第10話

「経理の溝口さん、ですか?」


 昼休み、デスクでコンビニのパンを齧りながら午後に控えている取引先とのネタ合わせをしていた高田の元に広報部の先輩である北方きたかたがやって来た。

 彼はやってくるなり「お前とぜひとも対面させたい女がいる」と言い出したのだ。それが経理部の溝口という女性らしい。


「なんつっても、鉄仮面と呼ばれてるくらいだからな」

「笑わない、ってことですか」

「ああ、入社以来あいつが笑ってるところなんてみたヤツいないんじゃないか?

生まれた時から仏頂面だったらしい」


 高田の会社人生においてほぼ一回も面識のなかったその女の存在が、その日以来妙に気になるものになっていった。

 社内イントラネットの社員写真掲示板を確認してみても、写真を見せても思い出せないほどの薄い印象しかない、ということくらいしかわからなかった。

 真っ黒な長い髪の毛を後ろで一つにぎゅっと縛り、黒縁の細長いフレームのメガネをかけている。眉毛は薄く、ほとんど無いようにも見える。化粧も幸も全てが薄そうだ。


 それとなく聞き回ってみると、いくつかのことがわかってきた。

 名前は溝口智子みぞぐち ともこ。会社にいる間はとにかく全く笑わず「鉄人」「雪女」など揶揄されている。会社は定時で上がり、月に一度は必ず有給を取る。年齢は三十代半ばかそれ以上くらいで、現在独身。浮いた話の一つも無く、休日も何をしているかは全く不明。仕事は完璧で経理申請をきちんとしない人間への内線は相手が直立不動で凍りついてしまうほど冷酷なものであるらしい。幸い高田はまだこの溝口という女性から経理申請について不備を指摘されたことはなかったものの、その話を聞いた時には思わず内線受けなくてよかった、とほっとしてしまった。


 

 きっかけは突然訪れた。

 その日、高田は珍しく経理部に訪れていた。交通費費申請を行ったところ、申請した項目に不備があるとのことだった。昼食を取って戻ると、デスクの上に「経理 ミゾグチさんからTELあり 要折り返し」と書かれた伝言メモが置かれていた。折り返すと「直接説明した方が早いので来てください」と言われて一方的に電話を切られてしまったのだ。これは相当なもんだぞと高田は気分を重くして経理部へと辿り着いた。相手がわからずきょろきょろしていると


「あなたが高田さん?」


 と背後から声が掛けられた。

 振り向くとそこに黒髪をひっつめ、黒縁のメガネをかけた無表情な女が立っていた。眉毛も化粧も全てが薄い。首からぶら下げた社員証に目をやると「溝口」の文字が見えた。


「あ、あの営業の高田ですけど…」

「営業の方にはもう何時も言っているんですけどどうして間違えちゃうんですか!」


 高田の体が、誇張ではなく少しだけ床から飛び上がった。


「交通費清算の時にタクシーの領収書はクリップじゃなくて糊で留めてほしいんです。高田さんの出した書類、クリップだけ付いてて領収書がどこかですっぽ抜けてたから私会社中訪ねて回って探したんです。ものすごく迷惑です」


 溝口は直立不動のまま一方的に喋り続けた。高田は圧倒されたままその口元を眺めてなんて滑舌のいい女だろうと思っていた。


「結局見つかりましたからいいですけど、一回言っておかないとまた同じこと繰り返すと思ったんで言わせてもらいました。以上です」


 そういうと溝口はスタスタと自分の席へと戻って行ってしまった。周囲の人間はこうした出来事にはもう慣れているのか、涼しい顔でパソコンに向かってキーボードを叩く音だけが響いていた。こちらを向く者さえいない。

 高田は「…失礼しました」と誰にともなく一声かけて経理部を出た。



 土曜日。


 高田は一人電信柱の陰に隠れてマンションを見上げていた。

 事前に総務に適当な理由を付けて聞き出した溝口の住所までは高田の家から電車で約 二十分。オートロックで小綺麗な、単身者向けと思われるマンションだった。

 入居者の出入りに合わせて自分も中に入ってしまおうかとも思ったが、そこまでやると一線を超えてしまう気がするし(既に超えている気もしたが)そもそも中に入ったところですべきことも特に無い。 エントランスの前を行ったり来たりしている時、不意に中から人影が現れて、高田は慌てて電柱の影に隠れた。

 

 中から出てきたのは溝口だ。会社では見かけないようなラフなパーカーとジーンズという格好をしている。その手には何かが握られていた。そのままどこかへと向かう。

 一体何だ?

