お茶やりましょう、滝に打たれましょう

岩上尚行

第1話

「その拭き方、間違っていますよ。棗を清める時はこうです。」

 二月の土曜日の昼過ぎ、茶道教室の先生から作法の誤りを指摘される。

 教室に通い始めて半年だが、いまだに初歩的なミスをしてしまう。

 関西から転勤で東京に来て間もなく一年。社宅に引越し、新しい部署の雰囲気や仕事にも慣れてきた頃、たまたまネットで見かけた茶道教室の生徒募集のページに妙に心引かれ入門した。

 マンションの一室を茶室に改築した教室は、掃除がよく行き届いており、とても居心地がよい。

 俺は茶道を「礼儀正しく、茶を点てて、飲む」事だと思っていたが、習い始めてみると、道具を「清める」作業が多々ある。また、その作法も実に細かい。

 道具毎に決められた作法で客の前で清めなくてはならない。

 道具は前もって洗われてあるが、客の面前でキメの細かい絹製の帛紗ふくさで清めなくてはならない。

 ピッカピカの道具で、お客に茶を飲んでもらう。

 洗ってある物に対して更に綺麗な絹で徹底的に清める。日本の美意識なのだろう。

 教室終了後、今日の稽古について他の生徒と雑談をしていると、後ろから声を掛けられた。

「お疲れ様。スムーズで綺麗なお点前でしたよ」

 声の主は近藤京子だった。

 自分と同じ時期にこの教室に入門した彼女は、高校生の時に茶道部に所属していた。

 部の存続の為、人数合わせの幽霊部員だったと言っているが、それでも茶の湯についての知識は俺より豊富だ。

 教室の他の女性とは話しづらいが、京子とは同時期に入門した者同士で割と気さくに話ができる。

「とんでもない。先生の指示通りに動くのがやっとですよ」

 俺は謙遜して答えたが、内心ちょっと嬉しかった。お世辞でも、経験者で同世代の女性に褒められると嬉しい。

 彼女との会話は、この教室に来る大きな楽しみだ。

 京子は切れ長で涼しげな美しい眼をした女性だ。こんな子が俺の彼女だったら良いなと以前から考えていたが、これまで、月三回の茶道教室で会う以外に接点が無いため、距離を縮めるキッカケを見つけられないでいた。

 いつもは自分から話しかけるが、今日は珍しく彼女が声をかけてくれた。良い兆しだ。

 この機に、少しでも、京子との距離を縮めておくのが良策だ。

「よければこの後、少し、スタバにでも行って、お話ししませんか?」

 俺は勇気を振り絞って、それでいて重苦しさは感じさせないよう、極力軽めに言ってみた。普段は仕事帰りの稽古のため、カフェや食事に誘うのは時間的に厳しいが、今日は先生の都合で土曜日に振り替えられた。

 稽古が終わっても充分時間がある。

「えぇ、いいです。」

 京子は快く誘いを受けてくれた。

 俺と京子は教室の近くのスタバに入った。

 スタバの中で俺と京子は向かい合って座り、仕事のこと、仕事仲間のこと、好きな食べ物やお互いの出身地等、いろいろな事を話した。茶道のことが最も話が弾む。

「茶道具って古い物でも光って見えるものがありますよね」京子が言う。

「ウンウン、確かにそうだね」

 きちんと手入れをして保管をしているものは年月が経っても、色褪せない。漆器などは使い込み、清めて行けば行くほど味わい深い光を出してくれる。

「ところで、次の土曜は予定あります?デパートで陶芸家が個展を開くのだけど、そこで程茶もされるって。一緒に行ってみませんか?デートの様な重いものではなく、軽い感じで。ね、どうかな?」

