PHANTOM HEAVEN 【Episode:14】

〔14〕


 ぼやけた視界に、見慣れない天井とシャンデリアが飛び込む。低く呻くような声が漏れ、俺はゆっくりと上半身を起こす。

 クラシカルなカウチソファーに寝かされていたようで、モスグリーンを基調にした壁紙の薄暗い書斎のような空間に目を走らせる。


「目が覚めたかしら?」


 見れば、ベルベッド調のアームチェアにミス・ショットがゆったりと脚を組んで座っていた。


「ここは……?」

「MEL空間内のあたしのセラピールームよ。大立ち回り後に倒れたあなたを、治療の為に移動させたの」

「……そうか」


 つい癖でこめかみを揉む俺を、ミス・ショットがじっと見つめながら言う。


「スピリットに大分、負荷が掛かっていたわ。今回は、投薬キットで無事だったけれども、次はどうなるか……」

「先生の『お注射』のお陰だな」


 茶化して言う俺に、ミス・ショットは真っ赤なルージュの引かれた唇の端を上げる。


「リアルで散々、診察から逃げ回っているから、丁度良かったわ。ああ、逃げようとログアウトしても、無駄よ」


 そう彼女が俺の足元を指差し、視線を落とせばそこには銀色の蛇がするすると這っていた。

 蛇は、ぎょっとする俺とカウチソファーの脚を拘束するように絡みつく。すぐさま蛇が金属に変わり、思わずため息をつく。


「まったく、先生らしいな」

「こうでもしないと、あなたはすぐに逃げるでしょう?」


 ふふふっ、とミス・ショットが形の良い目を楽しそうに細める。その瞳の奥に、彼女の加虐趣味が垣間見えた気がして、俺は片方の眉を上げた。


「あなた、闇チップを追加したようね」


 俺は、ポーカーフェイスを保ったままじっと彼女を見つめる。ミス・ショットは、艶やかに波打つ髪を掻きあげて、長い脚を組みかえる。


「大丈夫。あなたの上司には知られていないわよ。医師には守秘義務ってものがあるもの」

「……そうか」

「とはいえ、あなたの先ほどの乱闘ぶりを目の当たりにすれば、彼だって気づくはずよ」


 思わず溜息をつくと、ミス・ショットはこちらの反応をつぶさに観察するような瞳を向ける。まったく、これだからセラピーは苦手なんだ。


「先生、あんた……患者から、サド医者って言われないか?」

「さあ? 虐められるのが好きな患者ばかりのようで、クレームが来たことはないわね」

「そりゃ、何よりだな」


 愉快そうにミス・ショットが小さく笑い、サイドテーブルに置かれた革張りのファイルに目を落とす。


「真莉奈が亡くなってからずっと、あなたの希死念慮はどんどん強くなっているみたいね。まるで、彼女へ贖いの気持ちがあるように思えるわ」


 贖い、か……俺は低く呟きながら、両手でゆっくりと顔を擦る。ミス・ショットはつと立ち上がり、飾り棚から酒瓶とワイングラスを取り出す。


「電脳ワインでもいかが? リアルではお勧めできないけれど、疑似酩酊ならば問題はないわ」


 そう彼女が深みのある赤ワインを注ぎ、俺の傍にあるサイドテーブルへと置く。再び向かい合うように腰を下ろした彼女とグラスを軽く持ち上げる。

 馥郁とした赤ワインを飲み、俺は吐息と共に囁く。


「真莉奈が死んでからずっと、考えていた。俺と一緒にいなければ、彼女は死ぬこともなかったんじゃないのか……と」

「それは何故?」

「彼女の死後、俺はその真相を知りたくて、真莉奈の情報を掻き集め続けた。MEL空間にある痕跡ログや足跡を辿り、真莉奈の事を本当は何も知らなかったんじゃないかと愕然とした」

「それは、真莉奈が古くからの友人でもある、あたしのセラピーを受けていたことも、含まれるのかしら?」


 俺はグラスに残ったワインを飲み干し、軽く頷いた。彼女のゴーグルに残された情報を元に、MEL内での交友関係などを探っていたら、スピリットの専門医兼セラピストである、ミス・ショットへと辿り着いたのだ。

