EX. ポンコツ達の恋愛事情

EX1. ある少女の追憶

『──お前、泣いてんのか?』


 ぶっきらぼうな声だった。


 会話の常識である挨拶は無く、初対面なら必ず付けなければならない自己紹介も無い。人と話す時は相手に不快感を与えないよう穏やか且つ丁寧に、といった前提すらも守れていない。乱暴で、荒々しい気配を滲ませた声だった。当時、穏やかな大人達に囲まれて暮らしていた少女にとって、は全く未知の生物だったのだ。


『無視すんな。聞いてんだろうが』


 朝靄の中に沈んだ、白い石造りの街並み。


 街を横切る運河、それを見下ろす石造りの橋の上で、少女はその少年に出会った。朝の早い街の人達がそろそろ起き出すか起き出さないかというような、夜と朝の境界線。まだ暗い視界の中では、少年は街に迷い込んできた肉食獣のようにも思えた。汗を全身から滝のように流し、息切れの余韻を声の端々に滲ませたそれは、今考えれば鍛錬の帰りだったからだろう。聖騎士には専用の修練場があるというし、時間帯も早過ぎた事も考えれば、きっとあれは彼独自の鍛錬だったのだろう。昔から努力家だったのだ。


『何か言えよ。黙ってちゃ何にも分かんねぇだろ』


 そして、彼もまた手探りだったんだと思うのだ。


 粗暴で素っ気無い口調なのは確かだったけれど、良く良く思い返してみるとそれだけじゃなかった。見知らぬ少女がメソメソ泣いている現場なんて面倒だったろうし、迂闊に踏み込もうものなら大怪我する可能性だってあった筈だ。気付かなかったフリをして通り過ぎる事だって出来た筈で、下手な優しさが徒になる事もある今の世の中、何だかんだでそれが一番賢い選択肢だったのではないかと思う。


 それでも、彼は知らないフリはしなかったのだ。


 目線を決して合わせてくれなかったり、態度が何処と無く攻撃的だったりしたのは紳士的とは言い難かったけれど、それを当時少年だった彼に求めるというのも酷な話だ。


 けれど当時の少女には、それらの事が理解出来なかった。


『ほっといてください』


『……あ?』


 あの時、少女は”神”になったばかりだった。


 思えば。言葉にすればシンプルな、けれども想像を絶するような”力”を手に入れた彼女にとって、たかだか少しばかり身体を鍛えただけの少年なんか、取るに足らぬ存在だった。


 でも、それは何も、見知らぬ少年に限っただけの話ではなかったのだ。


 厳格だけれど公平で、恐れと尊敬を抱いていた父。一番の理解者で、将来の姿として憧れの目標だった母。時々鬱陶しくなるくらいに可愛がってくれた、一番の仲良しで優しかった兄。


 祖父。祖母。


 叔父。叔母。


 友達。


 知り合い。


『ほっといてください』


 世界。


 世界、そのもの。


『どうせ貴方には分からない』


『……』


 少女は、”神”になった。絶大な力を手に入れた。


 その代わり、尊敬も、親愛も、未来も、希望も、大事にしていた全てを奪われる羽目になってしまった。気軽に兄と喧嘩して、感情を爆発させるのは許されない。力が感情に反応して、兄を永遠に消してしまうかも知れない。誰かの相談に乗ってあげて、同情する事も夢を応援することも許されない。力が感情に反応して、ねじ曲げてはいけないものをねじ曲げてしまうかもしれない。


 穏やかに暮らしていた少女にとって、望んでいたのは平穏な日常だった。


 けれども望んでもいない”神”の力は、少女からその唯一の願いを奪い去った。それだけでは飽きたらず、それまで一生懸命に生きて築き上げてきた人間関係や環境を、全部纏めてブチ壊した。


 恭しくなった両親。いっそ卑屈になってしまった祖父母。顔を合わす事すら無くなってしまった兄や友達。何もかもが変わってしまって、少女は世界の全てから置き去りにされたような心境だった。


『ほっといて』


 あの時少女は、本当は世界を呪いたかったのだ。


『ほっといてよ』


 けれど本当にそれが出来てしまうから、代わりに自分の心を殺すしか無かったのだ。


 今思えば恥ずかしい。ヒロイズムに酔っていたとは、まさにああいった状態の事を言うのだろう。 


 目を逸らし、あからさまに拒絶のオーラを放っていた少女を相手に、けれど少年は、易々とめげてはくれなかったのだ。


『ちょっと来い』


 思い切ったように当時の自分の手を掴むと、少年は何の説明も無しにさっさと歩き出した。


 突然の展開に吃驚し、寧ろ吃驚し過ぎてしまい、少女は咄嗟に悲鳴を上げる事も出来ず、素直に引っ張られて行った。夜風だか朝風だかよく分からない、曖昧な時間帯の風がふわりと身体に纏わりついて来て、酷く肌寒かった事を覚えている。或いはその時、今更ながら恐怖を感じ始めていたのかも知れなかったが、軽くパニックに陥っていた少女は、大声を出すという簡単な抵抗方法さえ思いつかなかったのだ。


