第4話


     ♢



 金曜日は、その週では飛び抜けて朝から気分がよかった。つい始業前にコンビニで抹茶ラテを買って、うっかりプレーンスコーンに手を伸ばし、デスクで朝食をとるくらいには。

久しぶりに悩みごとより業務に軸足を置いて仕事に臨むことができた。毎日ヒントを探そうと見続けていた栗山の姿を、今日はほとんど見ない日でもあった。これから付き合うかもしれないという段階なのに、既に冷め始めたみたいで面白いと思った。

昼休み中には、コンビニパスタを食べながらもし付き合いだしたら、についても考えた。

考えなんてのも気分次第だ。今日は、近くて遠い上司と部下の恋愛を、意外に楽しめそうな気がした。わざと時間をずらして、退勤し、秘密のバーで落ち合うのだ。そこでは二人はただのカップル。きっと昨日までなら、「周囲の関係がぎくしゃくしそう」と負の面ばかり考えていた。

プレミアムフライデーというほどではないが、残業を少しでも減らすため、金曜日は役職のある人間以外は定時退勤がルールになっている。定時きっかり、私は上司である栗山に帰る旨を伝える。ついでにこっそりと

「来週、ご飯行こう。お店は任せるから」

こう耳打ちした。栗山は驚いたような顔をしてから、周りの目をきょろきょろと伺う。部長に見られたらまずいと思ったのだろうか。さらさらとメモ用紙に書いて渡してきたのは、「嬉しい。了解! また連絡する」というだけの短い文面。

私はスケジュール帳を取り出して、見開きの左隅に貼る。初めての文通ではしゃぐ中学生みたいだな、と思ったけれど、嬉しかったのだからしょうがない。

これがいつか、私のまともな恋愛の一歩になっていくのだ、たぶん。

顔が綻びそうになるのを押しこらえて、上席に挨拶をしてから会社を出る。ボタンを押して、下りのエレベーターを待って乗り込んだ。中には、私より先に、忙しく電話をしながら書類をめくる男の人が乗っていた。しかも、器用にひじで開くボタンを押してくれている。金曜日の夕方から営業・外回りだろうか。とにかく大変そうだ。私はパネル操作を代わる。

十階から一階に着く頃には、男の人の電話は終わっていた。急いでいるだろうと思って、先にどうぞと促す。すると、その人は私の方を振り向いて、

「ありがとうございます」

にかっと微笑んで走り去っていった。


その瞬間、がたん、となにかが落ちた音がした。

携帯? そうじゃない。

私の心の中だった。昨日の夜、今さっきのやり取り、奇跡も六感も、全てが落ちてエレベーターの床に転がる。実際、荷物も落としてしまった。

たった一矢だった。きっと相手からすれば、何気なく手渡したようなボロい木の矢一本が私の心臓を貫いていた。私の身体は不思議なほど脆く、あっという間に崩れていく。

悩ましいのも、楽しいのも全部がなくなって頭の中ががらんとした。代わりに真ん中に浮かんできたのは、「今日が命日でも後悔しない」そんな言葉だった。

それほどに格好良かった。あれが営業スマイルだとしたら、プライベートはどんな顔で笑うのだろうと考えたら末恐ろしい。そして見てみたい。

つまるところ、あのほんの一瞬のうちに、私は恋に落ちてしまっていたのだった。


もう栗山のことなんてどうでもよくなっていた。あとで、やっぱり行けなくなったと断ろう。予定帳につけたあのメモも捨ててしまおう。

巡り巡って、また視覚。奇跡や六感に辿り着く日はいつ来るのだろう、このまま五感だけを延々と巡っていく気がした。だって、為すすべもなく全く逆らえない。今度はうまくいくと思っていたのに、六道輪廻は夢のまた夢────いや、そうでもないのかもしれない。今しがた、気づいたことがある。


私はオフィスを出て、ビルの隙間から空を見上げた。もうじき夏至を迎える。快晴も快晴、雲のひとつもかかっていない青空が高く広がっていた。なんとなしに携帯を取り出し、写真を一枚撮る。何かの記念だ、と思った。そしてそのまま、佳奈子に電話をかける。他の二人は、仕事中かもしれない、と考えた。

一二と待って、三コール目で繋がる。

「もしもし、佳奈子。今忙しくなかった?」

「夜ご飯の支度中だよ。まぁまだ大丈夫、どうしたの。栗山さんに言えた報告?」

「そうじゃなくてさ」

じゃあなに、と聞かれて、私はすかさず答える。

「私、恋しちゃった」

「……え? 栗山さんに?」

「違う」

「……もしかして」

「全然知らない人。いますれ違ったの。どこの会社の人だろう。とにかく格好よくて!」


本当は私だって信じていたのだ、奇跡や六感を最初からずっと。

たしかに恋の始まりはいつも五感からかもしれない。けれど、確かに信じていたのだ。私が純粋に好きだと思った気持ちが、この恋がいつか奇跡になることを。私の六感にかなうことを。

だから、普通の恋愛じゃなくたって別に構わない。誰にどう思われようと、たとえ時間がかかってしまっても。そのいつかに辿り着くまで、きっと私は五感で恋を続ける。まやかしの理想の恋愛を求めるのはもうやめだ。

素直に恋をしよう。思うままでいれば、それでいい。そうと決まれば、早速アタックだ。まずは彼がどこの会社か特定しなくてはならない。


電話が切れた後、私は思い出したように野球速報を開く。開始十分、ライオンズはイーグルス相手にもう三点を先取していた。西武一筋、頼れる三番の一振り。

気分がこれ以上ないほど、高揚する。今から所沢に行こうか、きっと今日は大勝するに違いない。


    

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五感恋愛 たかた ちひろ @TigDora

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