Silene

姫百合しふぉん

Hyacinth

闇夜に浮かぶのは貴女の熱が作り上げる幻影、カーテンの隙間を縫って忍び込む臆病な月明かりは貴女の白い肌に百合の花弁を散らせ、何度も大粒のダイアモンドの中を迷いそして最後に警告するように私の目に飛び込む。その光は私の性欲を滾らせより強く茜―――この腕の中に居るか弱い女を折れるほど強く抱きしめさせる、彼女は抵抗することはない、彼女の冷えきった肌は私のこの熱い指をどう感じているのだろうか、しかしもうその心を溶かすことは無いだろう、頬に手を添えれば私から目を逸らす、今宵のオニキスはその中にあっても深くその闇を飲み込み続ける、あたかも運命を受け入れ続けるように静かに。光の無い世界でも彼女の唇にこの親指を添えれば春の桜をこの闇に描き出される、冷えた唇、しかしながらその先に無遠慮に侵略していけば大地の奥深くの様に、生命の根源である熱が渦巻いている。触れ合う唇、自然のままの薄紅色に私の紫を誠実さの欠片もなく塗りつける、漏れる吐息、それもこの夜に溶けて行ってしまいそう、私の身体に熱く纏わりつくこともなく、未練もなく。促すように唇を甘く噛めば雛鳥の様におどおどと私の唇を同じようにその紫が無遠慮に塗られたであろうその唇で弱く圧迫する、少女の頃に何度も、そして再び私が夜の逢瀬を繰り返すようになってからも何度もしてきたことであっても今はただ不慣れな、それは少女の頃の情熱の籠ったぎこちなさではなく私に謝罪しているかのような、それとも不義を受け入れてはいないという抗議からくるような処女のような啄み。不意に遠くで響く散弾銃のような暴力的な音、私を咎めようと風が扉を閉めたのだろうか、その迫りくる様な音に彼女は身を震わせ、逃げるようにその小さな口を閉じるのだが私はそれを許さない、この長い舌を送り込み決してその扉を閉ざすことが無いようにと彼女を脅すのだ、性欲を滾らせた暴力に抗う事もなく彼女は唯舌を絡める、決して貴女の物にはならない、そう感じさせるような遠慮がちな圧力で。私の頬にその細い指を添えることもなく、強制的に感じさせられる快楽の不安を紛らわせるためにこの顔を引き寄せるでもなく、夜の闇に飲まれないように私の背に爪を立てることもなく、白い肢体をベッドに投げ出したまま、時は戻らないと訴えかけるようにただ無抵抗で私の行為を受け入れているだけ。少しずつ熱くなりはじめた私の胸から溢れ出す葡萄の果実の香りと、直接肉と肉で触れ合う感触に酔って来たのかその薄い胸を頻繁に上下させるようになる。その姿を心に収めたいと私は顔を彼女から離すとやはり伏し目がちに私から目を逸らしたまま、質量のなさそうな小ぶりで形の良い乳房、薄く色付いた先端はあの日のままで、少しだけすらりとあの頃よりは伸びた身長は華奢な体を、折れてしまいそうな青白い細腕を強調する、少女と子供らしさが交じり合ったセミロングの髪は今では腰まで豪奢に伸び黒い絹の様に彼女を彩る、乱れた前髪の奥の瞳は涙を溶かし込んだ深い深い黒。ふと彼女は口を開く。

「葵さんはあの日々よりもずっと美しくなって、そして心を搔き乱すような妖しさも手に入れて帰ってきてしまった、あの頃には無かったあらゆる人を惑わせ飲み込んでしまう香りを纏って、あの頃と同じようにこの窓から美しい奇跡の様に、そして黒々とした翼を携えて不幸を届けに来てしまった。もう、遅いのです、これで終わりなのだから……」

