 一年前のあのときよりも、ずっとゆっくり、お兄ちゃんに手を引かれて歩き出した。

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