笑い笑うとき笑わば笑え

いりやはるか

第1話

 5本目の準特急を見送ってから、高田公平は改札に戻った。

 

 ダメだ。無理。超怖い。あんなのに飛び込めない。

 自販機で買った栄養ドリンクを何本も飲んで無駄にギンギンになったところで、ホームに侵入してくる電車に飛び込む勇気が湧いてくるわけではない。ホームから線路に飛び込むどころか、結局この三時間で高田は黄色い線の内側にさえ足を踏み込むことが出来なかった。

 いや、正確に言えば一歩だけ踏み入れた。その途端駅員に「黄色い線の内側にお下がりくださーい!」と怒鳴られ慌てて足を引っ込めたのだ。

やめたやめた。そもそも飛び込みなんてしたくなかったんだ。掃除も大変そうだし、迷惑かかるし。


 駅前をぶらぶらしながら考える。

 日曜日の駅前は家族連れやらカップルやらでやけに賑やかに見える。

 東京と言っても限りなく千葉県に近いこの町は、各駅停車以外は全く止まらず開発から完全に切り離されている。

 それでも休みの日はそこそこ道行く人々の顔も楽しそうに弾んでいる。

 なんだよ、俺が死ねなかったからって笑ってんのかお前ら、え?どうせそんな勇気ないくせにとか思ってんだろ。

 死んじゃうぞ、死んでやるからな。


 その一時間後、高田は自宅のアパートで包丁を握りしめていた。

 手首を切るつもりだった。刃物という刃物はこれしか持っていない。実家を出る時に母親に渡された三徳包丁だ。

 今までこれで何本のネギを切ってきたことか。使い込んだ柄を握る手にも力が入る。

 そこでふと気がつく。


 包丁で手首ってうまく切れるのか?

 何かで聞いた。包丁は押して切る。引いて切ることは向いていなかったのではないか。

 そういえばドラマで見る自殺は皆床屋で使ってみるみたいなパカッと開くタイプの剃刀を使っていた。

 しかも百人が百人風呂場で水に手首を浸して切っていたはずだ。そうだ、風呂に水を溜めよう。あれはきっと冷やして感覚を鈍らせているんだ。

とりあえず風呂の掃除をし、栓をしてからいつものくせで「風呂自動」ボタンを押す。しばらくすると「お風呂が沸きました」と女性のアナウンスが聞こえてくる。せっかくなのでまずは風呂に入って身を清めようと入浴したところで肝心の剃刀がないことに気がついた。

 いや、持ってはいる。髭を剃るための安全カミソリだ。浴槽から中腰で洗い場のスチールラックを探ると二本ほど安全カミソリが出てきた。

ご丁寧にプラスチックのカバーまではめてあって、どう見ても安全だ。間違って裸足で踏んづけても出血ひとつしないだろう。

 これでどれだけ手首を強く切っても死ぬところまではいかないだろう。高田はとりあえず風呂から上がることにした。


 風呂から上がってビールを飲んだらテレビで面白い番組がやっているのに気がついて飲みながら見ていたら眠くなってしまった。

 気がつくと一時になっていたので、慌ててラジオの周波数を合わせてイヤホンを耳に突っ込む。もう何年も聞き続けているラジオ番組だった。すっかり耳馴染んだテーマ曲が聞こえてきたが、その日は疲れていたのか最後まで聞くことが出来ずに眠ってしまった。


 そして、高田は今生きたまま会社へ向かう電車に揺られている。


 その日の朝、高田は久々に大声を出した。


「違うだろーっ!」


 それは自分自身へのかなり本気のツッコミだった。


「何してんだお前は!死ぬんだろ!死ねよ!何風呂入ってビール飲んで寝てんだよ!ちょっと幸せ感じちゃってるじゃねーか。寝てんじゃねーよ!」


 鏡の中の自分は目を真っ赤に充血させているものの、いつも通りの眠そうな顔のままで、それを高田は余計に腹立たしく感じた。


「今日こそ」


 そこで高田は鏡の中の自分に指をビッと突き立ててタメを作り


「死ぬからな」

 

 と一言続けた。



 デスクに向かい、高田は退社までの数時間を無の気持ちでやり過ごして行く。

電話が鳴っては取り、誰かに回し、事務仕事を淡々とこなして行く。

 話しかける人間はいない。時々旅行に行った誰かがおみやげを回してくることもある。

 そんなときは目を合わさずに「どうも」もしくは「あざす」と言ってまたすぐにディスプレイに目を戻す。自分では最低限の気持ちを伝えているつもりだが、周囲からはそれは「…も」「…さす」としか聞こえていないのが余計に問題であるのだが。


