Clematis

六月になれば緩やかに都内は暑い夏にその歩みを進め始めるけれど、軽井沢の高原にまで来てしまえばこのドレスでは少し肌寒い、私に手紙が届くことはなく、招かれざる客として木漏れ日の中、教会に向けて歩き始める。この心は揺らぐことの無い水面のようにただ只管粛然としている、この感覚は仕事に臨むときによく似ている、まぁそれは当然のことでまずは殺しの仕事を終わらせなくてはならないから、だけれどもその仕事が抱えるリスクとそれを乗り越える自分が脳裏に浮かぶことによる、こういう性質を持って生まれてきたもの特有の未知の世界に足を踏み入れることの興奮は確かに存在している。綺麗に整えられた緑の大地と対照的な所々剥げた石畳は不完全の美への信仰か、それとも安い雰囲気づくりのためか、音もなく私は歩みを進めていく。白樺の肌の斑模様は遠くから見る分には小粋なモザイク装飾のようにも見える、それはきっと天を埋め尽くす青々とした瑞々しい緑の美しさによるものか、木漏れ日が描く端麗な織物に引き立てられているのか、Phytoncideの澄んだ芳香に錯覚させらているのか。孔雀石で彩られた隧道を誘われるように進み教会の扉に手を掛ける―――予定外の音に誰もがこちらを振り返る、誓いの接吻の時を今まさに迎えようとしていた男でさえも、立ち上がってこちらを見る白髪交じりの初老の紳士の顔、息をするように銃を構えセーフティを外しながら照準を合わせるとすぐさま引き金を絞る、くぐもった音と共にその額を貫かれ地に伏す、二発目の弾丸は婚礼を破壊する。誰もが私を見ている、地の底から現れたような黒衣を纏った私を、死を告げるのには些か甘すぎる薔薇の香りを纏った私を、神話の中で破滅を告げに来た禍々しい悪魔のような私を、邪悪なまでの美しさを持った招かれざる客の顔を見るのだ、その中で一人だけ私から目を逸らし床と、流れた血が黒くなりゆく様だけを静々と感情もなく見つめる愛しい人に私は駆け寄る。「迎えに来たよ」その一言で彼女は全ての感情を捨て去るかのように静かに嘆息する、この腕に抱えられたその身体からは静かに初恋の香りが漂っていた、甘いアニスと南国のジャスミンの爽やかな香りが合わさったそれは、身投げした妖精の絶望であり、私を水の中へと引き込み滅亡させようとする睡蓮の香り、彼女は涙を流すことすら忘れてしまった静かな諦観に染まりきった表情で、宵闇の瞳を私の顔から逸らし続けていた、私は初恋をこの手に取り戻した歓喜がこの心を支配してしまう前に彼女を抱いて走り去った、時間はまだまだ沢山あるのだからと、今すぐ絶望に暮れる彼女を壊れるほど抱きしめて、餓狼のように粗暴に貪ろうとするこの身を破裂させんばかりに膨らむ欲望を押さえつけるように、とにかく理性でそれを鞭打って。


「もう少しで船が来る、しばらくはこの国の地を踏むこともないだろうね」私は彼女と海を見ながらそう耳元で囁き抱き寄せる。北へ、北へとかなりの距離を走ってきたが、まだ日が沈むには時間は早く、海原は赤みを帯びていない希望すら感じさせるような煌びやかな光を放っている。青々とした海原や、遠くに望むそれと空との境目の整った美に手を伸ばすよりも、私は目の前の女に対する崇拝にも近いこの感情から来る一刻も早く誓いの言葉を囁きたいという欲求を迷いもなく選択する。彼女の左手を取り、指輪を抜き去り海に投げ捨てる、そして真の愛を込めた黒百合の指輪を恭しく嵌める。その一連の私の動作に彼女は何も言葉を差しはさまなかった、蔦が絡む様に、縛り上げるように彼女を抱きしめてもこちらを向いてくれることは無かった、彼女の第三の瞳となった黒いダイアモンドに目を呉れることもない。私に何かの疑問を投げかけることもない、何故殺したのだとか、これからどうするつもりなのかとか、そういった事を、そして私に非難の言葉を投げかけることもなければ私から逃れようともしない、不意に吹き抜けた一陣の風が睡蓮の香り共に初恋の記憶を蘇らせる。あの頃よりも今の君は更に美しい、ただ私にされるがままに抱きしめられ、そしてその愛を受け取ることもなくただ砂時計のようにさらり、さらりと風に遊ばせながら溢していくだけ、純白のドレスに包まれた肢体は何かに抗うと言う事を知らなかった、ただ風が吹けば散る桜のように私の瞳を魅了し、清流に音もなく浮かべば、ただ流されるのみ。誰かの所有物になる事はこの先永遠に無く、ただ私の腕の中で時を移ろうのをその瞳で静観しているだけ。その深い黒い瞳は太陽からの光を返すこともなく、悲しみすら忘れてただ全てを飲み込むだけ、私の姿が移ることもない、私に愛を向けることが無い彼女は―――茜はなんと美しいのだろうか。無理やりに顔をこちらに向けさせて唇を奪うと、初めて口づけを交わしたときのようにその刹那を永遠の牢獄に囚われたように感じさせる、青白く染まった彼女の肌、桃色の上に重ねて塗られた私の紫の、犯すという快楽よ―――嗚呼、私はClematis、貴女という木に絡みつき、その身から幸せという暖かい光を放つことが無いように締め付け続けるの、呪いのように貴女に纏わりつきその全ての挙動を私が支配するの、もっとも近い存在として極限まで肌を押し付けて隙間もなく貴女をこの身体で締め上げるの、そしてこの永遠となった初恋の甘美な味わい、貴女から無理やり吸い上げ幸せの蜜を完全に奪いつくすの、私という蔓は決してあなたのものになる事もなく、ましてやこの蔓は貴女の物でもない、そんな何度も何度も繰り返すぎこちない初恋の接吻と、私の身体を受け入れてくれることの無い無限の初夜の快楽と、拒み続けられることの法悦を糧に大きな大きな美しい花を咲かせるの。彼女の身体が少し動く、私の方をしっかりと見た、そして口を開く、その言葉は非難でもなく、愛の言葉でもなかったけれども私にとっては永遠の誓いの言葉。

「貴女がこういう人間であると言う事は薄々感じていました、それは貴女が戻ってきたときにすぐに分かりました。人の感情が無いかのような無責任で快楽主義的な生き方はすぐに、きっと犯罪に手を染めていてもおかしくないと、余りに派手過ぎる力強い美しさが、主張の強い輝かしいまでの美しさが、優艶過ぎる所作が、この私の心を乱そうとする官能的な指が、心の無い仮面を被った言葉が、貴女は貞実な生き方をしていないということを私に予感させました。一度は私の心は貴女と共にありました、それは昔、少女の頃逢瀬を重ねたあの時はそうでした、貴女に恋をしていました。羽ばたける予感を与えてくれました、窓辺に立った貴女は私にとって奇跡そのものだったんです、いえそれ以上でした、これは私の心からの気持ちであり、そして記憶の奥底に埋葬した愛、と呼ぶべきものです。ですが、私は二度と貴女にそういう感情を向けることはないでしょう、盗んだもの、奪い取ったものは決して貴女の物にはならないのです。盗品は決して貴女に微笑むことはないのですから……」

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Silene 姫百合しふぉん @Chiffon_Himeyuri

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