フェンリルを待ちわびて
濱野乱
第1話
修学旅行三日目ともなると、旅の栞もくたびれてくる。
平田伊織は、バッグからはみ出た栞
を丁寧に畳んで底の方に仕舞った。
「まだ起きてたの?」
布団から起き出したのは、伊織と同室の丸井雫だ。髪型はボブカット、性格は物静かで成績優秀。手元の携帯の明かりが雫の顔を暫し照らしたが、すぐに消えてしまった。儚い蛍の光のようだった。
「あと何分?」
伊織が急かすように訊ねる。
「あと五分だよ。あと五分で私たち」
「大人になれる」
伊織は興奮気味に後を引き取り、雫の隣に敷かれた布団に身を横たえた。
彼女たちの他に同室の少女は四人いたが、全員が仰向けになり微動だにしなかった。
誰が言い出したのかはっきりしない。同室の少女の一人が深夜0時になるまで起きていられたら、大人になれるという迷信を持ち出した。
教師巡回の目をかいくぐり、中学生達はガールズトークに花を咲かせたが、定番の恋バナに他人の悪口、流行りのブランドについて議論をかわしても、数時間で話題は尽きてしまった。
「あの子達、かわいそう。大人になれなかった」
同情するように雫が言った。その時、窓ガラスを叩くような音がした。風の悪戯だろう。それでも二人は互いに手を取り、闇の中で震えだした。
「フェンリルが来た」
一か月以上前、
北欧神話に出てくる狼の話を雫から聞いた伊織は、狼は子供の肉が好きだと冗談を言った。
雫は真に受け、自分が狼に狙われているという妄想を抱いた。過剰な反応にやがて伊織も感化され、大きな犬にすら恐怖心を抱くようになった。
「でも大丈夫。狼は子供の肉が好きなんでしょう?」
「多分」
「多分って何よ、伊織。あ、そろそろ0時だわ」
「ねえ何か聞こえない?」
耳をそばだてる。床を踏みしめる音が近づいてくる。二人の背骨が仰け反る。
「フェンリルは子羊の肉を舌に乗せて味わう」
「大人になった私たちは大丈夫」
安心した伊織の腕を強引に掴み、雫は自分の布団に引きずり込む。抵抗する伊織の悲鳴は柱時計が打つ0時の鐘の音にかき消された。
「ああ、よかった。私たち、これで大人になれたわ」
巡回していた教師が、伊織たちの部屋の入り口に立った時、違和感を覚えた。寝息が全く聞こえないのである。明かりを点けて所在を確かめてみた。
明かりに照らされた乙女達は、確かに眠っていた。胸の前で手を組み合わせ、静かに、呼吸もせずに。彼女達の寝具は赤く染まっていた。
伊織と雫だけがわずかに息があったが、搬送された病院で死亡が確認された。彼女たちの死因は、胸を一突きにされたことによる失血死。
例外は、雫と伊織だった。彼女たちの手の平には互いの切り取られた舌が握られていた。
二人の旅のしおりには、『フェンリルが来る。子羊の生贄を用意する』という殴り書きと共に、目を赤く塗られた獰猛そうな犬の絵が添えられていた。
フェンリルを待ちわびて 濱野乱 @h2o
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