Nymphaea

―――私が彼女に恋をしたのは中学生の頃だった。貧しい家の生まれという訳では決してなく、無表情な母とたまに顔を合わせる父のもとに生まれ、空に突き刺さるようなマンションの一角で静かに暮らしていた。親や学校を憎む悪ガキだったという訳ではないけど、家にいても美しい母の置物があるだけで退屈だったというのもあり夜は一人で外を彷徨っていた。夜の闇というのは決して寂しいものではないと知っていて、立ち並ぶ富裕層の邸宅の幸福を自慢するように漏れ出す光を眺めながら歩いているだけでも何らかの風流さを感じていたし、近くの高台にある公園に足繁く通い、夜の街を眺めるのも好きだった、幸せが灯す光を見て自分の家庭の無機質さを恨んで涙を流すなどと言う事もなくただその風景が美しいと愛でていただけだった。こんな野良猫のような娘に母は文句を言う事もなく、静かに一人で夕食を取って私の分を冷蔵庫に入れておくだけでそこに娘の帰りを待つという母親らしい感情が籠っているのを感じたことはなかった、嫌いではない他人、そんな感じだった、恐らく母も同じように思っていて、もしくは家に居なければいけない理由程度に思っていたのかもしれない。そんな砂時計の零れる砂のような感慨もない毎日の中、私は静かな夜に彼女を見つけた。都心から少し離れたこの町の中心である駅の近くには、私が住んでいるようなある程度良い暮らしをしている人間たちが住むマンションがいくつか立ち並び、そこを少し離れると大きな邸宅が整然と並び始める。それを更に抜けて小高い丘、そして森が目に入り、私のお気に入りの公園の近くまでくるとおよそどのような生活をしているのか想像が出来ないような豪勢な屋敷が厳かに並び始める。その中の一つの屋敷の窓辺で彼女は浮かない顔を浮かべて夜の静かな風景を眺めていた、恐らく私と同じくらいの歳で、それでいて若さからくる希望がその瞳には宿らず愁いを帯びた深い黒が光を飲み込んでいた。整った可憐な顔でありながらそれを更に美しく見せるのは清流に流される桜のような儚さ、自分では決してその流れつく先を選ぶことが出来ないという諦観が彼女をより美しくさせている、私の足を止めたその感情は恋だった。体育が人並外れて得意だった私は初めから知っていたことの様に軽々と塀を乗り越え、そして邸宅の壁面の装飾の小さな凹凸を足場に彼女へと近づいていく、深窓の令嬢、薄い硝子の先にいる彼女は驚いた表情を浮かべていた、しかしその振れ幅は僅かなものでその美しい顔を壊すことはなくただ目を見開いているという感じ。彼女の隣で私に微笑んでいたのは涼し気な広い切子の器を漂う睡蓮、深い紫の薔薇で装飾された空の花瓶の隣で私に微笑んでいる。笑顔でその窓ガラスに恭しくノックすると彼女と私の間にあるのは空気だけとなる、この鼻を擽るのは西洋茴香の甘い香り、そして茉莉花の南国的な爽やかさ、これが睡蓮の香りなのだろうか、そして改めて彼女の顔を見る。私の気の強そうな子猫のような明るい瞳とは違って瑞々しく潤んだ丸い丸い、そして指で触れればそのまま飲み込まれて行ってしまいそうな深い闇のような瞳、青みがかっているようにすら感じる白い肌、しかしながらうっすらと上気した頬は生命の鼓動を感じさせ、そしてどこか悲しさを湛えながら結ばれた唇、決してこの手で触れることが出来ない絵画の中の君に私は恋をした、「貴女が好き」私の口からは自然に愛の告白が漏れ出して彼女はより困惑する、それは拒絶というよりは純粋な混乱からくる困り果てた色彩で目を伏せている。