第4話

 朝、出社するところから高田の戦いは始まる。


 会社のロゴがガラスにプリントされた受付入口の前で高田は大きく深呼吸した。耳から今や「話芸の神」とも言われる芸人のラジオが流れるイヤホンを引き抜き、ポケットの中に手を入れる。ベテラン漫才コンビが数年前に上梓した自伝の一ページがそこには入っていた。

 そこには、こんな文章が書いてある。それは、高田が今日まで何度も読み返し、自らを奮い立たせた言葉でもあった。高田はその文章の一節を頭の中に思い出していた。


『あの頃の僕は』


 拳を握りしめて腹に力を入れた。


『目の前の人を一人でも多く笑わせることが出来るのであれば』


 下唇を舐める。


『死んでもいいと思っていた』


「おはようございます!」


 受付嬢が驚いてこちらへ顔を向けた。目を大きく開いている。無理もない。

 高田は大きな馬の被り物をしていたのだから。


「いやあ、朝起きたら頭が馬になっちゃってて。参りましたよ」


 受付嬢たちは唖然としたまま高田の頭部を凝視している。周囲にいる同僚たちもギョッとした顔でその光景を遠巻きに眺めている。問題ない。想定の範囲内だ。


「朝から調子良かったんで家から走ってきちゃいました。あ、そうだ。もし良かったらこれ一本いかがですか?」


 そう言いながら一本のにんじんを受付嬢に手渡す。すると、二人いるうちの一人が一瞬「ひっ」と小さい声を上げたが恐る恐る受け取ってくれた。上出来だ。最悪強盗の類と間違えらて通報される可能性だってあった。もちろんその時はすぐに被り物を取るつもりだったが。


「お隣の方もいかがですか?まだたくさんありますよ」


と言いながら持っていた革のカバンをテーブルの上に置き、蓋を開けるとぎゅうぎゅうに詰め込んであったにんじんがゴロゴロと床にこぼれて行った。

 そのにんじんが転がる様子に受付嬢たちが戸惑いながらも口元を緩め、手で覆った。

 その時、事前にしかけてあったアラーム音がスラックスのポケットに入れたスマートフォンから流れ出した。競馬場で流れる競走馬の出走音ファンファーレだ。


「あ、ヤバイヤバイ。始まっちゃう」


 そう言って高田がその場で足踏みを始めると、受付嬢たちが再び顔を伏せて肩を震わせ始めた。


「じゃあ、行ってきます!」


 そう言って高田は先ほどまで入ってきた入り口から再び全力で外に飛び出して行った。外に出た途端馬が飛び出してきたことに驚いた人々が思わず道を空けていく。走りながら高田は今まで味わったことのない解放感と達成感に頭の芯が痺れるような快感を味わっていた。


 ■


 前後の脈絡も無くボケを連発することで相手から笑いを引き出すことは、現状の自分の立ち位置や環境を鑑みると、決して得策ではないと高田はわかっていた。

 全ては笑いのターゲットとなる相手の性格、シチュエーションや前後の会話やイベントの状況に応じてフレキシブルに対応出来るものでなくてはならない。そのためには種類の異なる様々な笑いを準備する必要がある。自分の中に「お笑いの検索エンジン」を作るのだ。

 必要に応じて検索をかけ、検索結果の一位に常に正解を導き出せるようにしなくてはならない。

 その為にもまずやるべきことは、いきなり核心の「笑わせる」作業に入ってはならない、と高田は判断した。

 今の自分の会社での立ち位置は、空気、いや空気以下だ。

 その空気以下の自分がいきなりボケ倒し始めて、果たして誰が笑うというのか。

 まずは前フリをすべきだった。

 すなわち「高田はどうも本当は面白いヤツらしい」とすぐに思わせるには難しくとも、「高田は本当は明るいヤツらしい」ということを草の根で浸透させていく作業だ。あるいは「あいつは本当は」というのも、一つのキャラクター戦略としては有効だ。一定の年代以降、「頭がおかしい」もしくは「変態」というキーワードは侮辱というよりむしろ「羨望」「親しみ」「尊敬」の意味を含んでいる。社会の枠からはみ出た異端児。既存の枠に捉われない風雲児。カリスマ。そんな単語とともに語られる時代の寵児たちはいつだって「従来の物差しで測れない」という一点においてのみで「なんだかよくわからないがすごいらしい」とされてきた。「面白いか面白く無いかわからないが、これがわからないヤツはセンスが無い」その域に達してしまえば無敵だ。

