第7話

「高田、今日庶務の女の子達と飲みに行くんだけど、おまえも一緒に行かねえか?」


 金曜日の夜。定時まであと数分となったタイミングで先輩が声をかけて来た。高田は耳を疑った。


 一緒に飲みに行かないか?


 誰かと自分を勘違いしているのだろうか?そう思って言葉に詰まり先輩の顔を見てみるが、からかっているような様子は見受けられない。高田は恐る恐る聞いて見た。


「僕に話しかけてます?」


 先輩は顔をくしゃくしゃっとして「あはは!」と大きな笑い声を立てると


「やっぱりお前面白えな。他に誰がいるんだよ。聞いたぞ。落合産業の取引の件。お前突然課長に言われて三浦の尻拭いさせられんたんだってな。取引先笑わせて許してもらったんだって?」


 あの話、もう広がってるのか。高田には自分で話した記憶は無かったから、三浦が誰かに話したのだろうが、あのプライドの高そうな三浦が自分からそんな話をするなんて意外に高田は感じた。


「その話、三浦がしてるんですか?」

「いや、取引先が自分で話して回ってるらしい。うちまで謝りに来た業者で土下座して頭にピーナッツくっつけたヤツがいるって」


 あの担当者なら確かに自分で吹聴しかねない。高田は納得した。そのうち話の論点がそれで許した自分が凄い、面白いとすり替わって行くのだろう。

先輩の後ろから今度は別の男が顔を出した。営業一課の後輩だ。


「高田さん、すごいっすよね!今度はじまる『ぶるぶる』のプロジェクトリーダー大抜擢されたらしいじゃないですか!いや、マジ本当尊敬です」


 先輩があとを次いで言う。


「とにかくさ、俺お前のことちょっと見直したよ。ていうか、お前のこと知らなすぎた。今夜は思う存分面白い話してくれよ。女の子ん中でもお前のこと気になってるヤツ多いみたいだぜ」


 先輩の言葉が頭の中をぐるぐる回る。

 見直した。お前のこと気になってるヤツも多いみたいだぜ。女の子。女の子。女の子!?

 混乱が止まらない。それでもかろうじて機能している脳の一部が何とか言葉を引き出して行く。

 明日の次世代リーダー研修用のネタを仕込む時間と、今人気が殺到して滅多に予約の取れない元芸人の経営コンサルタントが行う「必笑営業トーク術講座」の受講権を奇跡的に勝ち取ることが出来たのだ。セミナーは今日の午後六時からだ。提示ダッシュで何とか間に合うくらいだから、飲み会に参加することはまず無理だろう。

 それでも。高田は目の前の先輩の顔を見て、この誘いは絶対に断るわけには行かない、と悟っていた。ここは自分の印象を女性陣に対しても変換させる一つのいい機会に成り得る。覚悟を決め、高田は言った。


「いやあ、今日七時からセミナー入れちゃって…」

「あ、そうなんだ。じゃあ、しょうがねえか、また…」

「いやいや、行きます!その後から絶対合流するんで」

「え?だってセミナー終わってからじゃ大変だろ?」

「全然ですよ。むしろ行かなくてもいいくらいなんですけど、セミナーだけは行ってくれっていうのが死んだ婆さんの遺言でして。どこで飲んでますか?」

「えーと多分渋谷だから、店はあとで連絡するよ。じゃあ、またあとで」

「はい、喜んで!」


 セミナーには行くとして、明日の研修用のネタは飲み会のあとに仕込むしかないな。最悪今日は徹夜だ。高田は鞄の中のネタ帳をそっと開くと、とりあえずセミナーに行くために席を立ち上がった。



「もしもし、あ、先輩?今からそちらに伺います。すぐ着くと思うんで」


 電話の向こう側では人のざわめきがひとかたまりになってぼわんとした反響音となって聞こえている。


「おお、急に誘って悪かったな。待ってるから急がなくてもいいぞ」


 やっぱりな。高田は思った。あの人のいい先輩のことだ、そういうだろうことは目に見えていた。


「いや、急いでます。周りの人に高田がもうすぐ着くらしいって伝えておいてください」

「ああ、言っとくよ」


 電話の向こうから「高田がもうすぐ来るってよー」という先輩ののんびりとした声が聞こえるか聞こえないかのタイミングで電話が切れる。高田はスマートフォンの時計表示を見ながら電話が切れてから十五秒ほどしてから立ち上がり、そして大声で言った。


「いやあ、思ったより早く着きました」


 目の前には飲み会の会場がある。周囲の人間たちが一斉に振り向いて高田を見た。先ほどからずっと飲み会の会場の入口脇に置いてあった段ボールから人が飛び出してきたのだから、驚くに決まっている。高田は結局セミナーをキャンセルすると、会場に先乗りして店と交渉し、三十分間ずっと箱の中に隠れていたのだ。ほとんどの人間が目を見開いて手も口の動きも止めている。ややあって、すぐ近くの席の女の子がぷっと吹き出した。