創作の世界の令嬢が住む部屋の中、窓辺に立つ私を見て立ちすくむ彼女はまさに絵画的でありながら手を伸ばすと触れることが出来てしまう、嫋やぐ仄かに薄い色の長い髪、心地よい手触りの頬、冷たい肌の奥から少しずつ熱が溢れ出してくるその矛盾に私の心はときめく、引き寄せてそして唇に指を添えて感情のままに自分の唇と触れさせる、触れ合う刹那の快楽、私はすぐに突き放されるがその感触が脳に灼け付きこの心を染め上げる。「困ります……」と小鳥のような声が耳を擽る、そこで私は自分が熱病に侵されていたことに気づき背筋が凍るような感覚と共に平静を取り戻す。私は少し申し訳なさげな笑顔を取り繕うと約束の言葉を押し付ける、「また会いに来るから」と、彼女の頬を一撫でして振り返る、この背にかけられる言葉は無くただ風の様に私は彼女の部屋を去った。少女の恋というのはそれはとても盲目的なもので私をいとも簡単に熱狂させてくれる、彼女のこと以外考えることができなくなる、ふと夜道で思い出したのは私の名を伝えていないということと、彼女の名を聞いていない、という事。家に帰った私は一人ベッドのなか名も知らぬ美しい彼女の事を想い耽るのだ、ありありと脳裏に浮かぶ彼女の姿、見たこともないのにその裸体を描き出し唯の物でしかない布団を抱きしめて愛しく撫でている―――また会いに行かないと。二度目に会った時には彼女の名前を知った、茜、白くしなやかな彼女にふさわしい可憐な名前、少しずつお互いの事を知るようになる、というよりは彼女の事を知るようになる、見た目通りで上品な振る舞いで私と丁寧な言葉で話す彼女は良家特有の苦悩があり、どこからか金だけは湧いてくる家に生まれた私とは世界の層が違うと感じさせられた。性の喜びを知るのにも時間はかからなかった、私は彼女の身体に強い興味を持っていたし、彼女も私の身体を求めた、少しずつ邪魔に感じるようになった、とはいえ姿見に目を遣れば私に強い満足と確かな自信を与えてくれるこの胸にもより強い誇りにも近い感情を持つようになった。裸で抱き合い生命の鼓動と熱を分け合い、獣の様に互いの身体を求め合い、そしてどのようにその感覚を愉しめば良いのかを知らないまま互いの性器に触れ、そして触れ合うときの鋭い未知の、そしてその奥に確かにある中毒に陥ってしまうような強い快感を夜な夜な貪欲に暴き出すようになっていた、それは少女だった私にとって余りにも刺激的で生きてきた時間の短さからかその全てを塗りつぶすには十分で、それよりかはもはや暴力的な豪雨で堤防を悠々と乗り越え氾濫し心を濁流で飲み込む、つまりは生暖かい幸せ以外何もいらなくなってしまうのだ。しかしその幸福も長くは続かなかった、茜は少しずつ明るくなり私に笑顔を見せるようになってきていた、家の人々に隠れて抜け出して夜道を散歩するときも街灯よりも眩しく、月など見えなくなってしまうほどに輝き始めてくると私の中に何故か喪失感が生まれ始めていた、洪水が過ぎ去った後の破壊の痕跡、見るものの精神を抉る茶色で心が埋まり始めていた。快楽を知るには幼過ぎたことへの罰の様に感じ、私はぽつりと彼女のもとに行くことを辞めた、心の彩度を奪うこの制裁に私が逆に出会った頃の茜の様に笑顔を失っていった。

「可愛い葵、貴女は美しくなった」久しぶりに母の声を聞いたような気がする、私は茜との事について懺悔するようにありのままを話し理不尽な罰の理由を母に問うと、これまで何らかの表情を浮かべることが無かった母は美しい吸血鬼のような残酷な、それでいてどこまでも甘い笑顔を浮かべていた。初めて知ることになる私自身の本当の性質、神経を麻痺させるような薔薇の香りの中、母は優しく私の心の形をこの身体に示し始めた。