 茶道具の話になった時にこの話を切り出そうと狙っていた。これを下心というのだろう。

 あわよくば、もっと距離を縮めようと言う更なる下心もあるのだが、さて、彼女の反応は。

「えぇ、いいですよ」

「ホント、いいの?」

「うん。他の先生のお点前も見てみたいし」

 ガードが固そうだから、やんわりと断わられるかと思ったが、ちょっと意外だった。

「じゃあ、待ち合わせは四時に新宿の西口で」俺と京子は、その後、たわいもない話しをして、家路についた。


 ▼


「ただいま」誰もいない社宅に帰ってきた。

 汚く散らかった部屋が俺を出迎える。遅い夕食を取る為に惣菜をキッチンで開けるが流しの水垢が少し黒ずんでいるのに気が付く。

 茶道を始めて汚れに敏感になったのかもしれない。

「結婚したら奥さんはこう言う所も綺麗にしてくれるよね」独り言だ。

 分が所帯を構えた時の事を想像し、相手の顔を京子にしてみた。

 鏡は見ていないが、今の自分の顔はニヤけているだろう。

 だが、お構い無しに勝手な妄想を膨らましながら食事を始めた。


 ▼


 週明けの月曜日から、俺はいつも以上に仕事に精を出した。間違っても休日出勤にならないよう、スケジュールも体調管理もしっかり行った。

 その甲斐あって、余裕を持って約束の日を向かえられた。

 待ち合わせ場所に先に着いた俺がスマホを見ながら待っていると、京子が急ぎ足で、遅れてごめんなさいと言いながら現れた。

 白のノーカラーコートにシャツとニット、黒のスカートという出で立ち。知的で上品な雰囲気だ。

 俺は、大して待ってないよ、と軽いフォローを入れた。

 イベント会場へ行きながら京子は電車が少し遅れた為と遅刻の理由を話してくれたが、大遅刻ではないので、気にもならなかったし、電車や駅の事など、会場に着くまでのいい話のキッカケになってくれた。

 個展はデパート内の美術品売り場の階で開かれている。

 会場は他の売り場とは壁で区切られたエリアだ。白のテーブルクロスの上に茶碗が、壁には水墨画らしき作品も飾られている。

 陶芸家だから、茶碗のみかと思っていたが、掛け軸も展示されている。

 そのうちの一つを見たら値札があった。ボーナス、ン回分だ。

 隣に障子で区切られたエリアがあり、ここでお茶が振舞われるようだ。

 俺達は順番が来るまで二人並んで椅子に座った。

「近藤さんが学生の時にやっていたお茶は、今と同じ流派だよね」

「えぇ、当時から和風なものに憧れて。でも、掛け持ちだったから、あまり熱心には稽古していませんでしたよ。その時は茶道に色んな流派があるなんて知らなくて。お菓子を食べに行くのが目的だったし」