この部屋も狭く感じるようになった、それは私の身体が大きくなったからなのか、それともより広い夜空を羽ばたくようになってしまったからなのか。この部屋は時が止まっているようだ、その中で私と茜だけの時間が流れてしまっているような、私は夜目が利く、少なくともこの豪奢な―――いやこの富裕層が集まる土地の中で一際目立つその財が花咲かせた洋館自体がそうなのだが、その一室は全く朽ちることを知らない、著名な仏蘭西の画家の真作と思われる少女の、恐らく茜への愛を籠めて送ったであろう少女の横顔を描いた油絵、あの時と同じように私の事を流し目で誘惑している、今は月明かり色鮮やかさを奪われ性を知った妖艶さ、その抑え方も知らずただ溢れ出させているだけの蠱惑的な微笑で私を見ている、そんな絵を収めた額縁は僅かな光を必死に散らせ良く人から情を注がれていると胸を張る。この天蓋付きの寝台もその身に纏う服は幾度も新しく仕立て直しているではあろうが成長をしない無機物の骨格は変わることは無くあの時のまま、それに窓辺に佇む薔薇が刻み込まれた深い紫の硝子の花瓶も彼女のお気に入りなのだろうか何年も静かに立ち尽くしている、その身に刻まれた二輪の花だけでは満足しないのか今は濃桃色の花びらが身を寄せ合っている、Sileneだろうか、肩を寄せ合う小さき花々は美しくても何も知らずに誘われた虫は足を取られそして逃れなくなってしまう、そしてそこに悪意もないという些か彼女に似合わない花ではあるが。色彩を奪われた夜の中でもその存在感は変わらない厳かな調度品も、その面影は一切変わらず彼女の事を見守って来たのだろう。

「そう、これで終わり。君はきっとこれから幸せな人生を歩むことになるだろう、いやこれまでも恐らくそうだったんだろう、だからこれから歩む道もきっと変わらないよ、相手も君と変わらない恵まれた家の男。だとしたら私はどういう言葉をかけてあげればいい?幸せになって、という言葉はもう達成しているであろうし、これからも変わらないことを願うというのは、今の私が言うべき言葉ではないよね。そしたら私との、そうあの頃の二人とも少女だったころの想い出を大切にしまっておいて、これも良くないし、私の事を茜の頭の中から消し去って欲しい、そう言うのならば私は此処に戻ってきて昔の様に何度も何度も肌を重ねるべきじゃなかった、だからきっと何も言わなければいいだけなの」