「私とあの人の娘、最高の素質を持って生まれてきたみたいで良かった」恍惚とした表情で母は私の唇を奪った、初めて受動的にねじ込まれる暴力的でいてその熱をもって私の脳を溶かし始めるその舌の感覚、母、これが近親相姦であることを頭では確かに理解しているが、実の母から私の身体に刻まれる快楽を不快に感じることはどうしてもできなかった、少しずつ母は私に知ることを拒みたい真実を囁き始める、しかしそれは普通の善良な人間にとってそうであるだけで私にとっては、私が本当の私になれる鎖を溶かしてくれる優しい酸でしかないのだ、私が罰と感じたものは何か正しさと呼ぶべきものに背いたことによるものではなく、自分の事を正しく知らなかったことに対する罰というだけであって、私がそれで苦しむ必要性が無いと教えてくれる秘薬だった。

「貴女は私の様に女を愛する女として生まれて、そして自分のものではないものしか愛せない。それはきっと私と同じでその事を悲しむことはないの、世の中の英雄や偉人にだけ許された性質をもって生まれてきたのよ。自分に背く以外の罪を知らず、他人の持ち物を一時の間自分の手元に置いて愛でる、そして飽きれば幾許の慙愧すらも感じることもなく捨てることが出来る、人らしさを持たないことは貴女を何よりも強く美しい存在にしてくれる。そうね、この部屋だけれども何故貴女がいい暮らしをできるか想像できる?それはとても簡単で私が人から物を奪うことにあまりにも長けているからに他ならないの、少しだけ申し訳ないのは一時の雑な人間らしさが私に生まれて、老いること、死ぬことが怖くなった私があの人と交わって貴女を生んでしまってからあまり仕事ができていなくて葵に"その子"のような暮らしは出来ないことかしら」私の肢体をまるで自惚れるかのように眺める母は余りにも人外の美しさを持っていてその眼差しの溶け始めた氷の煌きに中てられた私は微動だに出来ない、「このしなやかな腕」私の腕を恭しくその両の手で掲げ口づけをする。「この優美な脚」私の太腿に母の舌が這う。「私だってこの身体の美しさに自信があって、それでいて何も理知的な精神を持たないはずなのに大地の形状など知らずに駆け抜ける野獣の様な身体能力に自信もある、そしてあの人はそれ以上に強い。あの人は人間の最も大切なものを奪う達人、きっと喜ぶわ、今の貴女を見て、それは親としての感情ではなく職人としての矜持だけれども」まるで自慰でもしているような表情で私に快楽を注ぎ続ける私を産んだ人、その言葉は私を自由にし、そして翼を与えてくれる―――考えてみれば私は何事にも優れていた、少女という蛹から妖艶な女に羽化した私はこれまで以上に全ての人間を置き去りにし始めていた。これまで法執行機関にその身体を触れさせなかった両親よりも冴え渡った頭脳は、他人の努力を踏みにじり常に物事を鋭く素早く理解することを可能にしていた、かたやその身体能力は苦しみを噛みしめ汗を流した人間の何歩も先を疲れすら知らず走り続ける、両親に犯罪行為の手解きを受け初め、その傍ら優越感を味わうためだけにこの国で最も優れた大学に通い始め、科学を修める。人間の最高傑作、それは神の失敗作でもある、すなわち何の良心も持たない私に美と智と類稀な身体能力を与えてしまったのは、大地に生きる人間たちにとって不幸でしかないからだ、いやきっと神など存在していないからこそ私が生まれてきたのだ。しかし何でも奪うことが出来る私であってもなお、もう一度手に入れたいものを、過去に散っていった想い出を手にすることは難しい、だけれども私はそれを渇望している―――茜、あの一片の希望すら持たない、水で薄めた青白い絶望を纏った深窓の令嬢を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る