 そうして十分に「無口だけど、喋ったら実は面白いヤツ」というキャラクターを自分で作って行けばいい。

 もちろんハードルは上がる一方だ。だけどそれがどうしたというのだろう。どうせ死ぬのだ。

 ハードルを上げるだけ上げておけばいい。世の中にはハードルさえ挙げられない連中がごまんといるのだ。 

 まずは小さな成功を積み重ねるべきだ。

 大爆笑を起こすにはそこに至るまでの積み重ねが必要だ。

 今日から自分は変わるのだ。

 高田はそう自分に言い聞かせた。どうなったっていいじゃないか。どうせこっちは死ぬつもりなのだ。今更スベったところで痛くも痒くもない。スベって死ぬのか?それならそれも本望ではないか。「スベり死に」なんて最高に面白い。新聞に載れるかもしれない。

 とにかく、今日から戦いは始まるのだ。

 その日から、会社は高田のステージとなった。



 比較的交友関係が広く、また性格的には温厚で、流行にも従順な層の人間たちは「素直であること」言い換えれば「誠実な笑い」を好む傾向にある。

 すなわち笑いのレベルやクオリティ論にとらわれず、自分自身が直感的に思わず吹き出してしまうような笑い。そんなところに魅力を感じる人たちだ。

 一般的に彼等は自分自身で自分たちの日常生活の中で笑いを積極的に取り入れることは少ない。笑いをあくまで「他者から提供されるもの」として享受することをよしとしているから。彼らにとっては自分がツッコまれる対象になることなど想像だにされない。そこに全力でツッこむことで、彼らに「あなたも笑いの当事者なのだ」と思い知らせることが重要だと高田は考えた。


「お前かよ!」


 このツッコミは「関東一のツッコミ」とも称される芸人が確立したパターンだった。

 基本的にツッコミとは「違和感の指摘」の役割を果たしている。「常識」から視点をズラすことでおかしさを創出するのがボケであれば、それを適宜修正しもとの「常識」であることを要求するのが「ツッコミ」だ。

 しかし、テレビの普及により今一般の人間の間でもボケとに対するツッコミの技術はある程度浸透した感はある。

 妙に自分がさも「芸人のような受け答えが出来る風」を装うよりも素直にそのままで対応した方が人の心を掴む、ひいては「笑わせる」ことが出来るのだ。

案の定高田の一言に周りの人間たちが一斉に笑った。

 すきあらば高田は切り込んだ。


「バカかよ!」

「そっちかよ!」

「聞いてねえよ!」

「オレンジかよ!」


 そのままであればあるほどウケる率は高まって行った。

 ある時は職場のちょっとしたいさかいごとの最中に、ある時は取引先との商談時に、ある時はトラブルでピリつく現場に。

 全ては他人事であると割り切った高田の、半ば捨て鉢とも思える一言は「誰もが言いたかったけど黙っていた本当のこと」を常に突いた。

 人は、本当のことを指摘されると怒る。

 しかし、それが他者と共有でき、不安や心配が安堵に変化しておき笑いに転換されるのだ。古典的な笑いの大原則である「緊張と緩和」。それが大人の世界には、わざわざ作り出さなくても無限に存在している。大人の世界は、常に緊張しているからだ。それを緩和させる出来事、言動を、的確なタイミングで放り投げてやりさえすれば、よい。


 またある時は、朝礼の場で


「ちょっと待ってくださいよー!」


 高田は手を前方に上げながら立ち上がる。部長が目を丸くして高田を見るが、気になどならない。セクハラ、パワハラまがいの言動で、他者を威圧しながら「笑うこと」と共有する輩に、他人の心を動かすことなど到底不可能なのだから。

 自分に注目が集まる時こそが最も注意しなくてはならない。

 

 これは数年前から一般人でも日常生活で応用される機会も増えてきたいわゆる「ひな壇芸人」のテクニックだ。

 好き勝手にしゃべっているように見える彼らにも、彼らの中での明確な役割分担が実に繊細になされている。

 ガヤ、つっこみ、司令塔、切り込み隊長。すべての役割はまるでフリージャズのように即興で個々人の間合いとセンスで危うい均衡を保ちながら一つのスタイルを確立する。その模索の過程も一つの笑いに変えてしまうのだ。

