第13話
週明けの月曜日。
出社し、パソコンを立ち上げると同時に浮き上がる社内イントラネットの「人事よりお知らせ」に「NEW」マークが赤く点灯していたので、流れ作業的にそこをクリックする。
「退社」という文字がまず目に入る。そのまま画面をスクロールさせると、そこには「経理 溝口智子」とある。慌てて椅子に座り直し、もう一度画面を凝視する。
「退社 経理 溝口智子を一身上の都合により退社とする。以上」
表示された文章はそれだけだった。
溝口が退社する。そのことについて何の予兆も無かった。ついこの間一緒にお笑いライブを見に行った時もそんな素振りは全くなかった。
とりあえずデスクの上の電話を内線をかけてみる。すぐに「経理です」と別の人間が応対する。溝口を呼び出してもらおうとするが、すでに有給の消化に入っていると言う。実質の最終出社は先週の金曜日で終わっており、送別会まで済んでいるのだという。
イントラネット上の掲示がこのタイミングになったのは本人の強い希望があってのことらしい。迷惑をかけないように引き継ぎに関しては一ヶ月かけて完全に終わらせていたそうだ。
親切にそうした溝口の最後まで後を濁さない完璧な引き際を教えてくれた女性は「クレジット関連のことでしたら私の方で引き継いでますけど、その件ですか?」と尋ねてくれたものの、高田は某然としたまま「いえ、大丈夫です」と答えるのが精一杯だった。
受話器を下ろしてしばしパソコンのモニターを見つめる。
思い返しスマートフォンを取り出すとメール作成画面を呼び出し、文字を打ち込む。
「会社辞めるんですか?どうして」
そこまで打ち込み、高田は自分が溝口に対してそこまで聞くことが許されている人間なのだろうかと反芻する。
趣味を通じてたった一度ライブを見に行っただけの関係だ。彼女にとってはそれ以上でも以下でもないだろう。もしかしたらそれ以上に高田の踏み込み方を不快に感じていた可能性だってある。
最後に彼女から突きつけられた「あなたは人を笑わせようとしているのに自分はちっとも楽しそうじゃない」という言葉がまだ頭の中に焦げ付いたようにこびりついている。
そんなことは関係ない。今は自分が知りたいという気持ちを優先させよう、と高田は自分を肯定した。十年以上勤めた会社を三十半ばの女が辞めるのだ。普通に考えれば結婚し寿退社か、キャリア思考の女性であれば転職だろう。そのどちらの要素も正直全く感じられないが、そう断定できるほど彼女のことを自分が知らないことを高田は理解していた。メールを読み返し、何度か推敲したのち、結局、最終的には
「社内の掲示板見ました。ライブにはもう行けませんか?」
という業務事項を伝達するような内容になってしまったが、まだ事情がわからないうちは変に感情的な内容より、淡々とした方がいいのだともはや盲目的に自分を肯定することにして高田は送信ボタンを押した。
返信は思っていたより早くやってきて高田はドキドキしながら受信メールを開いた。
「一度会ってきちんと話せませんか?」
■
溝口に指定された喫茶店に向かうと、彼女はすでに席に着いていた。
近づいていくと気配に気がついたのか顔を上げ、少しだけ笑って見せたがほんの数日前会ったばかりだというのに、その時よりも彼女の顔は幾分やつれたように見えた。高田が席に着いてアイスコーヒーを頼むと溝口は間髪いれずに言った。
「この間、ごめん」
声は小さく、周囲の客の話し声に紛れて聞き逃しそうなほどだった。溝口から先日のことについて謝られるとは思っていなかったので、高田は面食らって慌てた。
「いや、あれは僕も悪いので…気にしないでください」
ほんの少しの間溝口は何かを考えるように自分の手元を見つめていたが、やがて吐き出すように喋り始めた。
「会社のこと、何も言わないでいてごめんね。会社は遅かれ早かれ辞めるつもりだったんだ。その時期が少しだけ早くなっただけなんだけどね」
高田が何も言えないでいると、自分の中で言葉を整理するように何度か唇を舐めてから溝口は続けた。