 おまけに真莉奈は、彼女のセラピーを受けていたらしいのだ。


「……真莉奈が何に悩んでいたのかは、守秘義務とやらで、教えてはもらえないんだろう?」


 ミス・ショットは、ワイングラスをゆっくりと回しながら軽く肩を竦めた。


「そうね……あなたが捜査している事件に、治療内容が関わっているとすれば、電犯で正式な手続きを踏んでもらわないとね。でも、あなたは敢えてそうしない、でしょう?」

「何となく検討はついていたし、俺にとっては、触れてはならない、パンドラの箱のようなものだったからな」


 それは俺の想像などではなく、青い鳥プロジェクトについて知った時に確信へと変わった。


「彼女は青い鳥プロジェクトで、チルチルとミチルというヒューマノイドの母親代わりをしていた。そう……真莉奈は、ずっと……子供を望んでいた」


 思わず呻くような声が漏れ、自嘲的な笑みが浮かぶ。


「俺自身、自分の家庭環境が余り良くなかったせいで、強くは子供を望んでいなかったし……彼女も、いつか出来ればそれでいいと言っていた。だけど、彼女のゴーグルには不妊に関する資料がいくつか残っていた……」


 ミス・ショットが背もたれに体重を預け、ひじ掛けに頬杖をついた。照明を最小限にした室内に、俺達の影がいやに不吉に伸びている。


「最近、鏡を見てぎょっとしたよ」


 俺は両手で顔を擦り、自嘲気味に低く笑う。


「鏡越しの自分の顔に、あの男の面影が重なって、ぞっとした。あやうく、ミラーを叩き割りそうになった」

「あの男……それは誰のことかしら?」

「……父親だ。酒乱で平気で女に……母親に手を上げるクズ野郎だった」


 今でもありありと思い出す事ができる。床に蹲った母親の押し殺したような悲鳴に、呂律の回っていない罵倒と、滅茶苦茶に蹴りや拳を叩きつける父親……あいつは、まるで呪文のように母さんに「お前がどうしようもない女だから、いけないんだ」と罵っていた。

 

「子供心に、どうして母親は、殴られ罵倒されても、あんな男といるんだろうって不思議に思っていた」


 それでも、父親は毎日毎日、母親を殴っていたわけじゃない。外ではスーツを着て、真面目に働いていて、それこそ急な嵐みたいに、発作に襲われたように自分を失くすほど酔って、母さんに手を上げる事があったのだ。


「セラピストから言わせれば、DVを受ける典型的な妻といったところね。殴られるのは、わたしが悪い、夫は、本当は暴力を振るう人じゃない、と思ってしまうのよ」

「そうだな……母さんも、そんな事を自分に言い聞かせるように呟いていた。だが、そんな呪いが急に解けたんだ……」


 今でも覚えている。あれは、俺が七歳の事だ。夕暮れに染まる道を母さんと歩いていて、彼女は夕飯に使う野菜などが入った袋を持っていたのを覚えている。

 俺は、学校にあったことなどの母親に話し、家に向かって歩いていたのだ。ゆるやかな坂道を上れば、自宅に辿りつくというところで、母さんが急に立ち止まったのだ。


「……お母さん?」


 夕焼けに染まった住宅地の路地には、帰宅する人々が行き交い、どこかの家から漂う何かを炒めるような匂いが鼻孔を擽った。

 見上げた母さんの顔は、どこか呆然としており、俺は何だかその様子に怖くなって、少し冷たい彼女の指先をぎゅっと握る。

 その時、彼女がハッとしたように俺を見下ろし、それからゆっくりと瞬きしたのだ。まるで、俺がここにいるのに今、気づいたような……いや、自分がここに居る事をたった今、知ったような……そんな面持ちだった。