『……ど、何処に行くの?』


『ついて来りゃあ分かる』


 綺麗に整備された、広い石造りの歩道。その両脇を挟むように並んでいた三角の屋根の背が高い建物達はどれもこれも似たような造りで、少女にはまるで整列して囚人を見張る兵隊のように見えた。まだ夜も明けきっていない、それらの輪郭は時間と共に大きく伸び上がっていき、反対に彼等の真ん中を通る少女はどんどん小さくなっていく。


 頭の何処かではそれが現実ではないと分かっていたのに、息が詰まって苦しかった。


 押し潰されるとすら思ったくらいだ。


『そろそろ時間か。急ぐぞ』


 今でもたまに考える。


 あの時、もし少女が少年に出会わなかったら、どうなっていただろう。


 背負いきれずに、自決していただろうか。


 それとも本当に、心身ともに神にだろうか。


 どちらにせよ彼と出会わなければ、少女は今頃、自分自身では居られなかった。


『此処だ』


 やがて辿り着いたのは、街で一番背の高い時計塔だった。


 荘厳な鐘の音を鳴り響かせ、街全体に時の流れを伝えるその建物は、本来なら関係者以外立ち入り禁止の筈だった。けれど、彼はそんな決まりなど知った事かとばかりにズカズカと侵入し、上へ上へと登り始めた。


 ガタガタ、ゴトゴトと大小様々な歯車が噛み合う音。思ったよりも狭い階段。最低限の光源しか確保されておらず、半分以上が闇に呑まれた空間。


 予想以上に人気が無い建物内部の雰囲気に、少女は身の危険を強く感じ始めていた。尤も、少年はそんな少女の想像とは裏腹に、少女自身にはあまり関心の無い様子だったけれど。


『──……間に合ったな』


 やがて、最上階に辿り着いた。


 恐らくは整備用か何かの小さなベランダみたいな場所に出た時、少年が小さくそう呟くのが聞こえた。


 一体、何に間に合ったって言うんだ。


 そう思った瞬間、高い所特有の強い風が横合いから不意打ちのように襲って来て、少女は咄嗟にベランダの手摺に捕まり、庇うように思い切り目を閉じてしまった。


 そのまま状態で強風をやり過ごし、数秒。


 何だか瞼の裏が眩しくなったような気がして、少女は恐る恐る目を開けた。


 そして、見た。



『あ──』



 夜の闇の中に沈んでいた、白い石の都。


 地平線の彼方から顔を出した黄金の光が夜の帳を切り裂いて、その街並みを照らし出していく。夜の闇の中では恐ろしげに見えた石造りの通りや建物は陽光の色に染まり、街中を流れる運河はその光を反射してキラキラと眩しく輝いていた。


 夜の闇が追い払われた空の色は、黄金を微かに含んだ鮮烈な白。


 吹き抜けていく強い風ですら心地良く感じてしまうような、新しい一日が始まった光景だった。


『……何があったのか知らねぇけど』


 圧倒されていた。言葉で表すとかそんな理性的な事なんか思い付かないくらいに、ただ、ただ、圧倒されていた。


『苦しいほどに悩んでるんなら、突っ張るんじゃなくて周りに話してみろよ』


『周りに……?』


『人間、サトリじゃねぇんだ。あんな所で一人でメソメソ泣いてたって、気付いて貰える訳無いだろうが』


 甘えんな。


 何気無く付け足されたその言葉を聞いて、少女は頭の中で精神的な何かが切れるのを感じた。


 少女が変わってしまっても、世界はこんなにも美しい。世界は変わってしまった訳じゃない。悩んでいる少女の事など素知らぬ顔で、世界は今日も一日を回し始めている。変わってしまったのは、少女の方だ。


 でも結局、少女は世界の輪の中に、今まで同じ世界の中に戻る事は決して出来ないという事実は変わらないのだ。少年は周りに頼れと言ったが、その周りが少女から離れて行ってしまったのだ。それなのに、どうやって頼れと言うのか。


 甘えるな、だと? 甘えたくても甘えられないから、こうなってるんじゃないか!


