Fritillaria


いくつかある隠れ家のうちの一つに戻ると茜の婚約者の顔写真を見る、それとその父親の。彼は父親の会社の子会社の社長だがそのうち跡を継ぐことになるのだろう、輸送用機器、つまりは様々な電子電気部品のメーカーとして知られていて本社とその子会社は労働環境が良い事が知られているが、実のところ多くの恨みを買っている。外注している海外の工場での労働環境が非常に悪く、欧米の企業の様に体のいい奴隷制を敷いていると揶揄されることもあり、また婚約者が取締役社長を務める子会社は工場やIT関係の人材派遣会社であるがこれも搾取を行っているとして影での評判は良くない。だがこの二人の暗殺依頼はそんなイデオロギーなどとは全く関係なく海外の対立企業から回って来た、それもいくつかの企業から、つまりは経済戦争でしかないわけだ。私からしてみればそんなことはどうでもよくて、盗品を売りさばくよりもある種の換金性、即金性がいい仕事を受けただけに過ぎず、またほとぼりを冷ますための海外への逃避行の手引きまでしてくれるところから受注することにした。殺しの仕事、思い返すと初めてそれをしたのは高校一年生の時、父の手伝いだったな。あの人はLégion étrangère出身で退役後に裏稼業を始めるようになり世界中を飛び回っていた、私が生まれてからもそれは変わらず、だからごくたまにしか顔を合せなかったわけだ、組織に属することもなく相棒も持たなかったため、日本での仕事の時に実の娘に協力を依頼してくるようなあの母にお似合いの男だった。どちらにしろこの仕事が舞い込んできたのは全くの巡りあわせで彼女が婚約したことを知ってから密会を始めるようになって暫くしてから回って来たこの仕事は余りにも出来過ぎていて都合がいい、密会、それは二度目の初恋だった、私の物ではない彼女にもう一度会うことが出来た。さてと、結婚式と新婚旅行の準備をしないとね、永遠の初恋の中にこの身を置くために、彼女の身体のサイズはよく把握しているから彼女に似合う服を幾つも仕立ててある、私の分の当面の服、化粧品もすでに準備済みでトランク二つ分に膨れ上がってしまっている。夜が明け始めている、姿見に目を遣る、化粧を始めよう、純白の服を着た彼女に相応しい見た目にならなくてはいけないから。薄く下地を塗り始める、余り変わらない私の顔、きっと一度目の初恋が終わって女になってからほとんど変わっていないこの顔を見て笑顔を浮かべる、何時もよりも輝いて見える、恋への渇望が私を美しくしてくれているから。眉毛を描き始める、輪郭をはっきりと描く、刀の様に鋭く、人をいとも簡単に殺してしまえるあの刃の様に。いつもよりも派手に濃いシャドウを背教者の様に、異教徒の様に、そしてシャムとペルシアの血が混ざったバーマンの様な目を妖艶に仕立て上げていく、珍しい青色のこの瞳は象られた切れ長の輪郭の中でより一層輝きを増す、見つめた人間を凍らせるような冷たい瞳が私を見つめている、今日のこの輝きはあの日の母をどうしても思い出してしまうがそれは私にとって憎むべき想い出でもなく、この美しい身体に産んでくれて、そして夜を纏い昼の青空を黒く引き裂くような六つの翼をむしることもなく飛び方を教えてくれたことに感謝の様な感情すら湧き上がってくる、都合のいい母親だった、と一笑に付すわけだが、そんな所も恐らくあの女に似ているのだろう。微かな頬紅に顔の輪郭を整えると最後に唇をグラスに注いだ葡萄酒の様な色で染め上げていく、あの渋みと微かな果実の香りで。姿見に映った私、化粧だけを纏って手を加えていないにも関わらず計算され尽くされた曲線美を描く裸体に眩暈がしそうだ、少し筋肉質になりすぎた感じもするがそれでもしなやかなシルエットの美女に思わず誘惑の視線を送ってしまう、烏のように黒々とした長い髪が風に舞う様は太陽を沈ませるほどの覇気を湛えていた。純白の花嫁衣裳を纏った美しい茜を攫うのは、彼女の永遠の不幸を告げる悪魔は黒衣を纏うべきだろう、胸元と背中を大胆に晒したゴシックな黒いドレス、その黒い薔薇が花開くような造形、そして私の白い肌との対比は絶望を従えた女帝。桔梗をあしらう様に百八十面を有したアメトリンを掲げたブローチを胸元に飾れば不幸を齎す騎士の封印が解かれる、考えてみれば盗品を身に着けていない、まぁあいつらは行き摺りの女でしかなく手元に長く置いておく気にもならない、気づけば元の持ち主の事など一切忘れて私の所有物の様に厚かましくこちらを見てくるから。今日は完全に音を殺して居場所を分からなくする必要はない、だって派手に花嫁を奪いに行くのだから、と小さな超音速弾を放つドイツ製の小さな個人防衛火器を手に取る、消音器を取り付けオープンのリフレックスサイトを載せたそれにスリングをつけて肩にかける、二つの使うことはないであろう予備弾倉を太腿に巻き付け、もう片方の脚にはナイフ。最後に用意するのは誓いの指輪、彼女のつけていた婚約指輪の様に六枚の百合の花弁がダイアモンドに纏わりつく意匠、しかし掲げているのは透明なダイアモンドではなく黒い、黒いダイアモンド。その他のカラーダイアモンドの様にカラーセンターから生まれるものではなく、インクルージョンによるもの、そういえば大学の頃はカラーセンターの研究をしていたからどうもその色の根源にはどうも理念的な美しさを感じはしないのだが、その飲み込まれるような闇の結晶はまるで茜の瞳のようで私を虜にしてしまう、光、希望を飲み込み食らいつくし、ただただ永遠の夜の様に存在するそれを、六枚の百合の花弁が執念をもって、粘着質に、二度とこの手から離れてしまわないようにと婀娜に包むのだ、凍える大地の中でじっと冬を耐え、春を迎えれば少しずつ空を仰ぐようになり、やがて伏し目がちにその花を咲かせこちらをにらみつけてくる、夜の帳から睨みつけるように、この黒百合をあの細い指に嵌めれば終わることの無い初恋の始まりとなるから。片割れを私の薬指に嵌める、百合の花が掲げる黒いダイアモンドに目を遣れば茜の姿が思い浮かぶ、川の流れに逆らうことが出来ず、濁流に抗うことなど決してできずただその生が終わるときまで静かに生きるだけの決して幸せになる事が出来ないあの黒い瞳で私を見ている、その美しさに私は身震いをした、怖いほどに彼女は美しい、憎いほどに私を虜にする、忌々しいほどに私を狂わせる、そんな愛しい、愛しい、一度は私の事を裏切って私を愛した彼女を私の永遠の初恋に閉じ込めるために。深紅のオープンカーに飛び乗り優しく左の薬指に鎮座する貴女の瞳に接吻をするとエンジンに火を入れる、待っていて、茜、愛しい人よ、私の初恋よ。今迎えに行くから、愛を育むのに相応しくない今この時に貴女を迎えに行くから。

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