「ひと月ほど前に父が出先で事故にあったの。うちは母が私が子供の頃亡くなって、それ以来二人で暮らしてて。今は父が実家に一人でいるんだけど、私が会社行ってる時に出歩いてて、その時に。車と軽い接触事故を起こしたみたいなんだけど、相手はそのまま逃げてしまったみたいでね。幸い見てた人がいてすぐに病院に連れていってもらえて、検査したら軽い打撲程度で済んでた。でも、もしかしたら死んでたっておかしくない状況だったの」
溝口は手元にあったアイスティーを口に含む言った。
「痴呆が始まっててね。今回が始めてじゃないの、そういう徘徊は。最近は認知症っていうのが一般的みたいだけど」
痴呆、という言葉を言う時に、溝口は極力感情が入らないようにしたかったのか、平坦なトーンで言葉を続けたが、それがかえって彼女の中で受け止めている現実の大きさと重さを表しているように高田には感じられた。
溝口は手元でタオルのおしぼりを開いたり閉じたりということを何度も繰り返しながら話した。高田はその手元を見ながら会ったことも無い溝口の父親をイメージしてみる。
背は高いのだろうな。年齢的には六十代くらいだろうか。なんとなくだが、頭髪はまだしっかり残っていて髪の毛も割合黒いものの方が多いのではないかと思った。もちろん若くても認知症が始まるということは十分高田も承知していたつもりだが、それでも溝口の言葉に、高田は少なからずショックを受けていた。
「今まではヘルパーさんとか、叔母と私で交代で様子を見に行ってて、いずれは会社を辞めて私が介護するつもりだったんだけど、今回の件もあったし、離れたまま暮らすのはもう難しいなと思って。それで思い切って会社辞めちゃった。遠いしね」
「…今お父さんの具合は、どうなんですか」
高田が口を開くと同時にアイスコーヒーがやってきて、かがんだウエイトレスのすぐ耳元で喋るような形になってしまい思わず気まずくなる。ウエイトレスも怪訝な表情をして、嫌なことを聞いてしまったと言う表情を浮かべてそそくさと立ち去った。
「今は落ち着いてるよ。というか、事故の前よりマシになったかなと思うくらい。とは言っても認知症自体は治るもんじゃないから、これからが大変なんだろうけど」
そう言って溝口は少しだけ笑って見せた。普段の会話では笑顔を見せない溝口が、この話題を話すに当たって無理に笑顔を作ろうとして見せていることが高田には辛かった。
自分は彼女のことを知っているつもりになっていただけで、結局のところ何も知らなかった。上辺だけを見て彼女を笑わせてやろうなどと思い上がっていたのだ。高田は彼女が面白いことがこれだけ純粋に好きなのに、笑顔を見せることもなく淡々と仕事をこなしていた理由を改めて思い知った。
「だからね、もうおしまいにさせて。今私、うまく笑えなくなってるんだ」
溝口が下を向いたまま言った。高田は何も言えずにアイスコーヒーを一口啜った。
「あなたの話、全部本当は面白いと思ってたよ。だけど、今は私に余裕が無いだけだから。また少し落ち着いたら連絡するよ。ごめん」
そういうと、じゃあこれからあたし病院行かなきゃいけないから、と溝口は伝票を持って立ち上がる。高田がそれを制そうとすると、誘ったのあたしだから、と足早に出口へ向かってしまった。
何をやってるんだ、と高田は自分を殴りつけたくなった。
これで諦めるっていうのか。もう一方で現実的な自分がじゃあどうしろって言うんだ、無理やりにでも彼女を笑わせろっていうのか、いやそもそも笑わせるっていうのが俺のエゴでしかないだろ、そんなものを今のあの人に押し付けてどうすんだよ、といなす。どうせ死ぬんだから死ぬ気で人を笑わせてやるなんて、一人で鼻息荒くしてたのはどこの誰だよ。お前は結局、おまえの周りの人間でさえ笑わせることなんて出来ないんじゃないか。
高田は椅子から立ち上がることも出来ずに外へ消えて行く溝口の後姿を見つめていた。
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