 高田は足音を殺して後を追った。溝口が向かった先は家から程近い距離にある郵便ポストだった。手に持っていたのはハガキの束のようだった。そのまま溝口は無造作にハガキをポストに突っ込むと、無表情のまま、家へと戻って行った。

 

 一体あんなに大量のハガキを、あの人付き合いの悪そうな女がどこに、誰に送るというのだ?

 高田の中で抑えきれない衝動が首をもたげた。どうしよう。知りたい。あの女が一体何を考えているのか。


 悶々としたままポストと溝口の家を交互に眺めていた高田の目に、こちらへやってくる一台のバイクが見えた。郵便局がハガキの回収にやってきたのだ。郵便局員はバイクから降りるとポストの鍵を開け、回収袋を取り出した。どうする?何も考えはなかったが、高田はポストに向かって走り出すと、叫んだ。


「ちょっと!ちょっと待ってくれ」


 呼ばれた方の郵便局員は袋を片手に持ったままぎょっとした顔でこちらを振り向いている。


「な、何ですか」

「実は…さっき間違えて会社への脅迫状をポストに入れてしまって」

「はい?」


 郵便局員は突然現れた男がおかしなことを言い出しているこの現状に明らかに不信感を抱いていた。


「うちの会社、年に一度運動会やるんですよ。僕、運動音痴だからそれが嫌で嫌で…だから運動会中止にしないと会社を爆破するぞって手紙を書いてしまったんです。勢いで」

「はあ…」

「でも差出人のところにも名前を書いてしまって…このまま手紙が届けられてしまったら、完全にクビです。僕一人で両親と姉と犬二匹養ってるんですよ。僕が倒れたらみんな倒れちゃうんです。ねえ、わかります?」


 既に郵便局員の顔からは不信感を通り越して恐怖の色が浮かんでいた。もうこうなったらこのままの勢いで押し切るしかない。


「だから、あなたの持っているその回収袋から私の手紙を取り戻させてください!」


 そういうと袋を一気に局員の手から引き抜いた。


「ちょっと!」


 出来るだけ離れようと走りながら回収袋の中に頭を突っ込む。紙と、インクと、埃っぽいにおいが入り混じった独特の空気がむわっと高田の鼻腔をついた。どこだ。

 どこだ?どこにある?

 溝口がポストに入れていたハガキは相当な束だった。厚さにしておよそ五センチほどはあっただろうか。暗闇の中でもがいていた手が塊にぶつかった。厚い紙の束。これに違いない。掴んだ手をいっきに引き抜く。そこには形のよい几帳面な字が並んでいた。表面にはこんな宛名書きがされている。


「UBJラジオ ワンハンドレッズのミッドナイトジャパン あの人の見た夢のコーナー御中」


 高田は目を見開いた。いつも聞いているラジオの名前がこんなところに。間違いない。これはネタの投稿ハガキだ。後ろをひっくり返す。溝口の名前、その横にはこう書かれていた。


「ラジオネーム 貝ひも大統領」


 いた。貝ひも大統領はこんなところにいたのだ。

 へなへなと足から力が抜けて行くのがわかった。

 その場にへたりこんでしまいそうになるのを何とか寸前で抑え、あとを追ってきた郵便局員に袋を突き出す。


「ちょっとあなた…なんで急に走り出したりするんですか!」


 息を切らしながら怒る郵便局員に高田は某然としながら言った。


「走り出したくなる時ってありますからね…」

「それで、見つかったんですか。あなたの書いた脅迫状は」

「あ、ああはい。ありました、ありがとうございました」


 そのままふらふらとした足取りで高田は歩き出す。

貝ひも大統領相手に、自分はこの後どんな風に戦えばいいのか。何の考えも浮かばない自分を呪いながら。



「えー、次。ラジオネーム、貝ひも大統領」


 高田は自宅で布団に包まりながら、今日もいつものラジオ番組を聞いていた。当たり前のように貝ひも大統領は採用されている。タイミングから考えると、先日高田が郵便局員から強引に回収袋を強奪した日に溝口が投函した分であるかもしれない。

 読み上げられるネタの内容に、今日ばかりは笑うまいと思っていた高田は思わず「でへへ」と笑いを漏らしてしまった。悔しくなって下唇を噛みしめる。

 溝口は一体どこからこんな発想を出してくるのだろうか。毎日毎日会社では数字ばかりを見ていて、どうして人を笑わせることが出来るのか。

ラジオを聞きながら横になっていると、目の前の風景が変な風に歪んだように感じて、慌てて手を目にやると、指先が濡れた。高田は泣いている自分に気がついた。それが、溝口に対して圧倒的な敗北を感じたが故の悔しさから来るものなのか、笑いすぎてのものなのか、高田にはよくわからなかった。

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