「高田さんいつからそこにいたんですかっ」


 女の子の声が引き金になったように、ぽかんと高田を見ていた周囲の人間たちが一斉に笑い始めた。

 先輩の姿も見える。満足そうな顔をして頷いていた。つかみは上々だ。誘ってくれた先輩の顔も立てられただろう。箱から出ると「席こっちです!」と若手の社員たちが高田を案内してくれた。ほんの何ヶ月か前には顔さえ知らなかった連中だ。きっと向こうだってそうだったに違いない。席に行く途中、岩橋がいるのを見つけた。全く笑わずにむすっとした顔のままでいる。高田が近くまで来ると、軽く腰を上げて話しかけてきた。


「お前、なんで来たの?」


すかさず切り返す。


「半蔵門線」


 石橋の横にいた女の子が「あはは!」と笑った。ますます苦虫を噛み潰したような顔の岩橋がいらいらした様子で言う。


「そういうことじゃねえんだよ」

「え、ああ。総武線と半蔵門線。あとバス、で迷って結局タクシー」


「乗りすぎだし!」と言ってまた別の女の子たちが笑う。そのまま岩橋を通り過ぎて席まで向かう。

 後ろで「何あいつ?」という岩橋の声が聞こえたが、今や何とも思わない自分を、高田は感じていた。席に着くなり「高田が到着しました!」という声が上がり、周囲からわあっと歓声が上がった。

 異様な盛り上がりだ。ほんの少し前まで俺のことなんているかいないかもわかっていなかったくせに。高田は冷めた気持ちで頬を上気させながらジョッキを掲げる連中のことを見回した。

 構わない。最初からお前らを笑わせてやる俺の実力を思い知らせることなど他愛もないことだったのだから。高田はジョッキを受け取り乾杯をしながら、そんな風に思った。


「あれ、岩橋たちは?」


 しばらく経った頃、どこかからそんな声が聞こえた。

 確かに先ほどまで岩橋がいた席のあたりにはぽっかりと空白が出来ていた。若手の女の子たちも一緒にいなくなっている。飲み会を抜けてどこかで勝手に行くつもりなのだろう。高田の中でふつふつと怒りが湧き上がってきた。あの野郎、つまらねえくせに女のことばかり一人前だな。俺がお前より面白いことを見せつけてやる。あの女の子たちの前で俺がお前よりウケているところを見せつけてやる。それが俺のお前に対する復讐だ。

 「ちょっとトイレ」と言って席を立ち、出口に向かう。まだそれほど遠くまで行っていないはずだ。地下から地上へ向かう階段を登っていると、地上への入り口付近で見知った顔の若い男二人がなにやら話しているのが見えた。顔つきから深刻そうな事態が推測されたので、聞いてみる。


「何かをあったの」


 二人は顔を見合わせたあと、気まずそうにメガネの方の男が切り出した。


「あ、高田さん…実は僕らさっき岩橋さんと別んとこで飲み直そうと出てきたんですけど、なんか変な連中に絡まれちゃって…」

「それでお前らは帰れって言われて僕らここまで戻ってきたんですけど、岩橋さんと女の子たちはまだそいつらのところにいるから、ヤバイよなって話してたところなんです」


 もう一人の小太りがあとを次いでそう話した。


「え、戻ってきちゃったの?」

「だって相手は五人くらいいたし、すげえヤバそうな感じだったんですよ。ああ、どうしよう。やっぱ通報した方がいいよな」


 小太りがメガネに同意を求める。


「それってどのへん?」

「多分この先の駐車場んところです。ちょうど店が無くてひと気がないところだったんですよ」

「ふうん」


 二人が通報する、しないを押し問答しているのを後ろに聞きながら高田は教えられた方角へ歩き出す。

 またとない、絶好の機会だった。



 教えられた方角の方へ進んでいくと、駐車場の暗がりの中では見るからに自分たちがアウトサイダーとでも言いたそうな雰囲気の男たちが岩橋らを取り囲んでいた。タイミングはここしかない。高田のスイッチが入った。


「ちょっと君たち!何してるんですか!」


 高田がそういって近づいていくと取り囲んでいた男たちが一瞬こちらをぎょっとした顔で見たものの、高田の風貌を見るなり再び元の凶暴そうな顔つきに戻って行った。

 それを見て高田はおそらく対した悪人じゃないだろうと当たりを付けた。本当に悪い人間は相手の容姿で態度を変えたりしないし、まして表情になど出さないだろう。男が全部で五人。皆背は高いが二十代前半か、下手すれば未成年も混じっているかもしれない。ダボダボとしたパーカーやブルゾンにルーズな履き方のジーンズやパンツ、ブーツにスニーカー。五人中三人キャップ、一人がニット帽。長髪。パーカーをその上に被っているのが二人。手に何か刃物などを持っている様子は無い。

 最も持っていたところで別に構わない。ここで死ぬか、自分で首を吊るかの違いだけだ。ただ、その場合は岩橋を笑わせてから刺してもらわなければいけないのだが。


「何だよてめえは」


 長髪が高田に向かってしゃべり始めた。こいつがリーダーなのか?