『私——』


 本当は、分かっていた。


 少年は少年で、メソメソ泣いていた少女に発破を掛けてくれようとしていたのだと。やり方は強引だし、正直少女に合っているかは微妙な所だったけれど、それでも彼は彼なりに必死だった事は当時の自分にも何となく分かっていた。


 あんな事、絶対言うつもりは無かったのに。


 昇る朝日の輝きが、近くて遠い世界の光景が、少女に言葉を止めさせてくれなかった。


『私、バケモノになっちゃったんだ。人間じゃなくなっちゃったんだよ』


 朝陽が眩しくてボロボロ涙を零しながら、少女は自らの地雷を踏み抜いた少年に言葉を、怒りを叩き付ける。


『あなただって、本当の私を知ったら逃げ出しちゃうに決まってる。その気になれば、私、貴方をこの街ごと消し飛ばせちゃうんだよ』


 今思えば、何ともまぁイタいセリフだ。けれども当時の少女は必死だったし、実際それは本当だったから、他に言い様なんて無かったのも事実である。


 何はともあれ、少年はそのイタさを指摘するような事はしなかった。ただ驚いたように目を見開き、マジマジと少女を見つめて来ていた。少女は少女で少年の心中を推し量る余裕は既に無くて、この後に来る展開を勝手に想像して勝手に悲しくなっていた。


 変わらない世界を再発見しても、再び過去の自分に戻りたくても、変わってしまった事実だけは変えられない。少女は一人きりで、傍に居てくれる人は誰も居ない。


 この少年だってそうだろう。今は良くても、少女の事を識ってしまったら、その内少女から離れていくのだろう。これ以上は傷付きたくなくて、それなら最初から突き放してしまえと、少女は荒んだ気持ちで少年を見る。ボロボロと泣いている事にも気付かないまま、精一杯の脅しを掛けた視線で、少年を追い払おうと睨み付ける。


 少女がそう願えば瞬く間に消滅してしまうであろう、取るに足らない存在である少年は、



『——は』



 けれど少女の必死の脅しを嘲笑うかのように、歯を剥いて凶暴な笑みを浮かべて見せた。


、オジョウサマ?』


 ガッ、と掌を掴まれる。


 吃驚して身体を竦ませ、力を振るう処か声すら発せない少女に見せ付けるように、少年は自らが握った少女の掌を軽く掲げて見せる。


『ちょっと強力な”リンゴ”を手に入れたからって調子に乗んな。人間は何が出来るかじゃねぇ。何を実際に成し遂げるか、だ』


 どうも、少女を”リンゴ”を手に入れた強化人間か何かだと早とちりしている様子だったが、残念ながらそれを指摘する余裕は少女には無かった。何しろ少女は敬虔なメリア教信徒の家に生まれ、その教えに沿った教育を受けてそれまで育ってきたのだ。異性と触れ合う機会など殆どなかったし、そもそも男と女、その違いについて考えた事も無かったのである。


 木刀を握って出来たものだろう、タコやマメだらけの、男としては発展上のゴツゴツしたその掌こそが、少女が初めて識った”異性”だった。



 握られた掌が、ジンジンと熱い。バクバクと暴れる心臓の音が煩くて、けれど少年の声だけは、ハッキリと聞こえる。



 嗚呼。


 あの瞬間の事は、今でもハッキリと覚えている。きっと一生忘れないだろうし、何だったらその後の少女の人生の核となった。



『ぅ――』



 世界を支配する神にも、星を滅ぼす悪魔にも成れたかも知れない少女は、きっとこの時、その可能性を永久に放棄した。少女は神も悪魔も選ばずに、ただのティセリア・クラウンに戻れたのだ。


『う、うぅ、ぅ――』


 込み上げてくる衝動。決定的に歪む視界。


 ギョッとして、狼狽えた様子の少年の気配に、何故だかその事にひどくホッとする自分自身。




『——うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん……っっ!!!!』




 感情の堤防を全て意図的に決壊させて、ティセリアはそれまで言葉に出来なかった寂しさと悲しさと恐怖と不安を全て慟哭に変換して泣きじゃくった。自分を人間だと言ってくれた少年がひどく狼狽えた様子なのが、彼がちゃんと自分を人間扱いしてくれている証明のように思えて、この時ばかりは我慢する事を放棄した。


 そうだ。私は泣いても良かったんだ。


 だって、私は人間だから。


『——わああああああああああああああっ!! うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん……っっ!!』


『勘弁しろよ、此処まで泣くか、フツー? っかしーな、小雪なら絶対キレて殴りかかってくんのに……』


『うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっ!!!!』


『ああ、えっと、すまん、ごめんって。なぁ、頼むから泣くなよぅ……』


 新しい一日が始まろうとしている、時計塔の上。


 恥もへったくれも無く、それまでの感情の負債を清算するように泣きじゃくる少女ティセリアと、それを必死に宥めようとする少年シン。二人の声は、朝陽の景色は、あの時の思い出は何もかも、少女の胸の内に残っている。


「──……綺麗だったよねぇ」


 あれから、何年の月日が経っただろうか。


 彼はもうあの日の事を覚えていないようだけれど、それでも自分はちゃんと覚えている。きっと、一生忘れないだろう。


 それは少女が”自分”を得た、始まりの記憶。


 初めて自分と彼が巡り会った、大事な大事な、宝物の記憶である。 

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