「そういえば、お姉さんがいるだよね?」

「三歳上の姉が。もう、お嫁に行って家を出ていますけど」

 自分たちの番が来た。

 京畳なのだろう、畳のサイズが自分の部屋より少し大きい。これは掃除も大変だろう。

 振舞われたお茶を飲んだ後、二人でデパート内を見て、少しブラブラした。

 俺は京子との心の距離を縮める為、もう一押しして見ることにした。

「ネェ、もしよければ、今夜、夕ご飯も一緒に食べませんか?」

 京子は少し驚いた様子だったが承諾した。

「えっと。いいですよ」

 俺は先週見つけておいた高層ビルの上にあるダイニングバーに連れて行った。

 今は「デート」だと言う雰囲気を匂わせ、それでいて警戒心を持たれないような雰囲気作りや会話に頭をフル回転させた。


 ▼


 高層ビルの、それも窓際の席。デートの席としては高得点だ。予約していなかったから、よい席は取れないか心配したが運が良かった。

 会話も結構弾んだ。手応えはマァマァというところだ。

「京子さんは、付き合っている人とかいないよね?」ズバリ聞いてみた。

 合コンや友達の紹介ではないから、相手がいるかどうかは自分で聞き出さなくてはいけない。

「えっ、と、いませんよ」

 京子は少し戸惑った風だったか、答えてくれた。

 だが、この次の会話のつなげ方が難しい。「いやー、ぼくもなんですよ。じゃ、付き合ってみませんか?」とは、なかなか言えない。

 そこへ良いタイミングでウェイターがワインを持ってきてくれた。

 話題を料理やお酒に変え、その会話の中で自分も付き合っている人がいない事を、サラッと告げた。

 その後、ウェイターに会計をお願いした。

 今日のところはお開きにして次回、また良い雰囲気のお店へ誘い、より距離を縮める事に成功したら告白する事にしよう。

 そんな事を考えながら黒の伝票入れにお金を入れてウェイターに渡した時、京子が口を開いた。

「えっと、私実は、好きな人がいて」

「えっ?」

「ごめんなさい。なかなか言い出すタイミングが無くて。友達感覚でお話しできるのかと思ったからお誘いを受けたのだけど…」


 俺は目の前が真っ暗になった。

 気がつくと自分の部屋にいた。

 京子と駅の改札まで一緒に帰ったのは憶えている。

 気持ちをごまかすように、いろいろ喋りながら帰って来たが、何を喋って、どういう風に帰ったのかわからない。

 所々、記憶が抜けている。ショックが大きかったのだろう。

 今までも振られたことはあるが、今回は振られる以前。

 自分一人でただ浮かれていただけだった事を思い返すと惨めさが出てくる。


 ▼


 月曜日、会社を休もうと思ったが、踏ん張って出社する事にした。

 一人で居ると、気持ちが沈み込んでしまい、気が変になってしまう。

 幸い急ぎの仕事も無いので、溜まっていた単純な仕事を片付けてしまう事にした。

 昼休み、仕事から離れると、土曜日の事が思い出される。

 先週まではデートのプランを練る為にウキウキしながらネットの情報を漁っていたが、今日は全く違う。

 心にゴミかサビがついている様な、鬱屈してドンヨリした感覚が俺を不快にする。

 この不快感を紛らわす為に、スマホをいじっているが、全く気が晴れない。

 先週は、レストランのページを見てはメニューや値段、地図アプリでお店の場所を、ウキウキしながら見ていた。

 何気なく地図アプリを見ていた時、ある寺が目に留まった。何とは無しにそのお寺をウェブで検索した。

 どうやら、独自のホームページを持っているようだ。縁起や開闢かいびゃくの由来、年間行事のリンクが貼ってある。その中に週末体験修行というのがあった。

 そのページを開くと、座禅や写経の事が書いてある。ページの一番下まで辿っていくと、滝行というのがあった。

 どういうわけか、滝行が気になり、やってみるかという気持ちになった。

「もしもし、滝行をやりたいのですけど…」

 俺は寺に電話を入れて受付をした。


 ▼


 人生で初めて滝に打たれる。こんな展開は転勤前全く予想していなかった。

 小高い丘の上にある寺の本堂に入ると、僧侶ともう一人私服の男性がそこにいた。

 僧侶から、今日滝行に挑むのは自分と、そこにいるもう一人の男性であることや、滝行の作法や水の受け方の説明を受ける。

 僧侶の指示で彼が先に滝を受けることになった。

 行場によって作法は異なるようだが、ここでは、二回滝に打たれる。

 一回目に邪念や悪い気を洗い流し、二回目に祈念や心願成就を願いながら打たれる。

 僧侶の案内で更衣室も兼ねる小屋に行き、そこで滝衣たきえに着替えた後、滝場に案内された。

 滝場は四方を注連縄で囲われている。口を開けた竜の頭の石像が二、三メートル上に設置してある。今立っている場所から短い階段を降りて滝を受ける行場に入れるようになっている。