「何してるんですか、じゃねえよ」


 高田の先ほどの発言を子供のような高い声色を作っていじり出した。周囲の仲間たちも呼応するように低い笑い声を立てる。

高田も同じように言った。


「何してるんでしゅか」


 先ほどより強調して高い声を出す。

「馬鹿にしてんのかてめえ」


 長髪の顔色が変わった。気は短いようだ


「してません!」


 そう言って思い切り舌を横に突き出して目を左上に向けた。思い切り馬鹿にした顔だ。


「してるじゃねえか!」


 この長髪、ツッコミの才能あるな。

 高田は長髪の的確な返しに感心した。目をやると岩橋がこちらを心配そうに見つめていた。高田は岩橋を指差すと言った。


「おい!なんだ何だよ岩橋。ヤンキーに絡まれたような顔して」

「うるせえな!」


 ニット帽が言いながらこちらをへ近づいてくる。


「お、何だ君は。黒沢年雄か」

「誰だよ!」


 ニット帽の世代には黒沢年男、馴染みがないのだろう。


「君も早いところそんなお面脱ぎなさい」

「被ってねえよお面なんて」

「じゃあいい。僕が脱ぐ」

「え…」


 高田は顔に両手を当てがって思い切り引っ張った。


「うーん…」

 

 不良連中が一瞬目を大きくし、息を飲むのが見える。


「べりべりべり!」


 そのまま両手を目の前で大きく開いて見せた。


「どうだ!」


 一瞬静寂が周囲を包み込んだ。長髪が叫ぶ。


「変わってねえじゃねえか!」

「正解!」


 やっぱりあの長髪はツッコミの才能がある。高田は嬉しくなった。

 その時はキャップを被った一人が高田に掴みかかってきた。


「おいマジ殺すぞてめえ」

「何殺?」

「は?」

「撲殺?」

「いや…」

「刺殺?絞殺?毒殺?」

「…」

「痛いの嫌だからいっきに死ねるやつがいいんですけど」

「いっきに殺してやるよ!」

「一個いい?」

「あ?」

「君、口臭きついね」


 キャップの手の力が緩んだ。案の定だ。キャップの男の顔を間近で見ると、想像以上に若かった。額と頬のあたりにはニキビの跡さえ見受けられる。そして何より綺麗に手入れされた眉毛。これはもう自意識過剰ど真ん中世代と見て間違いなかった。この手の人間は自分の体臭や口臭を必要以上に気にしているものだ。においなど気にならなかったが高田がそう言うと案の定キャップは明らかにショックを受けた顔になっていた。


「本当にブッ殺す!」


 パーカーを被ったのが二人こちらへやって来た。岩橋たちの一番近くにいる長髪以外の四人が皆高田の側へやって来る。岩橋たちがこちらを見ているのを確認して高田はやや暗がりの方へ四人を誘導した。


「待てよ!」


 四人がこちらへ来るなり高田は言った。


「囲め囲め!」

「は?」

「いいから囲め!みんなで俺を蹴れ!」


 四人はぽかんとした表情をしながらも高田を取り囲んで蹴り始めた。最も四人いるとお互いの足が邪魔になってあまりうまく高田には当たらない。状況の異常さもあってか、男たちが高田を蹴る力はさして強いものではなかった。


「もっとくっつけ!」


 高田はうずくまいながら小さい声で四人を見上げて言った。男たちが気味悪そうにお互いの顔を見合わせた。高田はそうしながら素早く服を脱ぎ始めた。


「おい、おまえ何脱いでんだよ」


 キャップは明らかに怯えを含んだ声で言った。手早く服を脱ぎ去ると、高田はズボンのベルトを外し始めた。その金具が触れ合う音に男たちは身を硬くして一歩後ずさる。


「馬鹿野朗!見えるから隙間作るなって。もっとくっついて蹴れよ!ヘタクソが!」


 高田が四人にそう言うと四人は高田が見えないくらいくっついて蹴り始めた。

 ズボンを下ろし、パンツ一枚になった高田は四人に「もういいぞ」と言った。

 四人はもはや自分たちの理解を超えた高田の言うことばに反抗しようともしない。


「よし、ここで左右二人ずつ別れろ。間から俺が見えるようにするんだ」


 四人が動くと同時に高田は立ち上がると、一際大きな声で言った。


「今日はこの辺で勘弁しておいてやるけどな!」


 高田の白ブリーフの股間の部分には天狗のお面が貼り付けられていた。

 元々は今日出席する予定だったセミナーの事前課題用に用意しておいた小道具だった。披露する場所は若干変わってしまったが、当初の予定よりも劇的な天狗の登場となった。

 それを見た長髪が「ぶっ」と言って吹き出した。高田の両サイドにいた四人も股間の天狗に気がつくと肩を震わせ始めた。


「君たち、俺が許してもこの天狗が許しませんよ!」


 長髪のそばで身を硬くしていた岩橋が泣きそうな顔になりながらこちらを見て脱力して行くのが見えた。

 遠くから「おまわりさん、こっちです!」という男の声が聞こえてきて、ああ、よかったと高田は腰の力が抜けて行くのを感じた。

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