PHANTOM HEAVEN 【Episode:15】

〔15〕


 ログアウトし、ゴーグルを外すと、見慣れた自室の天井が飛び込み、思わず安堵の吐息が漏れる。

ミス・ショットのお陰で、割れるような頭痛は消えていた。ほっと両手で無精髭の薄く生えた頬を撫でると、向かいのソファーで身じろぐ気配がする。


「兎羽野さん……!」


 ゆっくりと上半身を起こしつつ、タブレット端末を片手に僅かに腰を上げているリードに頷き返す。


「お加減はいかがです?」

「ああ、ミス・ショットのお陰で絶好調だ」


 軽い口調で言う俺に、リードはその整った相貌を曇らせる。てっきり、いつものように小言が飛んでくるかと思ったが、少しばかり肩透かしをくらった気がして、俺は薄く笑う。


「心配を掛けたな。すまない」


 リードは情けなく眉を下げて、強張った顔を少しだけ和らげてみせる。


「兎羽野さんがそんなに殊勝だと、調子が狂いますよ。明日は大雪になるかも」

「なんだ、そりゃ」


 埋め込んだチップに異常がないか、こめかみに触れてみる。僅かに熱を持っている気もするが、とりあえずはまだ、破損だけはしていないらしい。


「僕、あんな戦闘スタイルは初めて見ましたよ」

「ダンスフロアーでの大乱闘は、俺も初めてだ」


 茶化す俺に、リードは「分かっているでしょう?」とでも言いたげに、じっとりとこちらを見つめ、俺は軽く肩を竦める。


「アーマースーツを新調したんだ。超深海帯ヘイダルゾーンにダイヴするには、それなりに耐久性のあるものが必要になるからな」

「その為には、スピリットに負荷を掛けるのも厭わないと言う訳ですか?」

「真莉奈の死の真相を知る為なら、俺は何だってするさ」


 リードが何か言い掛ける前に、俺は「だが」と続ける。


「俺は死なない、約束する」


 途端に、リードの顔が馬鹿みたいに輝き、俺は「いや、でもあれだな」と胸の前で腕を組む。


「保証はできねえかな。まあ、無駄死にしないように、気を付けるけどさ」

「……兎羽野さん!」

「冗談だっての」


 小さく笑うと、呆れたようにリードが首を横に振り、気を取り直したように身を乗り出す。


「先程、目を覚ましたピジョン君に話を聞いたのですが……」

「ああ。先生から軽く聞いた。化け物がどうとか話していたそうだな」

「ええ、ピジョン君が情報収集でダイヴしていたところ、突如、化け物のようなものに襲われたそうです」


 そうリードが液晶画面をこちらに向ける。そこには、醜悪なドラゴンのような生物の絵が映し出されていた。


「ミス・ショットから聞いたが『鏡の国のアリス』という物語の中の詩に出てくる、架空の生物なんだよな?」

「ええ、鏡の国のアリス自体、作者のルイス・キャロルの言葉遊びが満載の作品で、ジャバウォックについても諸説あるようですが……咄嗟に、ピジョン君が化け物をタッチしたそうで、唯一得られた情報が『Jabberwock』という言葉だったようです」


 あんな風にスピリットを攻撃できるなんて、どんな奴なんだろう……まさに、ピジョンの言うように化け物のような奴なのだろうか……?


「僕も電犯のデータベースを検索してみたのですが、あそこまでスピリットを破損できるような、アーマースーツや武器は該当しませんでした。ジャバウォックという電脳ネームでのダイバーや始末屋などの該当も無かったです」

「だろうな、俺もジャバウォックなんて奴は初耳だ」

「これもチルチルとミチルが関わっているのでしょうか……?」

「その可能性もあるかもしれないな……ピジョンにもう少し詳しく聞ければいいが」


 リードが「それが……」と、肩を落として頭を横に振る。


「かなりスピリットに影響が出てしまったようで、目覚めたピジョン君は、前後の記憶が殆どない状態でした。でも、何か思い出したら連絡してくれるそうです」

「……そうか」


 つられて重く溜息をつきながら、リードが何かを思い出したように腕時計に視線を落とす。


「兎羽野さん、ジュースなんてあります?」

「あん?」


 訝る俺に、リードはちらとキッチンを一瞥して揶揄うように笑みを浮かべる。


「どうせ兎羽野さんの事だから、冷蔵庫には、お酒だらけでしょう? 食べ物もあったところで、肴になるようなものばっかりって感じでしょうね」


 なんだ? 冷蔵庫の中でもスキャンしているのか? ぎょっとする俺に、リードが可笑しそうに肩を揺らした。


「子供が喜びそうなものが無いのは、想像に難くないですよ」

「なんだよ、さっきから……」

「ケン君がもう少ししたら、ここに来る予定なんですよ」


 ケンが? 目顔で問いかけると、リードが「あなたがMELで診察を受けている間に、彼から連絡があったんです」と立ち上がる。


「直接、お話ししたいそうですよ。僕は、彼の為に飲み物等を買ってきますね。あ、こちらは桐谷翔君に関しての資料です」


 そう差し出されたファイルを受け取り、玄関へと向かったリードを見送る。ケンが来る前に読んでおこうと、渡された捜査資料に目を通す。

 まったく、ペーパーレスが当たり前のこのご時世に、おまけに電犯の捜査資料だというのに、紙の資料とはね……

 桐谷翔……ケンと同じプラチナ地区の私立小学校に通い、成績は中の上といったところ。しかし、スポーツに関しては抜きんでていて、体育の成績はA+か……ケンと同じサッカークラブに所属。

