PHANTOM HEAVEN 【Episode:9】
〔9〕
向かいの椅子に腰を下ろすと、彼女はガーベラの花びらを優しく撫でた。
「待ち合わせに遅刻をした時は、いつも花を一輪、プレゼントしくれたわね」
「ああ、懐かしいな」
彼女は水の注がれたコップにガーベラを差し、テーブルに置かれていた俺の手の甲に指を這わせた。
「わたしの好きな花、憶えていてくれたのね……」
「忘れるわけないだろ……きみの事は何一つ、忘れていない」
思わず眉根を寄せる俺に、真莉奈が小さく微笑んでみせた。
「あなたに、またこうして会えて嬉しい」
「……きみは、ボディから切り離されたスピリットなのか?」
彼女の手を握り返しながら訊くと、真莉奈は淡く微笑んだ。
「残念ながら、わたしは彼女によって造られた、botとAIに相当する機能があるものよ。真莉奈の思考パターンや、記憶、性格が反映されているの」
「きみはMEL空間上の彼女の分身というところか……だが、そんなAI機能まで搭載されている存在なんて……聞いたことがない」
「そうでしょうね。成功すれば最先端の技術だから」
彼女が小さく微笑んで小首を傾げるようにし、彼女の艶やかな髪がさらりと肩から流れる。
「真莉奈は、どうしてこの空間を
「オリジナルの真莉奈は、万が一のことを考えていたのよ」
「……万が一?」
真莉奈は、何かを思いついたように顔を輝かせながら身を乗り出した。
「ねえ、よく二人で行った公園を覚えている?」
「ああ、もちろん」
「久しぶりに散歩しない?」
そう彼女が席を立ち、俺も追いかけるように腰を上げる。人が行き交う石畳の通りを歩きながら、自然と互いの手が重なって指が絡む。
このまま、ずっとこうして二人で過ごせたら、どんなに幸せだろう……隣を歩く真莉奈を見やると、彼女は「なに?」と小首を傾げた。
「いや、きみの年齢に合わせて、擬態すれば良かったかなってね」
「どうして?」
「きみはあの頃のままだけど、俺はその……大分、老けただろ?」
「そんなに変わってないわよ。でも……しいていうなら、十年前より渋さが出てきたかな?」
そう真莉奈が相好を崩し、俺もつられて小さく笑う。そんな会話を交わしているうちに、いつも二人で散歩していた公園に辿りつく。
芝生が広がる大きな公園は、芝生の上で寝そべる学生たちや、犬を散歩させる老夫婦に、ジョギングをする若者等がいる。俺達は噴水の側にあるベンチに腰を下ろす。
太陽の光に反射して煌めく噴水を眺めながら、真莉奈がそっと俺の肩口に凭れる。
「ねえ、憶えている? あなたが、ひったくり犯を捕まえた時のこと」
「ああ、勿論、憶えているさ。というか、あの日の事は忘れようにも、忘れられないよ」
思わず苦笑いしてしまい、それに気づいた真莉奈が可笑しそうに肩を揺らす。
「あの日は、あなたったら、ずっとそわそわしていて……話していても、どこか上の空だったわね」
「そりゃあ、落ち着きもなくすさ。なんせ俺の上着のポケットには、婚約指輪が入っていたんだから」
その日、俺はディナーの席で、彼女にプロポーズをしようと決めていたのだ。だが情けない事に、俺ときたら、中々、切り出すことができなかったのだ。
悶々としながらレストランを出て、すっかり日の暮れたこの公園に辿り着いたのだ。あんなに緊張したのは生まれて初めてといっても過言ではなかった。
「あの時は……凶器を構えた悪党と一触即発の雰囲気で睨み合っている時の数十倍は、緊張していたな」
「あなたらしい言葉ね。まあ、でも言い得て妙かも」
今度こそ彼女に切り出すぞ、と意気込みながら、そのタイミングを待つ。
ライトアップされた噴水に喜ぶ彼女との会話がふと途切れた。
刹那、俺は「今だ!」と特殊部隊時代の、事件現場に突入する瞬間を思い出しつつ身体を向ける。そんな俺の勢いに、真莉奈が目を見開いた。
「ど、どうしたの? お腹でも痛い?」
「いや、腹は痛くない……! そうじゃなくて、これを受け取って欲しい……!」
俺は上着のポケットから指輪の入ったケースを取り出して、蓋を開ける。勢いよくケースを差してしまい、驚きの表情を浮かべる彼女に、俺は真摯に言う。
「俺と結婚……」
言い掛けたのと同時に悲鳴が聞こえて、半ば反射的に俺は立ち上がる。
「……なんだ!?」
続けざまに街灯が少ない路地の方から絹を裂くような声がし、俺は「きみは、ここにいろ!」と一気に走り出す。薄暗い路地に向かうとそこには、横転した女性と、その先には彼女のものらしい女物のバッグを片手に走っている男がいる。
間違いない、ひったくりだ……! そのままスピードを上げて男の背中を追いかける。
「おい! 待て、こらあ!」
怒声を張り上げつつ、スピードを保った勢いで男の背中に飛び蹴りをくらわせる。突然の衝撃に、男が「ぐあ!?」と奇妙な声を上げながら、顔から地面に転んだ。
その隙をついて、俺は男の背中に乗り上げて、思い切り腕を捩じる。
「な、なんだよ……!?」
「黙れ、このクソ野郎が! 警察だ、大人しくしろ!」
肩を外す勢いで捻り上げると、犯人が情けない声をあげて抵抗をやめる。モバイルフォンを取り出して、巡回中のパトカーを呼ぶ。数台のパトカーが到着して辺りは騒然となったが、ひったくり犯を引き渡して、ようやく一息をつく。
「……まったく、手間を掛けさせやがって」
その直後、いや一息ついている場合じゃないぞと我に返る。
おまけに俺、指輪はどうしたっけ!? 駆け出す直前に放り投げてしまった気がする……!
慌てて彼女の元に戻ろうとしたのと同時に、声を掛けられて振り返れば、そこには真莉奈がいた。
「真莉奈! す、すまなかった。その、ひったくり犯がいて……」
ヤバイ……ヤバイぞ、これが原因で、彼女との関係にヒビが……いや、それより最悪な状態に、呆れられてフラれるんじゃないか……? あたふたと軽く血の気を引かせながら、言葉を探す。
そんな俺をまっすぐ見つめながら、彼女は黙ったまま左の手の甲をこちらにあげてみせる。その薬指には婚約指輪が光っていて、すぐさま真莉奈はにっこりとした。
俺は、自分でも情けない顔になっているのを自覚しながら吐息した。
あの時の事が鮮明に甦り、自嘲的な笑みが浮かびつつ、思わず照れて頬を掻く。
「あれは、とんでもないプロポーズだったな」
「そう? あなたらしい……いえ、わたし達らしいプロポーズだったと思うわ」
そう彼女がこちらに笑顔を向け、俺は胸が締め付けられるような気分を噛みしめながら、薄く笑みを返す。
「ずっと、こんな風にきみと話していたい……だが……」
「ええ、青い鳥の話をしましょうか」
真莉奈の美しい髪が穏やかな風に靡き、俺はその横顔に目を奪われた。
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