第16話
「反則だよ。ボケが本当にボケてるってのは」
病院の中庭にあるベンチで高田は溝口と並んで座っていた。
「二度と使えない手だと思ったんだけど」
高田は小さな声で答える。
一瞬でも笑わせることが出来るかもしれないとは思っていた。だが、同時に溝口を怒らせてしまう、傷つけてしまう可能性だってなくはなかった。信平との話し合いの中から出てきたアイディアではあったが、それだけリスクが高いことも承知していた。その時には謝って済む問題ではないことくらいわかっていたし、それをやってまで溝口に自分は何を期待しているのだと考えなくもなかった。それでも今、自分の隣で思い出し笑いを噛み殺している溝口を見て、高田は胸のうちにつかえていた黒い塊のようなものがゆっくりと溶けてどこかへ流れて消えて行くのをはっきりと感じていた。
「何度もしつこく溝口さんに付きまとって本当にすみませんでした」
高田は頭を下げた。正直に言えば、ここまで溝口になぜ自分が執着していたのか、うっすらとではあるが高田は自覚していた。
ただ笑わせてやると思っていただけではない。何とかして溝口の笑う顔を見たいと思っていたからだ。お笑いが大好きで、人一倍笑うことが好きだったであろう溝口に、一瞬でも楽しいと思って、笑って欲しかったからだ。
そんな風に思うのは始めてのことだった。
高田の表情から何かを悟ったのか、溝口がやや口調を変えてあらたまった感じで言った。
「あ、お父さんのことをネタにしたってこと自体は気にしないで。笑うのは認知症の治療にいいって言うし。ていうか、元々お父さんがちんぷんかんぷんなこと言い出したとき私笑っちゃったことあるしね」
「…お父さんと話したんだけど、溝口さんの前では自分はしっかりしていたいってずっと思っていたみたいです。君に迷惑をかけたくないからって。でも、これから迷惑をかけるのに、それすらわからなくなる前に何とかお礼を言いたいって聞いて、俺から提案したんです」
「頑固っていうか、見栄っ張りっていうか、プライド高いっていうか」
溝口がうんざりした顔で言う。
「別にこんな風に言われなくたって、こっちは面倒見るつもりだけどね。今までずっと、嫁にも行かない娘の面倒男手一つで見ててくれたんだから」
会話が途切れる。
「これで、あなたが笑わせたかった人って全部笑わせられたの?」
溝口がぽつりと呟くように言った。
「はい」
「これからどうするつもり?目的なくしちゃって」
「最初からそれ以上のこと考えてないから、いいんです」
どうせ死ぬんで、とは言えなかった。
「そうか。でもこの何ヶ月かの高田君、人が変わったみたいだったよ」
「どんな風にですか?」
「うーん、なんか…」
かっこよくなったとか。高田がそう言いかけたとき、溝口が言った。
「鬼気迫るものがあるというか、怖かった」
まあ、それも当たってるか。こっちは本当の死ぬ気でやってたからな。
空を仰ぐと雲一つない青空で、高田は線香の青雲のCMを思い出していた。
死んだら溝口は線香の一つもあげてくれるだろうか。
そんなことを考えていた。
■
部屋で一人、高田は最後のネタを仕上げていた。
明日の新入社員歓迎会で任されたスピーチを終えれば、自分の役目は終わる。
会場に集まった全社員と新入社員を相手に笑いを取って、それでおしまい、だ。
俺がもう誰かを笑わせることは二度と無い。
部屋の壁に貼った「全員笑わせたらオサラバだ」と「人生を楽しむな」の張り紙を改めて見直して気合を入れ直す。
原稿を読み返してネタの仕上がりを確認する。問題ない出来だった。これで本当に最後だ。この何ヶ月かを思い出した。どいつもこいつも、俺が少し本気を出せばこんなものだ。やっぱり俺の方が面白かった。ざまあみろ、だ。
溝口の楽しそうに笑う顔を思い出す。もう、やらなきゃいけないことなんて無いだろう。お前は自分のやりたいことを出来たんだろう。もちろんだ。わかっている。わかっている。確かめるように自分自身に言い聞かせて、高田は記憶の中の溝口の顔を消した。
思い出など、自分を苦しめるだけなのだから。
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