 僧侶から水門を開けてくるから、しばらく待つように言われて、その場で立っていると、竜の口から水が流れ始めた。

 戻ってきた僧侶から、「では、始めます。順番に階段を降りて先ほど説明した要領で滝行を始めてください」と言われた。

 もう一人の男性が、階段を降り行場に入り滝行を開始した。

「エイッ!!」

 彼は気合を発し、まず、左肩に水を受け、次に右肩。

 そして、後ろを向き、後頭部で水を受け始める。

 俺もこれやるのか…少し憂鬱な気分で様子を眺めていた。

 心の準備が整う前に先に滝を受けていた人の行が終わり、自分の番が来た。

 俺はゆっくり階段を降り、行場に入った。

 自然の滝を利用しているのではなく湧き水を利用しているのだが、目の前に流れている水を見ると、正直、心が怯むし、足もすくむ。

 やめとけば良かった。と、 後悔しても今更遅い。

「エイッ」

 覚悟を決め、気合を発し左肩に水を受けはじめる。

 冷たい!!

 次に右肩。やはり冷たい!!

 そして、後ろを向いて後頭部で水を受ける。

 頭部に受けた水は滝衣を全て濡らす。

 水を含んだ滝衣は重さを増し、全身に重りをつけたような感覚に囚われる。

 そして、水が痛い。水の冷たさが、体の体温を一気に奪い、痛みのような感覚を感じる。

 ヤベェ、ヤベェ、逝ってしまう。

 さっきまで抱いていた後悔の気持ちさえ吹っ飛んだ。


「それまでっ」僧侶から合図がかかる。

 ここで一旦滝から出てもう一人の人と交代する。

 足元に溜まり始めた水は、くるぶし程の高さだが、とても冷たい。

 待っている間も寒いし辛い。歯がガチガチ鳴る。


 自分の二本目の番が来た。

「エイッ」気合を発し、滝に打たれ始めた。髪から滴る水が鼻や口にかかり息をしづらくなって来た。正直キツイ。

 カッコ悪いが、僧侶からの合図はまだだけど、怪我をして身体を壊してはバカらしいから滝から出てしまおうか…いや、もう少し我慢しよう。

 冷たい。痛い。冷たい。痛い。冷たい。痛い。

 苦しい。息もしづらい。もうダメか。

 いや、もう少し我慢しよう。

 冷たい。息苦しい。痛い。冷たい。息苦しい、痛い。冷たい。

「それまで!!」

 僧侶から合図がかかった。

 俺は滝から出て、僧侶が居る所までフラフラになって歩いた。

「二人とも、よく頑張りました。いい顔をしていますよ」

 一緒に行をした人の顔を見ると、確かにサッパリ、いや、どことなく光ってみえる。

 心と体をワックスがけしたような、そんな感じだ。

 小屋に戻り、滝衣を脱いでいる時、鏡に自分の姿が写っていた。

 冷水を浴びた為、体は赤味を帯びているが、顔は真っ白だ。が、どことなく、光って見える。


 家に帰ると、京子からメールが来ていたのに気がついた。

 茶道の稽古日を変える事と、まもなく関西に帰ることが書いてあった。

 昨日までの俺なら、彼女からのメールに心が疼いたり揺り動かされたりしただろうが、今は、どういうわけだか、妙に落ち着いてメールを読めた。

 滝の水で、綺麗サッパリ彼女への気持ちが流されたのか。

 そう、都合よく気持ちの整理がつくわけはないだろうが、冷たい滝の水を浴びて頭の中が真っ白になり、とにかく行をやり遂げようという事のみ考えたら、心の中に巣くっていた惨めさ、滑稽さが消え去ってしまったようだ。


 ▼


 茶道の稽古の日、先生から京子が別の日に変わったことを伝えられた。

 入れ替わりに、新しい人が入門したそうだ。

「失礼します」女性の声だ。

 茶室に入った人を見た。中々綺麗な人だ。

「先輩だから、色々教えてあげてね」先生が声をかけてくれた。

 新しい出会いが始まる。

 

                                ==了==

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お茶やりましょう、滝に打たれましょう 岩上尚行 @sumauo

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