 整ってはいるが、どこか疲れが滲んだ顔もオレンジ色に染まり、母さんは何かを囁くように唇をわななかせ、そして俺の手をぎゅっと握り返したのだ。

 そのまま彼女は、家から反対方向に足早に歩きだし、俺は訳も分からず半ば引っ張られるようにしながら歩く。

 次第に母親の歩調が速まり、俺と母さんは、追いかけてくるモンスターから逃れるように、住宅地から走って離れたのだ。


「そのまま、俺達はDV被害者のためのシェルターに駆け込み、クソったれの親父と会うことはなかったってわけだ……」


 あの日、あの路地で母さんは何を見たのだろう……? それは今でも分からないし、聞いても応えてはくれなかっただろう。

 元々、病弱で、必死に俺の事を育ててくれた母親は、俺が警察学校に入学が決まったその年に、病気で亡くなってしまった。


「あんな男にだけはなりたくない……そうずっと自分に言い聞かせてきたんだ。なのに……俺ときたら、真莉奈が死んで、箍が外れたように酒に溺れるようになっちまった……誓って、真莉奈に暴力を振るったことは無い。しかし、俺は……結局、彼女を幸せにしてやれなかった……」

「それがあなたの贖いの原因なのね」

「俺は、彼女の事を何も理解していなかったんだ。彼女が亡くなる直前、真莉奈はどこか物憂げだった。チルチルとミチルのナニー役をしながら、苦しんでいたのかもしれない」


 俺がもっと彼女と向き合っていれば……真莉奈の気持ちを察することが出来ていれば、青い鳥プロジェクトに関わる事もなかったのかもしれない。

 項垂れる俺に、ミス・ショットが静かに切り出す。


「真莉奈とのセラピー内容を話すわけにはいかないけれど、彼女はあなたとの結婚を後悔してなどいなかったわ」


 俺は顔を上げて彼女を見つめる。ミス・ショットが唇の端を上げる。


「それにね、夫婦や家族が互いの全てを知っているわけじゃないわ。愛し合っている者同士が全てを曝け出していたら大変な事になるわ。人は誰しも秘密の一つや二つ、抱えているものよ」

「先生が言うと説得力があるな」

「そうでしょう?」


 ふふふっ、とミス・ショットが蠱惑的な笑みを漏らし、するりと俺の脚に巻き付いていた蛇が彼女の元へと這っていく。

 シルバーの蛇は彼女の座るアームチェアをするりと登り、彼女の腕に巻き付いた。ミス・ショットが、その蛇の頭部を指先で擽るように撫でる。


「もし、真莉奈が今、あなたの目の前に……ここに立っていたら何て言うと思う?」


 そう、向かい合う俺の足元を指差す。

 咄嗟に応える事ができなくて、俺は思考を巡らせるように薄暗い診察室に視線を巡らせる。

 

「彼女は、どんな表情をしているかしら?」


 想像の中の真莉奈は、俺の前に立って微笑み、そしてゆっくりと唇を動かした。


「死なないで、と……」


 俺はぼんやりと呟き、そこにはいない微笑む真莉奈を見つめる。


「そう。じゃあ、きちんとリアルで治療をしないとね」


 ハッとなって目を瞬かせると、ミス・ショットがカルテらしきものにペンを走らせていた。


「このままスピリットに負荷を掛け続ければ、ボディに影響が出て、確実にあなたは死ぬわ。検査の予約を取ったから、必ず来院すること。日時はあなたのゴーグルに送っておいたわ」

「なんだか、先生にしてやられた感があるな……」


 思わず溜息をつくと、彼女がワイングラスを傾けながら艶然と微笑む。


「さっきの真莉奈の言葉は、あなたの言葉でもあるのよ」


 苦く笑って頭を掻くと、彼女は蛇の身体を撫でながら続ける。


「それに、パンドーラーの箱の底には『希望』が残っているの」

「……希望、か」


 席を立った俺に、ミス・ショットが思い出したようにこちらを見やる。


「そういえば、さっき治療した、ピジョン……あの子が目を覚まして、化け物がどうとか言っていたわよ」

「化け物……?」

「ええ、あなたのハンサムな上司が話を聞いていたけど……ジャバウォックだったかしら、そんな事を話していたわ」


 ジャバウォック……眉根を寄せる俺に、ミス・ショットは「あら、知らないの?」と蛇を首に巻き付けながら小首を傾げてみせた。

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