第2話
12時になると高田の会社では小学校のようにチャイムが鳴る。
それが昼食の合図となり、社員は業務を切り上げて三々五々外へ出かけるか、休憩室に集まって弁当を広げるのだ。
高田はいつものようにチャイムが鳴る数分前にそっと席を立ち、ホワイトボードの自分の名札の横に昼食中であることを表す「L」を書き付けるとそのまま何食わぬ顔で外へ出た。いつもの牛丼屋に入り、牛丼の並サイズを注文する。
一連の流れはすでに職人の域に達していると言っていい。オフィスにいる人間の意識の隙間を縫って外に出るタイミングや牛丼屋に入るまで誰にも気づかれないようにする気配の殺し方、そして牛丼屋での無駄のない注文方法と効率のいい牛丼の消費方法。
紅生姜をたっぷり入れてふと顔を上げると、鏡を見ている気分になるほど自分と同じような空気を纏った人間たちが一斉に同じ動作で食事を続けていた。皆前を向いているのに、一様にその視線はどこにも向けられていない。
視線を向ける先が無い人間たち。
夕方になり、高田はいつものように終業のチャイムが鳴ると同時にオフィスを出た。
「おつかれさまでした」
と高田が言う言葉に反応する人間はいない。あるいは、実際に高田の声は聞こえていないのかもしれない。
自宅の最寄り駅に着くと高田は近所のホームセンターへ向かった。
目的はロープだ。なんだかんだで首を吊るのが死ぬには一番いいと昼に牛丼を食べながら携帯で見た自殺指南サイトに書いてあった。高田は何よりもインターネットを信じている。現実など、糞食らえだ。
そこには死ぬのにオススメの頑丈なロープが紹介されていた。今度こそ失敗しない。
店員に聞くとあっさり案内してもらえた。そんなことはないと頭ではわかっていながら「自殺ですか?」と店員に聞かれるのではないかとびくびくしていた高田は拍子抜けしたくらいだ。
20mで7000円もしてびっくりしたが「首吊るのに使うだけなんで、2mでいいです」とも言えず、7000円を支払った。
これで半分死んだも同然だ。高田は半ば興奮しながら自宅のアパートへ戻った。
アパートまで着くと、そろそろ暗くなってきているというのに、小学生くらいの少年たちが嬌声を上げながら近所を走り回っていた。
その中に、一人だけぽつんと少し離れた場所に立ってその様子を見ている少年がいた。
彼は何も言わず、ただ楽しげに走り回る少年たちをじっと見つめていた。
走り回る少年たちが彼に気がついているかどうかもわからない。高田はその少年の姿が、まるで十数年前の自分のように思えた。
楽しいことは自分以外の誰かのためのもの。
自分の周りを素通りしていくもの。
自分は見ている側の人間。
少年の目は前を向いているのに、視線はどこを見ているのかわからない。牛丼屋にいる男たちの目をしていた。
輪っかを作り首に当ててみる。
思いのほかざらざらしている。食い込んだら痛そうだ。そういえば首を吊ると失禁すると聞いたことがある。トイレを済ませておこう。小のついでに大もして、トイレットペーパーがなくなってきてるから買わないとなと思いつつ、死ぬんだから買い足さなくていいや、と思い直す。
トイレを出てから、さて、どこに紐をかけようかと部屋をぐるりと見回した。
6畳の部屋に4畳の台所という1Kの小さなアパート。首を吊るロープをかける場所が見当たらない。
視線の先にベランダが目に入った。3階建てのアパートの2階。さして日当たりもよくないそのベランダには今、昨日取り込むのを忘れたまばらな洗濯物が風に吹かれて寂しげに揺れている。
そうか、と高田は思い至る。
2階では飛び降りても死にはしないが、ロープを首にかけて飛び降りれれば首を吊って死ねる。しかも自分の体は外にぶら下がってかなり派手な死にざまになるはずだ。これだ!
ベランダの手すりにロープの一端をしっかりと結びつける。もう一端に作った輪っかを首にかける。あとは、ここから飛び降りるだけだ。
これで死ねる。
そう思うと心拍数が急上昇した。こめかみがじんじんと痺れ出す。いつもと同じ外の風景が全く普段と異なるものに見えてきた。向かいのマンションも、遠くに見える電波塔も、すっかり暗くなった空に浮かぶ月も。
腋の下はぐっしょりと濡れ始めていた。首にかけたロープを握りしめる手に力が入る。意識とは裏腹に体はそこから全く動かなくなった。
死ぬんだろう?死にたいと思ったんじゃなかったのか。
高田は自分に問いかけた。そうだ。
このままの毎日を続けても何も変わらない。
何の意味もないと思った。
自分が消えても誰も気にしないと思った。
自分に対して誰かが笑顔を向けてくれることなど無いと思った。
誰かを笑顔に出来る日など来ないと思った。
あいつ、何が楽しくて生きてるんだろうな。
あいつの笑ってる顔を見たことないな。
あいつ、喋るの?声聞いたことないけど
今まで何人にそう言われてきたんだ。
それがどれだけ辛いことかと、自分は思ったではないか。
一歩踏み出す。手すりに手をかける。足を上げる。その途端「ぷー」という音と共に屁が漏れた。
全身の力が抜けて、高田はその場にへたり込んだ。何だ俺は。これから死のうってときになんで屁をこいてるんだ。
「死ねない…」
高田は自分でも思いがけない言葉が出てきたことに驚いた。
そうだ、自分はまだ死ねない。口から転がり出た言葉に後押しされるように高田は言葉の根っこをほじくり返す。
自分が死ねないのは、死ぬのを拒んでいるのは、まだやれることをやってないからだ。この世に未練が無くなった時が自分の死ぬ時だ。そうだ、そうに違いない。
「笑わせてやる…」
俺のことを笑ったやつらを、全員笑わせてから死んでやる。
そう思いついたらいても立ってもいられなくなり、高田は首に引っ掛けたロープを外すと、部屋に戻りプリンターからA4の用紙を引き抜くとセロテープでつなぎ合わせて全長2mほどの長さにし、そこに極太のマジックで、こう書き付けた。
「全員笑わせたらオサラバだ!」
その紙を部屋の壁に貼り付けてみるとなんだか今まで感じたことのないような力が湧いてくるのを感じた。
高田の脳裏に飲み会の席でお笑い芸人のギャグを真似ていた岩橋の姿や、普段どうしようも無いダジャレで女子社員を困らせている吉岡部長の姿が浮かんだ。
あいつらの何が面白いんだ?
俺は、俺はお前らの何十倍も、何百倍も、いや何千倍も面白いんだ。
高田はそのまま適当なメモに遺書のつもりで文章を書き始めた。
ー笑わせてやる。これは俺にとっての犯行予告だ。俺の言うことで笑うわけなんかないと思っている連中を全員笑わせてやる。
今までお前らがしょうもない内輪の盛り上がりで軽々しく繰り返してきた笑いを覆す爆笑を巻き起こしてこの世に落とし前を付けてやる。
死ね、じゃなくて、笑え、だ。
殺してやる、じゃなくて、笑わせてやる、だ。
俺は連続無差別笑わせ犯だ。お笑いテロリストだ。笑いの革命家だ。革命家の最後は名誉の戦死が相応しいのだー
文章は途中から高田自身でもよくわからないものになっていったが、それでも高田は書くことをやめなかった。
ベランダでは手すりに巻きつけられたロープが所在無げに風に吹かれて揺れていた。
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