 気になるところと言えば、両親が半年前に再婚しているという事だ。カケルは母親の連れ子らしい。父親にも一人息子がいるが、現在は海外に留学中となっている。

 添付された画像には、家族旅行で撮られたらしい写真があった。白い砂浜で撮られた一枚は、幸せな家族のひと時といった雰囲気ではある。

 学校生活で、いじめなどの問題を抱えていた記録もないし、スクールカウンセラーに相談した記録もなし、か。

 表面上なにも問題がないのが、反対に妙な引っ掛かりを感じさせた。そして、彼の記録はどうしても、自分のジェンダーに悩んでいたルナを思い出してしまう。

 思わず低く唸るような声が漏れ、俺の足元に伏せの姿勢でいたケルベロスの瞳が黄色に光り、短く吠える。

 玄関先で人の気配がし、すぐさまリードとケンが姿を見せた。


「アパートメントの入り口で、ちょうどケン君と会えましたよ」

「あの、お邪魔します」


 ケンが興味深そうに室内をきょろきょろ眺める。その様子に、警戒してのっそりと立ち上がったケルベロスの合金の頭を撫でてやる。


「ケルベロス、あの子は不審者じゃない。お友達になってこい」


 ケンを警戒対象者ではないと認識したケルベロスが尻尾を振りながら、彼の元に駆け寄る。ケンは厳つい番犬型ロボットが近づいてきたので、ぎょっとしたようだった。

 しかし、ケルベロスがお行儀よく前足を揃えて座り、彼を見上げると満面の笑みを浮かべた。


「うわ、お前、カッコイイな! おっさん、この犬、名前は何て言うの?」

「ケルベロスだ」

「ケルベロスかあ、お前、名前もホッパーだな!」


 尻尾を千切れんばかりに振るケルベロスの顎や背中を撫でるケンの横で、リードがあからさまにムッとした顔をこちらに向けた。


「……酷いですよ、兎羽野さん……!」

「はあ?」


 何がだよ? 思わず片方の眉を上げると、リードは子供のようにむくれて、大股にこちらにやってくる。ぎょっとして、思わず身を後ろに退く俺の前に、リードが仁王立ちになる。