 退社のチャイムが鳴ればすぐ隣のデスクの人に聞こえるか聞こえないかくらいの声で「お先に失礼します」と言ってオフィスを出る。

 それが高田が入社以来7年間続けてきた社会人生活だ。

 無断欠勤などしない。出来ない。そんな度胸はない。高田は仕事が嫌いではない。自分でもよくやっていると思う。

 ただ、楽しくはない。


 先週の金曜日。

 高田が飲み会に誘われることなど、ない。絶対にない。

 新入社員歓迎会でさえ、途中で具合の悪くなったふりをして抜け出したくらいだ。

 しかし、その日は中途入社で高田の部にやってきた同い年の男が何も知らずに「高田さんも一緒に行きましょう」としつこく、何度も断わったのだが断りきれなかった。その日はたまたま前の日にラジオで面白い話を聞いていたこともあり、機会があればその話をアレンジしてはなしてやろうとでも思っていた。そんな色気を出したのがすべての間違いだったのだ。

 

 そもそも席がおかしかった。

 会場はだだっ広い畳の間で、そこに長机が幾つも置かれていたが、すでに中心となるメンバーは主役である中途入社の男を囲んで大声で騒ぎ立てており、その周囲に地味そうな社員がぽつんぽつんと離れて座り、二、三人で固まっている。幹事と聞いていた入社二年目の男性社員は輪の中心で何やら大きな声でわめき立てており、その度に若手の女性社員が「うけるー」と合いの手のように言っていた。

 なんだこれは。なんなんだ。

 誰も高田が来たことには気がついていないようだった。

 仕方なく手前の方の席に座った。ボタンを押したが店員も来ない。仕方なく近くのテーブルに置いてあった誰かの飲みかけっぽいビールをそっと掴んで「俺は飲んでます」風を装う。

 

 静かだった。

 これだけの人がいて、そもそも食べるか飲むか喋るかをする場所なのに、高田は今そのどれもしていなかった。ある意味奇跡的だ。

高田の周りだけ 時が止まったように静かだった。

 帰ろう。

 そう思って腰をあげたその時だった。


「高田の話で笑ったことないわ」


 そんな声が聞こえた。

 嘘だろ。やめてくれよ。空耳であってくれ。そう思った。だが、確かに聞こえた。振り返れない。恐らく自分が来ていることに気がつかずに喋っているのであろうことは容易に想像がついたからだ。

 声の主は恐らく同期の岩橋だろう。軽薄で、要領がよく、上司からのウケもよく女性社員に人気がある。その言葉に呼応するように別の場所からも声が上がる。


「あいつの笑ってる顔、見たことないよな。何が楽しくて毎日生きてるんだろうな」


 吉岡部長の声だった。ああ、部長。あなたくらいはフォローに回ると思ってたんですけど。高田は内心で吉岡部長にクレームを付けた。


「ていうか、高田さんが笑ってるところ見たことないんですけど。あの人って笑うんですか?」


 言うなり発言した本人が爆笑し始めた。特徴のある笑い声、間違いない。後輩の伊藤京子だ。美人でスタイルがよくて笑顔を絶やさない女だった。高田も壁にかかった出社ボードを見るふりをして伊藤の顔を何度か眺めていたものだ。


「まあ、俺のトーク力と比較しちゃうと高田も可哀想だけど」


 岩橋が相変わらずの自信に満ち溢れた口調で言う。後輩の一人が岩橋に何かを言うと、それが合図になっていたようで、岩橋がテレビでここのところ流行している、人気お笑い芸人のギャグを真似し始めた。それと同時に一際大きな爆笑が起きる。

 

 中腰になったまま高田はまた座り直すか、このまま聞こえなかったふりをして店を出るかを迷った。

 どうしよう。普通に考えればすぐ出た方がいいに決まっている。よし、大丈夫だ。このまま出よう。


「あれっ、高田じゃね?」


 終わった。終わりました。

 高田は中腰のまま首だけゆっくり後ろへ向けた。真っ赤になった男女の顔がこちらをにやにやしながら見つめている。


「なんだ、来てたの」


 岩橋が言った。先ほどの会話を聞かれた、という後ろめたさや気まずさは一切ない口調だった。

 高田は曖昧に笑って、小さな声で「ちょっと、トイレ」と言ってそのまま部屋を出た。

 

 後ろから爆笑が追いかけてくる。

 下駄箱で革靴に足をねじ込んでいると、涙が溢れ出してきた。このまま泣いてしまうのはあまりにもまずい。これじゃ中学生だ。

 

 高田は革靴の踵を踏んづけたまま店の外へ飛び出し、そのまま早足で歩き続けた。見上げた月が滲んで二つに見えた。

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