第3話
いじめを受けたことはない。
ただ、いじめを受けることすらなかったとも言える。いじめっこ達すら、彼を素通りして行った。
小、中、高、大学と高田は一人で過ごした。そして、それは会社には入ってからも続いた。
孤独は彼にとっての親友だった。
一人でいることに慣れれば特に人生に不満は無かった。勉強も運動も出来ないし、顔は、何度も会っている取引先が思わず「えーと、以前お会いしてましたでしょうか?」と遠慮がちに聞いてくるほど印象に残らない造形だったが。
一人っ子だったので家に一人でいるとやることがなく、小さな頃からいつもテレビを見ていた。
テレビに出ているほとんどの芸能人の名前を諳んじることが出来た。特に好きなのがバラエティ番組とお笑い芸人のネタ見せ番組だった。
気に入った芸人のネタはMP3に落として携帯用のオーディオプレーヤーで通学中も聞き続けた。
気に入ったネタは冒頭のつかみから最後のオチまできっちり間まで含めて再現出来た。時々部屋で一人ネタの再現をした。当時社会的な大ブームとなっていた勝ち抜きトーナメント形式の番組のネタ見せ時間は四分と決まっていたので、ストップウォッチで測りながら再現すると、三分五十七秒だった。もちろん、それを見せる人も、見せる場もなかった。
ただ彼は嬉しかった。ノートに自己評価を書き込み、点数を書き付けた。
中学生くらいになると、自分自身でもネタを書いて見たいという思いに駆られ、ネタ帳をつけるようになった。
誰と組むアテもなかったが漫才形式もコントも漫談もあらゆる形式のネタを書いていた。
ある芸人が落語の要素を使ったコントをしているのを見て落語にも興味を持ち、寄席に通った。それまでと違う笑いのスタイルに感銘を受けた彼は図書館に通い詰め、近所の図書館にあったすべての落語のCDを借りてはMP3プレーヤーに落とし続けた。
枕があってフリがあってサゲがある。一連の流れは伝統芸能として美しい流れの中で完璧に確立されていた。彼はその形式美に魅せられた。しばらくは新作落語ばかりを書き続けた。一番始めに書いたのは死んだ自分が死ぬ前の自分を説得しにくるという話で二十七分もあった。死ぬ瞬間は気持ちいいと聞くがどれくらい気持ちいいのかと聞くと、それまで死ぬことはよくないと真面目に断言していた死んだ自分が顔をほころばせ「そりゃあもう。もう一度死にたいくらいだ」というので死ぬ前の自分が「よし死のう」と言って首をくくろうとするのであわてて死んだ自分が止めるーという話だった。今思えばまるで未来の自分を予見しているかのような内容だ。
中学三年の時、彼は出来上がった渾身のネタを母親の前で一度だけ披露した。母親はぼんやりした表情で見終わると「どこで笑えばいいの?」と聞いて、それきりだった。彼は両親の前で二度とお笑いの話をするのをやめた。
高校に入り、大学へ進学し、多くの学生の流れに乗って就職活動をし、中堅の健康器具メーカーに就職した。
何の興味も無かったが、数字に弱い三流私大の文系の学生にとって、採用してもらえるだけでも奇跡だった。
お笑いは好きだが、決して芸人になろうとは思わなかった。あんな大勢の前に出てネタをやるなんて、考えただけで冷や汗が出る。そもそも
スベったらどうするのだ。その場で舌を噛んで死ぬしかない。
裏方である構成作家という道もあるということはわかっていたが、その道の険しさや他者と競争していくことにそもそも覚悟が無い彼は今の仕事を手放すことなど始めから考えていなかった。サラリーマンとして安定した給料をもらいながら定年まで勤め上げる。給料で好きなお笑いのライブを見たりDVDを買ったり出来ればいいと思っていた。
それでも、とにかくお笑いが好きだった。
雑誌で若手芸人の情報をチェックしては小さな劇場のライブにも行き、テレビのネタ番組は欠かさず見て、中学生の頃からずっと芸人のラジオを聞き続け、芸人のライブDVDを買っては会社帰りや休日に見ている。
ただ、一人だった。
お笑いの話をする人がいなかったため、お笑いが好きだと誰にも言ったことが無かった。
それでいいと思っていた。自分が楽しんでいるのだ。誰かと共有する必要などない。笑いを独り占め出来ている。高田はむしろそのことに誇りすら感じていた。自分の中に笑いのデータが蓄積されていくことに快感を覚えていた。
そして今、彼は生まれて始めてそのデータの使い道について考えていた。
「笑わせるリスト」と書いたノートを広げ、高田は真っ白なノートに等間隔で三本の縦線を引いた。
一番左には笑わせる人間の名前、真ん中に笑わせる場所、シチュエーション、そして一番右が具体的な笑わせ方だ。
少し考えて高田は一番上に岩橋の名前を書いた。飲み会の記憶が蘇ってきて、そこからずるずると芋蔓式に吉岡部長や伊藤京子の名前も出てくる。名前を書く指先に力が入った。その後に入社してすぐの頃に一回だけ無理矢理行かされたスノーボード旅行の記憶が蘇ってきた。
スキーもスノーボードも未経験の高田が何度も断るも「全部現地でレンタル出来るし、俺がレッスンしてやるよ!」と言っていた二歳年上の先輩はいざスキー場に着くと高田と同じ初心者だった新入社員の女の子につきっきりとなり、高田のことなど全く気にしなくなった。