私はそう言って彼女の左手に指を添える、細長く白い指に黒いマニキュア、それが纏わりついてくるのは気味の悪さすら感じるだろう、そう女郎蜘蛛が這うような背筋が凍るような感覚、誓いの指輪に触れその形を確かめる、手の込んだソリテール、六枚の百合の花弁を模し、希望の結晶を空に掲げている、しかしダイアモンドの結晶は彼女の肌よりも冷たい、触れたものの熱を奪う呪いのような冷たさを持っている。彼女はその様子から目を逸らしている、そんな意思を尊重するように彼女の首許に一度口づけすると舌を這わせる、震えはしても吐息一つ漏らさずただ私の方を見ないようにしているだけの彼女、指輪の形を確かめるように纏わりつく私の指の動きにも応えることはない、この舌が浮かび上がった鎖骨を這いまわっても、呪いの様に吸い付き赤い跡を強く残しても只管耐えているだけ。青い血管が浮き出て美しく彩ってあるであろう白い肌に包まれた柔らかい乳房、ここはもう触れられているのだろうか、それとも貞操を守っているのだろうか、そんな事を思いながらその感触を愛でるように頬摺りをする。ほのかに香るのはGiacinto Selvaticoの花束の青い爽やかな香り、その奥に微かな苦みを湛え"Please forgive me"と目を逸らして走り去って行く。狡い、といじらしく私の胸を触り返すこともなく、昔の様に初めて触る母以外の乳房の感覚に胸をときめかせ、この胸に顔を飛び込ませ私の香りと常春の暖かさを愉しむ事もない、あの頃よりもより大きく、傲慢なまでに魅力を閉じ込めたここに足を踏み入れれば帰ることが出来ないと、黄泉戸喫を避けるように、Ὀρφεύςのように悲しい歌をもう一度歌うことが無いようにと。私が全く恐れることもなく口に含んでも、振り返ってもそれを見なかったことにしようとただ震えているだけ、そんな彼女の顔はどれほど美しいだろうか。無邪気さを失い、睨みつけるような切れ長で、意思の強い私の瞳、彼女は唯受け入れるだけのか弱き少女の残り香のする愁いを帯びた瑞々しい瞳は今どのような輝きを放っているのだろうか、傲慢に花開く唇を染め上げた私と異なり薄い色でいじらしく悲しい言葉を紡ぐ唇はどのように震えているのだろうか、でも今は彼女の身体を貪り食らいつくすことにどうも夢中なんだ。「愛してる」私の唇から零れ彼女の耳に染み込むその言葉は私の心から自然に生まれた言葉、何度も何度の彼女の耳元で囁きながら彼女の身体を絡めとる、私の肢体は細長く蔓の様に彼女を締め上げる、Cuscutaのように彼女の身体の隅々までその蔓を這わせ白い花を咲かせる、その花、愛という言葉の純白の美しさ、押し付けられる私の身体の柔さの感触に苛まれながらも彼女はその口を開くことはない。彼女の体内までその蔓は強欲に忍び込んでゆく、それは女の匂い誘われ寄生し体液を貪るようなもので私の中に彼女を感じさせよう、快楽を与えようという献身的な心など無く、湿った暗い洞窟の奥で雫が垂れ硬い灰色の岩肌に当たるときの光が差したと錯覚させるような音を奏でて私の耳を満足させるだけの行為、むき出しの肉に締め付けられる熱い拒否感を貪るだけの暴力、事実彼女は少しだけ不快感と痛みから来る苦悶の声を漏らしている。私の熱く火照る身体が鎮まるまでその捕食は続く、震える冷たい身体が少しずつ熱を帯びてくるのを私自身の快楽に変えて盃から蜜が零れるまで続ける、彼女の細い首許を擽る私の吐息の甘い感触と強引に押し付けられる私の身体の、この世界の男とそして一部の女であればずっと味わっていたいであろう感触と痺れるような、肌に焼き付くような悦楽の軌跡を描きながら、それでいて無遠慮なこの指が作り出す確かな不快感と、そして自分の身体の奥に響く良心が拒否する粘着質な水音を響かせながら彼女の心を蝕み続ける、決してそれを快楽に変えて愉しんではいけないという錆びついた鎖のような使命感、もっとも今近くにいる美しい女が愉しんでいるという事実、何もかもが噛み合わない狂った協奏曲を夜通し聞かせ続けるの……。

「もう、帰ってください」それは突然彼女の口から零れた本心、いやどれほど時間彼女の身体の感触を愉しんでいたかなんて正確に把握する事なんて私はできていないのだから夜明けが近いことを親切に教えてくれただけなのかもしれない。唇を奪おうと彼女の顔をこちらに向けさせると、当然の様に私を突き放しそして彼女はベッドから降りる。その姿は愛を受けることができないままの朝の到来で散ることを知っている月下美人の諦観を帯びた冷たい美しさで私を魅了しているかのようにも見える、いや実際に私はずっと彼女の虜なんだ。「もう二度と私に会おうなどと思わないでください、恋、そして愛には相応しい時というものがあり、そして貴女は一度まさにその時に現れてくれたのに私を捨てた。そして厚かましくも相応しくない時に記憶の棺の中で綺麗に飾り付けられて眠っていた過去の愛の姿のまま私の前に現れた、それは唯の不幸でしかない。貴女に悪意があるだなんて責めることはしませんから私と同じように貴女も私、茜という女を、過去の愛を眠らせてやってくれませんか?」

私からかけるべき言葉はきっと何もない、先ほどまで彼女の中に居た、妖しく光る濡れたこの指をわざとらしく舐めると立ち上がる、窓辺のSileneを撫でてみると名残惜しそうにこの指に粘液が纏わりつく、それは私のこの醜い愛情のようで、でもそれが余りにも愛おしく輝くものだから彼女の冷たい残月のような存在感を背に、灼けつくような笑顔を一人で浮かべる。微風と共にこの身体は窓から旅立ち既に帰路につくわけだけれども私の心になんら寂寥感など無くただ燃え盛るような愛だけがこの身体を満たしていた。

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