第9話
水曜日の夜。
部屋に戻った髙田は、あかりにもらった紙袋を思い切り床に叩きつけようとして、それでも寸前で思いとどまってキッチンのシンクの上に置くと「あーっ!」と大声を出した。
隣の部屋に面した壁をどすん!と叩かれた気もしたが、気にならなかった。どうせ高田と同じ、暗くてモテない浪人生だ。
今日なぜ自分はあかりに会ってしまったのか。
そして、あかりとの食事を楽しいと思ってしまったのか。
会社帰り、最寄りの駅前で待ち合わせしたあかりは明らかに今日のためにいつもより少し余所行きの服装と化粧に変えていた。
電車に乗ってに二、三駅行ったターミナル駅にあるイタリアンの美味しいお店があるのでそこで、というあかりの言葉にただただガクガクと首を降ることしか出来ず、高田はコバンザメのようにあかりのあとはおっかなびっくり着いていった。
店でのことはまるで夢の中のことのように曖昧な記憶しかない。次々出てくる料理の味はさっぱりわからず、意外なほどよく食べ、よく飲むあかりの笑顔を見つめていた。あかりは整った顔立ちで、街を歩いていればすれ違う人がちらちらと振り返るような美人だったが、そうして話してみると全く飾らない、さっぱりとした性格の人間だった。曖昧な記憶の中で一つだけはっきりと覚えているのが
「私、高田さんが天狗付けて出てきた時、それまで怖くて怖くて泣きそうだったのに、笑っちゃったんです」
という言葉だった。
そして、別れ際あかりは「全然美味しくないと思うんですけど、自分なりに一生懸命つくったんで、食べてもらえると嬉しいです」と言って恥ずかしそうに紙袋を渡してきた。帰りの電車の中で見ると、それは手作りのクッキーだった。
そのとき、はっきり自覚した。
俺は今、この状態が悪くないと思っていやしないか?
壁に貼った「全員笑わせたらオサラバだ!」の文字を見つめる。そうだ、俺は上司に自分の仕事を評価されたくて、飲み会に誘われたくて、女の子に好きになってもらいたくてあいつらを笑わせようとし始めた訳ではない。今まで自分のことを「面白くない奴だ」と思っていたヤツらに俺がお前らを笑わせることなんてこれだけいとも簡単なんだぞと見せつけてやるためにやっていたのではなかったか。その目的が達成できれば、この世に未練は無かったのではないか。死ぬために笑わせるのではなかったのか。
今の自分は、手段と目的が逆転してしまっている。
部屋の片隅に転がっている処分し損ねた首吊り用のロープが目に入った。忘れたのか。あの日の決意を。俺は死ぬために笑わせているんだ。もっと笑いのサイボーグにならなくては駄目なんだ。
高田はおもむろに立ち上がると「全員笑わせたらオサラバだ!」の紙を外しかけたが、思い直しその辺にあった紙をテープでつなぎ合わせると今度は「人生を楽しむな!」と書いて、上から重ねて貼り付けた。
シンクの上のクッキーの入った小花柄の小さな紙袋に一瞬視線をやったが、すぐに机に向かってパソコンを立ち上げると、明日のためのネタ作りの続きを始めた。
やがてスマートフォンのアラームが鳴り始める。午前一時。
時間だ、と高田はスマートフォンのラジオアプリを立ち上げる。もちろん既にタイマーで録音されるように設定はされているのだが、中学生の頃からこの番組だけはリアルタイムで聞き続けてきた。耳馴染みのテーマ曲が流れ出し、アタック音が終わるといつものようにローテンションのオープニングトークが始まった。
このラジオ番組のパーソナリティーを務めるお笑いコンビも番組がスタートした当初は勢いだけで突っ走る放送を繰り返して、ある時などは人気絶頂のアイドルタレントをいじり倒したことで番組の放送中に殺害予告を受け、そのリスナーの家まで生放送中に押しかけていた。
中学生の高田は父親からのお下がりの古くて大きなラジカセにイヤホンを突っ込んで布団の中で一人声を押し殺して笑い、胸を踊らせた。そんなことばかりを繰り返したお笑いコンビも結成二十周年を迎え、番組自体も昨年十五年目に突入した。中学生の頃からこの番組は髙田にとっての笑いの基準であり、ヒーローだった。そして、彼にとってこの番組にはパーソナリティーのお笑いコンビ以外にもうひとり彼の心を掴んで離さない人物がいた。
「…じゃあ、次のハガキ。あ、来ましたよ」
「来た、あいつ」
「東京都、貝ひも大統領」
「貝ひも来たね〜」
髙田も思わず「貝ひも来た!」と声に出してしまう。
貝ひも大統領とは高田がラジオを聞き始めた頃には既に番組の常連となっていたいわゆる「ハガキ職人」の一人である。ネタコーナーでの採用率はとどまることを知らず、一時は「プロの芸人なのでは?」とも囁かれたものの、本人が「自分は一会社員である」という長文の手紙を番組に送ってきたことからその噂は否定された。
読み上げられる貝ひも大統領のネタはいつもどおりの安定したクオリティだ。髙田は唸った。どこの素人だか知らないが、貝ひも大統領のネタは常に古びない新鮮さを持っている。おそらくそれは普遍的な面白さに根付いているのだろう。とぼけているようで、鋭さも兼ね備えていて、ほんわかしているのに毒がある。どんなテーマでも、きっと名前が伏せて紹介されてもそれが貝ひも大統領のハガキであることがわかる、そんな一つのブランドにさえなりうる力を持っていると高田は感じた。
そうだ。俺のやるべきことはこっちじゃないか。生きることに喜びなんていらない。
忘れるな。忘れるな。
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