それでも仕方なく自己流で滑ったり転んだりを繰り返してみたもののうまく止まることが出来ず、何度目かに「いやーうまく止まれないですね」と振り返ると誰もいなかった。二人で別の場所に移動して続けていたらしい。数ヶ月後彼らが付き合うことになったと聞いた。
名前を忘れるはずがない。遠藤武と木村ゆかりだ。こいつらは腹筋が崩壊するくらい笑わせてやらないと気が済まない。
まだある。
あれは二年前の忘年会だった。「いるだけでいいから」と参加させられたりのに行った途端にウエイター扱いで飲み物の注文を次から次へと受けているうちに帰るタイミングを見失い、そのまま残ってしまったのだ。
そのうちビンゴ大会が始まった。配られたビンゴカードを読み上げられる数字をぼんやり聞きながら穴を空けていたら、あっという間に横一列が空いた。そのまま何も考えずに「ビンゴ」と手を挙げたときの、あの空気。
店の空調の音まで聞こえそうなくらいの静寂が一瞬その場を凍りつかせ、そのあとに全員がひそひそと話し始めた。時折小さな笑い声も聞こえてくる。前方で司会をやっていた男の顔が曇っているのが高田にもはっきり見えた。
しまった、間違えた。
自分は「一番最初にビンゴするような人間」ではなかったのだ。
司会の男が取り繕うように「えーとビンゴですか?じゃあ、前の方に」と感情の無い声で促したので、高田は素早く穴を開けたはずの数字を元に戻して「ま、間違えました。まだでした」と叫んだ。周囲から失笑が漏れて、司会がほっとした顔で「えー、高田くんはビンゴというかアウトという感じですけど」と言うと今度は爆笑が起きた。なんだそのつまらないイジリは。全然意味がわからないじゃないか。
あの司会は柴田修二という男だった。
そんな風に笑わせてやりたい人間を書き出すと、結果的に会社の人間ほぼ全員がターゲットと考えてよさそうだった。
シチュエーションと笑わせ方を考えて行く。
岩橋は流行りのギャグなど有名なネタをパクってばかりだ。お前のようなノリと雰囲気だけで生きてきた人間にさらにそれを上回るテンションとテンポで息次ぐ間を与えないネタを見せてやる。基本的にアップテンポな生き方をしてきた人間は深く考えることを嫌う。わかりやすい笑い、人とのコミュニケーションを円滑にすることを第一に考えている人種だ。そのためには一瞬でわかる、かつそいつの想定の範囲内を少しだけ上回る発想を提示する必要がある。例えば、あいつが普段と趣味でやっているフットサルだ。その場に俺が現れる。それも伝説のJリーガーの往年のユニフォーム姿で。そして彼を象徴する特徴的なダンスと決め台詞とともに乱入する。そして彼にこう言うのだ。
「日本人ならお茶漬けやろ!」だめだ、これは意味がわからない。唐突すぎる。
あるいはこんなのはどうだ?
そんな風に考えているだけで、時間はあっという間に過ぎて行った。
高田は、始めて「誰かを笑わせる」ことを考えるのは楽しい、と思った。
例え、それが自分が死ぬためのものであっても。
高田は立ち上がり家の鍵だけひっつかむと、そのまま外に飛び出した。
このまま一人で家の中にいてはいけない。誰か、相手を見つけてこの衝動を伝えなければならない。本能的にそう感じていた。
アパートのすぐ近くのコンビニに入ると、いつも弁当を買う時にレジに入っている高校生くらいの女の子がだるそうに髪の毛をいじくっているのが目に入った。店内には他に雑誌のコーナーで立ち読みしている若い男が一人いるだけだった。
今だ、今しかない。
高田は雑誌のコーナーからおもむろに雑誌を一冊掴むと、そのままレジに向かって女の子に差し出し、言った。
「あたためてください」
静寂が流れる。唐突すぎる。
わかっていた。いつもは暗い顔で弁当とペットボトルのお茶を無言で差し出し、向こうが「あたためますか」と聞いてきても俯いたまま小さく頷くだけの男が、今いきなり店に入ってきたかと思うと雑誌を掴んで温めろと言っているのだ。完全に不審人物にしか見えないだろう。通報でもされたらどうしよう。まあそれも面白いからいいか。どうにでもなれ。
女の子はぽかんとした顔のままでしばらく静止すると、無言で雑誌を掴んでレンジのある方へ歩き出した。
次の瞬間、高田の口から本人も無意識のうちに言葉が転がり出ていた。
「やるのかよ!」
女の子の動きが止まる。こちらを振り向くと、彼女は笑っていた。
「すみません、ぼうっとしていて。そうですよね、雑誌あたためるわけないですよね、あはは」
高田は、頭の芯が痺れたような衝撃を受けていた。
笑っている。あの、だるそうに、面白いことなんかなにもなさそうに毎日のレジを打っていた女の子が笑っている。
それは、自分の言葉と行動が起こしていることなのだ
背後からふふっという忍び笑いが聞こえた。振り返ると、先ほど雑誌コーナーで立ち読みしていた男がこちらをチラチラ見ながら笑っていた。自分を見つめる高田の視線に気がついたのか、男は慌てて目を雑誌に戻した。
笑った。あの男も笑った。
今自分は、人を笑わせたのだ。
高田の頭は痺れたままだったが、その事実に気がつき、喜びが全身に溢れ出して満たされて行くような快感も同時に感じていた。
イケる。
高田は思った。お笑いゲリラの誕生だ。
俺は一人で戦争を仕掛けてやる。俺は、俺はお笑いのランボーだ。
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