「僕、ケルベロスを撫でさせてもらった事、まだないですよ! なぜなら、飼い主のあなたに承認されてないからです!」

「……むきになるなよ。子供を不審者登録する必要はないだろ?」

「僕だって、不審者じゃないのに……」


 そう、しょんぼりと肩を落とすので、俺は苦く笑いながら両手を降参したように上げる。


「もう、あんたは不審者ではないと承認してある。だから、好きなだけ撫でろよ」

「えっ、本当ですか!?」


 そうリードの顔が輝き、彼はケルベロスの元へと向かうと、早速わしわしとメタリックのボディを撫で始める。今まで我慢していた分、その手つきは妙に情熱的だ。


「ケルベロスー! ようやく、きみとお友達になれるよ! よーし、よしよしよし! きみは良い子だ、良い子だねえ!」


 リードのその様子に、ちょっとケンが引いたように後退りし、俺は彼を手招きする。ケンが向かいのソファーにちょこんと腰を下ろした。


「他のメンバーも来るかと思った」

「うん……ナギサは、凄く来たがっていたんだけどさ……」


 そう呟きながら、室内を物珍しそうに眺めている。その様子に、思わず小さく笑ってしまう。

 一般的な独り身の男の部屋であって、子供が好きそうなゲームも玩具もないと思うが。


「別に面白いものはないだろ?」

「あ、うん……ナギサに頼まれてさ」

「なにをだ?」


 ケンはつぶさに部屋の中に視線を巡らせ、軽く肩を竦めてみせた。


「おっさんの家に『女の影がないか』を確認してきてほしいって」


 唖然とする俺の隣に腰を下ろしたリードが、吹き出したように笑い、ケンがちょっと難しい顔をして首を傾げた。


「でも、よく分からなくってさ……おっさんが女の人と住んでいるかって事かな?」

「大丈夫。兎羽野さんに、ステディな女性の影はありませんから」

「なんで、お前が断言するんだよ」


 笑いを滲ませながら言うリードを横目で睨む。ケンは「そっかあ、そうナギサに伝えとく」と満足げに頷き、俺は気を取り直して彼に言う。


「で、俺達に話したいことがあるんだろう?」

「あ、うん……」


 ケンは赤く染めた髪をかき混ぜるように掻き、リードが落ち着かせるようにジュースのボトルを彼の前に置いた。

 ケンは「ありがと」と囁くように呟き、ボトルに手を伸ばす。さっきまでの元気はどこへやら、彼の瞳は物憂げだった。

 ケンはジュースを一口飲み、意を決したように俺達を見た。


「あのさ、カケルについてなんだ」


 俺達はゆっくりと相槌を打ち、ケンは手の中のボトルに目を落としながら、呟くように言う。


「カケルは、アナーキーセブンのリーダーみたいな奴で、俺と一緒のサッカークラブなんだ。クラブでもカケルはキャプテンで、あいつがいないと、俺達のチームは負けっぱなしでさ」

「カケル君は、きみの大切な親友なんだね」


 リードの言葉に、ケンが何度も頷く。俺は慎重に言葉を選びつつ訊く。


「カケルが昏睡状態になる前に、彼になにか変わった様子はなかったか? 例えば、家族関係とか……そういう事を打ち明けてはいなかったか?」

「……カケルは、新しくできたお兄さんとは仲良くしていたし、凄く喜んでたよ。元々、一人っ子で、兄貴が欲しかったって……でも、お兄さんが留学してから、ちょっとずつ元気がなくなってさ」


 再婚後に出来た兄が留学したのは、半年前……そして、カケルのボディとスピリットが切り離されたのは、一ケ月前の出来事だ。


「サッカーの練習にも来なくなって……どうしたのか聞いても、ちょっと調子が悪いだけだって笑ってた」


 リードは細長い指を顎先に当てて何かを考えていたが、気遣わしげな瞳をケンに向ける。


「カケル君の身体に、痣や傷があったことは無かったかな?」


 ケンが驚いたように瞠目し、リードは柔らかい口調で「スポーツの授業で着替えたりすることはあるよね? その時に、背中やお腹にそういった傷は無かったかな?」と続ける。

 ケンは記憶を手繰り寄せるように目を泳がせたが、ゆっくりと首を横に振った。


「無かったと思う……だけど……」


 そうケンは、学校の制服のポケットから何かを取り出す。テーブルに置かれたのは、スペース・カウボーイのキーホルダーで、アナーキーセブンの子供たちがリアルに戻ってきた時のアミュレットに使用していたものだ。


「これさ、ただのキーホルダーじゃないんだ。録音機能と録画機能があって……」

「本当だ。中に記録用のチップが仕込まれていますね」


 スキャンを行ったらしいリードが頷き、ケンは大切そうにキーホルダーを握りしめる。


「カケルがあんなことになる前の日に、預かってほしいって渡されたんだ」


 思わず俺とリードは顔を見合わせる。ケンは、握りしめていたスペース・カウボーイをこちらに差し出した。


「中身を確認したけど、ファイルにはパスワードが掛けられていて、俺には開くことができなかったんだ。本当は、カケルの親に渡さなきゃいけないのかもしれないけど……それをしたら、いけない気がして……」

「それを……俺達に託してくれるんだな?」


 ケンは祈るようにぎゅっと握りしめた手に力を込め、それから俺達の前にそれを置いた。


「本当は少し怖いよ。そのファイルを開いたら、とんでもない物が出てきそうな気がするんだ……」

「でも、カケルは、お前にそれを預けた……ケンの事を信頼していたからだ」


 ケンはくしゃりと、一瞬泣きそうに顔を歪めて、俺は思わずその頭に手を置いた。


「安心しろ。パンドラの箱の底には希望が残っているそうだ」

「……なにそれ」


 ケンが鼻を啜るようにしながら俺を見やり、思わず笑みが漏れる。


「必ずカケルをリアルに戻せるように、俺達も全力を尽くすってことだ」


 カケルは少し潤んだ目元を乱暴に拭い、はたと思い出したように俺達を見やる。


「あのさ……オッサンの首に賞金が掛かってるんだよな? 大丈夫なの?」

「ああ、あれなら……兎羽野さんが、ハンター達を鏖殺したので平気ですよ」


 ケンが首を傾げ、リードが「ジェノサイド……つまりは、ほぼ全滅させちゃったって事です」と、にこにことしてみせる。

 ケンが、ぎょっとしたように俺を見やり、軽く頷いてやると「すげえな、オッサン」と身を乗り出す。


「とはいえ、俺に賞金が掛かっている事に変わりはないし、お前のスペルの件もカタはついちゃいないんだ。MELにはダイヴするなよ?」

「……分かってるよ」


 ケンが面白くなさそうに唇を尖らせて、傍に伏せていたケルベロスの背中を撫でる。その時、リードのモバイルフォンが着信を告げ、席を立つ。

 すぐさまリードがこちらに戻って来たが、その顔は少し険しく、何かあったのだとすぐに分かった。


「電犯からでした。カケル君と同じような症状の人が、次々に病院に搬送されているようです」


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