 高田はテレビで彼らの「戦い」を目にするたびに頭の芯の部分が痺れるような快感を覚えていた。

 もちろん素人が彼らと同じ戦場に立って戦うことなど出来ない。しかし彼らの戦術や武器を自分なりに習得して、日常生活の中に落とし込むことは出来ないのだろうか。高田はそう考えていた。

 中でもリスクが少なく高い確率で笑いを狙えるのはやはり「ベタ」である。

誰もが想像しうる想定の範囲内でありつつ、ツボに応える話の展開は日本人が多く好むものだ。

 ここ数年のテレビを中心としたお笑いの主流は結果的に「わかりやすさ」と「馴染みやすさ」にシフトしつつある。

 ある時期主流になるかと思われたいわゆる「とがった」笑いは今の時流に見あっていないのだろう。群れの中で突出することは今や人に笑いを与えにくい。なぜならそこに人は「現実」を見るからだ。

 笑いのスタイルは時と共に変化する。

 それはお笑いを世代論で語るというスタイルの比較文化論的研究でも語られている内容だった。

 「笑う時くらいは相手を下に見たい」と考えている。上からの笑いが受け入れられにくい社会。それが現代だと高田は悟った。

 であれば今の自分が参考にすべき笑いは、自分が何をやりたいかではない。

今人はどんなことを目にすれば素直に面白いと思えるのか、だ。


「えーとじゃあ十時ですね」

「十時!?」


 会話のかみ合わないパターンは「技巧派コント職人」と呼ばれるコンビが十二年前あるお笑いコンテストで初披露し、一躍注目を集めた。

 日常の中でこのパターンの応用は基本的には不可能だ。

 だが、その一要素を取り出して使うことは出来る。会話Aと会話Bの間に、意図的な差異を生み出させるために、自分であらかじめしなりを用意する。あとはそのシナリオに近づけるように会話を誘導できる糸口を見つければよいのだ。


 ボケを続けるだけでは飽きられる。

 中には自分がボケたい人間もいるからだ。こうした、コミュニティに一定数存在する「ボケたがり」を利用しない手は無い。「本当は俺は面白い」と思っている凡人どもは、実は厄介である。他人の言う「面白い」言動で俺は笑わないぞ、というひねくれた感情の持ち主だからだ。

 そういう人間はボケにボケで対抗しようとする特性を持っている。だからこそ、相手をこちらの「味方」にしなければならない。相手を乗せつつツッコミを入れて行き、相手の想像を上回るツッコミで笑わせなければいけないのだ。

 しかし、一度相手の趣味嗜好を見抜いてしまえば、比較的笑い上戸、いわゆる「ゲラ」になりやすいのもこの人種である。

 一定の年代以上では落研出身者が多いのもこのタイプである。彼らは自分の話をとにかく話したがる。彼らについて高田は特に無理に笑わせることは放棄した。こうした人種とは無理に交戦せず、自分のフォローに回らせるよう懐に潜り込むのが得策だと判断したからだ。


 また、高田はボケをパターン化することにした。

 つまり手持ちのボケパターンをカテゴリごとに細分化することで状況に応じて即座に引き出せるようにするのだ。

 会話の展開を事前に予測さえ出来れば、効率的に精度の高いボケを繰り出すことが可能となる。

 高田の中には「机上のボケ」ではない生身のデータが蓄積されて行った。

どのボケがどこででも7割以上の確率でウケるのか。

 女性にウケにくボケにはどんなものがあるのか。

 あるいはコンビネーション。

 高田が何か面白いことを言う人間だと察知するようになった人間の中には高田のボケをフォローする者も現れ始めた。

 最初こそ自分一人の力で笑わせることを目的として高田だったが、結局は笑わせることさえできれば手段を問う必要は無い。

 高田はそうした「笑わせるのが好きなタイプな人間」を利用することにした。

 そうした人間は概して根が明るくポジティブで コミュニケーション能力が高い者も多い。

 彼らのサポートを利用することでコンビネーションを用いた笑いのスタイルを使うことも可能になった。

 すなわち、ピンとしてだけでなく、コンビ芸、あるいはトリオ芸まで幅を広げることも可能になったのだ。


 高田は常にスマートフォンのメモアプリにネタの断片を記録するようになった。少しでも時間が空けばそこに見たもので印象に残ったもの、思いついたフレーズをメモしていく。家に帰ってからそのメモをパソコンを使ってカテゴリー分けして行く。


 眠い目をこすりながら、それでも高田は壁に貼った「全員笑わせたら、オサラバだ!」の文字を見て、パソコンに記録を続けることをやめなかった。

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