第14話
考えた末の選択ではあった。
そこまですることが果たして正しいことかどうかはとりあえず置いておき、今は自分の考える方向に自分の体を動かすことが第一だと考えた。それは高田の人生の中でも滅多に無いことだった。
高田は病院に来ていた。
もちろん、溝口の父親が入院している病院だった。本人に直接断って来ることも考えたが、会社を辞めてまで父親の介護をする決意をした溝口のことだから、見舞いに行きたいと言えばそれだけで来院を拒むのは目に見えていた。まして相手が高田であればなおさらだろう。
迷っているうちに高田は溝口のあとを付けてこの病院まで来てしまったのだ。
そうして彼は今、溝口が病室から出てくるのを見てから、部屋の前までやってきていた。
入口脇には名札が出ている。「溝口信平」
ノブヘイ…?
自分の飼っている亀に父親の名前を付けているとは思わなかった。やはり、貝ひも大統領は只者ではない。
「まさるくん!まさるくんでしょう!」
ノックをし「失礼します」と入ると同時に溝口の父親こと信平は想像以上の大きな声で快活に言った。
周りに聞こえやしないかとおろおろしながら「そうです、まさるです」と小さな声で言い、とりあえずは話を合わせてこの場を収めないといけない、とにわかに慌てた頭で考えた。
「いやあ、まさるくんが来てくれるとは思わなかったよ。今日は学校はどうしたんだ?」
「あの、今日は休みです」
「休み?何でだ?」
「えーあの、インフルエンザが流行ってて、学級閉鎖なんです」
「そうかあ!」
どうも耳が遠いとかそういうことを抜きにして、元来声の大きい人らしい。
個室だし、とりあえずはまあいいかと割り切 って高田は話を進めることにした。すると、先ほどまでにこやかに笑っていた顔が晴れ間に雲が重なるようにさっと暗く陰って行き、同時に声のボリュームもトーンも、数段階抑えた調子で
「君は…まさる君じゃないな…?」
と言い出した。記憶にムラがあるようだ。信平の顔がみるみる沈んで行く。高田はすかさず言った。
「すみません。私は智子さんの同僚の、高田と申します。お父さん…ノブヘイさんのお見舞いに参りました」
お父さんという呼び方が出来る間柄では無い、と言いかけてから思わず呼び直してしまう。言ってから、下の名前を知っている方がよっぽどおかしいのではないかと思ったが、もはや訂正することも出来なかった。
信平の顔は幾分強張ったままだったが、それでも視線は高田を捉えて落ち着きを取り戻したようだった。
「すまない。恥ずかしいところをお見せしました。…病気のことは、智子から聞いているかもしれませんが」
「聞いています。ただ、お父さん…信平さんにお聞きしたいことがあって本日は伺ったんです」
信平が怪訝そうな顔になって言う。
「…と言うと」
高田は信平の目を見て言った。
「智子さんは、どんなお子さんでしたか?」
■
信平は話し始めると饒舌な男だった。
妻が乳がんで亡くなってから、男手一つで智子を育ててきたこと。智子が反抗期もなく育ち、就職をしてからはすぐに一人暮らしを始め、今では仕送りをしながら週末は実家に家事をしに戻ってきてくれること。自分の存在のために、娘の婚期を遅らせてしまったのではないかと思っていること。
途中から認知症であることを忘れてしまいそうになるほどはっきりとした口調で自分と娘のことについて子細に語った。娘の会社の一同僚にどうしてここまで話してくれるのかと高田は不思議に思ったが、どうやら途中から信平は誰かに対して話しているというよりも、自分自身で思い出すために話をしているようだった。
「うちは母親がいないでしょう。私もできる限りあの子の為に時間を取ってきたつもりではいるが、やはり、母親の役割は父親ができるほど簡単なものではなくてね。智子が小さい頃、満足に時間を取れない時はテレビをいつも見せていた。お笑いが好きな子でね。もともと私が好きで見ていた寄席などを見るようになって、それからはあっという間にあの子の方が詳しくなってしまった」
「…お父さんもお笑いを?」
「昔はよく見てたよ。学生時代は落研にも入っていた。漫才でね、コンビを組んで」
見つけた。高田は直感した。これしかない。一か八かに賭けるしかない。
「信平さん!」
高田は思わずベッドの上に身を乗り出して信平の手を取った。急な展開に信平は身を硬くしている。
「な、何だね…」
「一つだけ協力してもらいたいことがあるんです。聞いてもらえますか」
■
いつものように信平と話してから病室の外に出ると、そこに溝口が立っていた。手に何やら持っている。
果物か何かを差し入れに来たところのようだった。
「何で高田君がここにいるの…?」
「いや、たまたま通りかかって…」
「そんなわけないでしょう!信じられない。どうして黙ってたの?」
溝口の目元にみるみる涙が溜まって行き、声が次第に大きくなっていった。
「黙ってたのはごめんなさい。でも、僕は溝口さんに笑ってもらうためにどうしたらいいんだろうって思ってて、それで…」
「いい加減にしてよ!」
手に持っていた包み紙を溝口が高田に向かって投げつけた。高田の肩のあたりに当たったそれは勢いを無くして床に落ちると、破れた裂け目から姿を表した。パックに入った苺だった。
「もう終わりにしてって言ったじゃない。何で私に付きまとうの。放っておいてよ。人の人生に踏み込んできてまで笑わせてやるってどういう神経してんの?誰が笑わせてくれって頼んだのよ。帰って。帰ってください」
笑わせたい人が、これだけ悲しんでいる。
それなのに、今自分は、まだ彼女を笑顔にできていないどころか、泣かせてしまった。
高田の足元で、苺がひしゃげて赤い液体が床に流れ出しているのが見えた。
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