第12話

 結果からいえば、彼女の笑いのポイントを知ることは全く出来なかった。一時間半ほどのライブ中彼女は一回も笑わなかったからだ。

 

 次から次へとステージに登場する芸人たちのネタに場内の観客たちはウケにウケて耳が痛いほどの笑い声に溢れていたが、ステージの方をじっと見つめたまま表情を一切変えない溝口と、そんな溝口がいつかくすっとでも笑うのではないかと凝視しているためにネタどころではない高田の二人の空間だけがまるで別の世界のように静まり返っていた。


 ライブを見終わったあと、遅めの夕飯でも食べようと言うことになり二人はライブ会場からほど近いファミレスに入った。


「そう言えば、高田君、あんまり笑ってなかったね」


 メニューを戻しながら溝口は言った。


「そう言う溝口さんも、あまり笑ってなかったような気が…」

「そうかな?私面白いと思ってもあんまり声出して笑うタイプじゃないからだと思う。よく言われるんだよね。面白いっていう割にはあんまり笑わないねって」


 そうか、別に実際に笑うところを見なくたっていいのだ。誰が面白いと思ったのか、そのネタのどの辺りが面白かったのかを直接この場で聞けばいい話ではないか。


「じゃあ、本当は面白いって思ったところもあったんですね?例えばどの辺が…」

「お待たせしました、特盛りミックスグリル定食大盛りです」


 高田と溝口の間にじゅうじゅうと鉄板の上で美味しそうな音を立てる料理が運ばれてきた。溝口が頼んだものだ。タイミングを失ったまま高田が鉄板の上の肉の塊に目を奪われていると、溝口が言った。


「じゃあこのあと、私の家で続きの話しない?」



 フローリングの床に所在なくぺたんと座ったまま高田は、一体自分はなぜここでこんなことをしているのだろうと思った。


 溝口の部屋は彼女の性格をそのまま投影したかのようにすみずみまで整理整頓が行き届いた無駄なものの一切ない部屋で、この部屋で無駄なものといえば自分くらいのものではないかと高田は思った。

 部屋には、まるで会社で使っていそうな頑丈そうなスチール製の棚があり、そこにはお笑い芸人のライブや落語の公開寄席、年代を問わず人気を集めたバラエティ番組などのDVDがぎっしりと並べられていた。数百枚はあるだろう。嗜好が一貫していないだろうかとタイトルを端から順に見て行ったが、あまりに数が多すぎて途中で見るのを諦めた。

それでも一つわかったことは、溝口がお笑いに関して何か特定の趣味思考を持っているというよりは「お笑い」そのものが好きなのだ、ということだった。棚の横には水槽が置いてあり、中には一匹のミドリガメが悠々と泳いでいるのが見えた。


「飲まない?」


 溝口が手に缶ビールを二つ持って戻ってきた。普段ひっつめられている髪がなぜかほどかれ、肩まで降りている。服もいつの間にか先ほどまで着ていたワンピースから部屋着と思しきゆったりとしたカットソーに取り替えられていた。そうして彼女を見てみると、普段の印象とはずいぶん違って柔らかく見え、高田は突然彼女に「女」を意識してどぎまぎしてしまった。何しろ二十九年間女性と付き合ったことがないのだから、無理もない。缶ビールを持ったまま屈む溝口の襟ぐりから胸元が見えそうになって思わず高田は目を伏せた。


「どうしたの?」


 溝口が不思議そうに尋ねてくる。


「いや、なななななんでもないです」

「変なの」

「あの、亀が…」

「ああ、ノブヘイのこと?もう十年くらい生きてるかなあ。学生の時縁日で偶然もらっちゃって、捨てるわけにも行かないし」


 ローテーブルにビールを置くと、溝口はそのまま高田のすぐ近くに腰を降ろした。距離は十センチも空いていないだろう。鼻先に何の香りかわからないが、溝口から発せられている何かの匂いが漂ってきてそれが高田を一層緊張させた。もはや最初の目的をわすれかけていたが、それでもここが踏ん張りどころだと思って溝口の方を向く。口を開きかけたところで溝口がそれを防ぐように言った。


「高田くんは今彼女いるの?」

「え…?」

「何か今日二人でライブや見に行って食事して、まるでデートしてたみたいだね」

「そう、ですね…」


 確かにそれは思っていた。途中から溝口と二人でいれることをちょっと嬉しく思っている自分がいることに高田は気がついていたが、気がつかないふりをして自分自身に笑いのツボを探せと言い聞かせていた。溝口がこちらにぐっと顔を近づけて言った。


「じゃあ、このまま付き合っちゃうのはどうかな?」


 空気が急に濃密になったような気がした。部屋の中の静寂が痛いほどの耳に響く。


「…なんてね」


 溝口の顔が離れた。呆けたように溝口から視線を外せない高田の方を見たままぷっと噴き出すと「高田くん、緊張しすぎで顔が固まっちゃってたよ」と言う。


「最初からわかってたよ。君がなんで私のこと誘ったのか。私がどこで笑うか調べたかったんでしょ」


 言いながらビールをあおってソファの上にどすんと座った。高田は唖然としたままその様子を見るしかなかった。


「だからわざと今日は一回も笑わなかったんだよ。あーあ、面白いところいっぱいあったのにな。素直に笑えなくて超ストレスだったよ」


 最初から溝口には何もかもお見通しだったということか。高田の中で何かがぶつんとちぎれる音がした。


「そんなことしなくても、素直に笑えばいいじゃないですか!」


 恥ずかしさから高田は自分で思っていた以上の大きな声を出してしまい、自分自身ひどく動揺した。


「ねえ、一つ言っていいかな」


 溝口がいつも以上に硬い表情を浮かべて切り出した。


「あなたが何で突然人を笑わせるようになったかは知らないし、別に知りたくもない。ただ、人のことを笑わせようとしているのに、何であなたがつまらなそうな顔してるの?あなたは周りの人を笑わせてるかもしれないけど、あなたのことを笑わせてくれる人だったいるはずでしょう?一人で笑うのって楽しいけど、ちょっとさみしいと思う。私はずっと一人で笑ってたからわかる。笑う時は誰かと一緒だともっと楽しくなるって今日わかった。あなたの笑いには自分自身が楽しもうとする気持ちが無い。だから、私は笑えないんじゃないかな」


 溝口はそこまでいっきに言うと、ふうっと大きく息を一つついた。


「…今日はありがとうございました」


高田は何とかそれだけ言うと立ち上がり、そのまま玄関へ向かって靴を履いて外へ出た。


「また誘ってね」


 という溝口の乾いた声が後ろから聞こえる。


 顔はやけに熱く火照っており、頭の中は鍋で煮込まれぐつぐつと沸き立っているようだった。自分のやっていることと、今目の前の現実がうまく頭の中で処理できずに、眩暈がしそうだった。


 そのまま走り続けると泣いてしまうと思ったが、意外と涙は出なかった。

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