終:後奏

終:後奏_postlude

 運命というものがあるのなら、それは、多数の枝を持つ大樹のような姿をしているに違いない。何かの本で、そんなふうに読んだ。


 本だけじゃなくて、おれは何度も見てきた。毎晩のようにね、いろんな一枝の夢を見てたんだ。破滅した一枝も、未来につながった一枝も、いろいろ。


 だけど、そんな一連の夢は、ある夜パタッとやんでしまった。そのことが、ほかの何よりもハッキリと、おれに悟らせた。


 闘いが終わったんだな、って。




 地下駐車場のエレベータホールで親父と対決してから、四ヶ月が過ぎた。


 本当に、ごくごくフツーの四ヶ月だった。誰も四獣珠を狙って襲撃をかけてこないし。おれは学校、姉貴は仕事で、二人暮らしのマンションはお気楽で快適だし。今さら家族の仲を心配してお節介を焼きに来る親戚もいないし。


 チカラは相変わらずおれの中にある。うっかり調整し損ねた号令コマンドのせいで、ナンパしたギャルに押し掛け女房されかける、なんていうおなじみのトラブルもあった。愛が重いのは怖いって。遊びで十分なお年頃なんだよ、おれは。


 もちろんと言おうか、変化もあった。


 別の一枝の夢を見なくなったこと。フツーの予知夢なら、まあちょいちょい見るんだけど。

 朱獣珠が声を上げなくなったこと。すやすや眠ってるみたいな、静かな鼓動だけ感じられる。

 正直言って、そのへんはおれにとって割とどうでもいい話だ。


 いちばん大きな変化は、母親が反応を返してくれるようになったこと。


 泣きじゃくることしかできなかった地下駐車場の一件の後、病院から急な連絡が入った。母親が高熱を出した、って。


 姉貴と二人で慌てて駆け付けて、必死で祈って、夜遅くに母親の熱が下がって、翌朝だ。目を覚ました母親と、目が合った。確かに目が合ったんだ。母親がおれを見つめ返した。


 信じられなかった。でも、勘違いじゃなかった。


 視線が動いて、母親の目は姉貴を見た。手を握ったら、かすかに握り返してくれた。ただの吐息とは違う、声の気配の感じられる息を、母親の口が吐き出すのも聞いた。


 一回あたり三十分か一時間。それが一日に何回か。目を開けてるだけじゃなくて、目を覚ましてる時間がある。間違いなく、母親はこっちに戻ってこようとしている。


 どうして、って。

 きっと、さよ子が朱獣珠と結んだ取引の内容がこれだったんだろう。さよ子は笑うばっかりで、ちゃんと教えてはくれないんだけど。


 さよ子のパサパサの白髪は、どうしようもなかった。姉貴は美容師だから、尽くせるだけの手を尽くした。でも、何度トリートメントしても艶が戻らなくて、結局はベリーショートにして染めることになった。


 キレイだったんだけどな、さよ子の黒い髪。四ヶ月経って夏休み真っ最中の今は、地毛も真っ白ではなくなりつつあるけど、ひどく傷みやすいそうだ。ツヤツヤの天使の輪っかなんか望みようがないくらいのベリーショートが定番になっちまっている。


 ふと。

 ファミレスの店員の「いらっしゃいませー」にピンと来て、おれは問題集から顔を上げた。


 勘が当たった。八月最初の月曜日、夕方四時の空調が生ぬるいファミレスに入ってきたのは、ふみのりと海牙だ。


 おれが手を挙げて合図すると、二人ともそれぞれの仕草で手を挙げて応えた。


「遅いよ~、二人とも。数学の課題、フォローしてくれるって言ったじゃん。時間ないよー。これ、夜の待ち合わせまでに終わんねえって」

「悪い悪い。こっちの用事が予想以上に時間かかっちゃってさ」

「意外とまじめなんですね、リヒちゃんは」


「だって受験生だよ、おれら。志望校が決まったからには、どうにか頑張ってみるしかないでしょ? っつっても、文徳も海ちゃんも成績いいんだよねー。余裕で合格圏内なんだよねー。不公平だよねー」

ひとだって、文系科目は問題ないんだろ?」

「ですよね。現代文も古文も英語も、読んで理解するのはテレパシーが飛び込んでくる感じで簡単なことだって、言ってたじゃないですか」


「言ったけどさ~、読んで理解できるだけなんだってば~。書くのがネックなの、マジで。英作文とか、ほんっとヤバい」

「頑張れ。気合いだ」

「英語の教科書を丸暗記するだけで、ある程度、書けるようになりますよ」


「教科書丸暗記とか、鬼! 数学もあるのに!」

「文系の数学こそ、パターンをいくつか丸暗記するだけで、どうにかなるぞ」

「それとも、ぼくが全部、一から十までみっちり解説してあげましょうか?」


「もうやだー! 頭いいやつらがいじめるー!」

「あっ、注文いいですか? ドリンクバーを二つ」

「リヒちゃんのぶんも何か取ってきましょうか?」


「いや、自分で行く。変なもの作ってくる気まんまんでしょ」

「ええー、心外だなー」

「おや、バレましたか」


 ファミレスのボックス席。広げた数学の問題集。たびたび新着通知が鳴るスマホが三つ。氷で薄まったアイスコーヒー。眠気覚ましと称した、ウーロン茶とメロンソーダと何かと何かのヤバげなミックス。


 小声で始めた会話が、いつの間にか無遠慮なボリュームになってしまう。貫禄のあるおばちゃん店員ににらまれて、口を押さえて首をすくめる。ニマッと笑い合って、反省なんか全然してない。

 居心地バツグンの、しょうもない時間。


 今日はこの後、総統の家に招かれている。さよ子と鈴蘭が一緒にごはん食べようって約束してたのが最初で、そこに姉貴も招かれて、ついでだから男どもも呼んでやろうってことになったらしい。


 平井家での夕食は三回目だ。ファミレスや食べ放題で全員集合したことなら、昼も夜も何回かある。伊呂波兄弟や海牙とだったら、週に二回か三回は一緒に飯を食ってる。親に食事を作ってもらう家庭環境じゃないから、集まりやすくて。


 文徳と海牙が、ふっと真顔になって目配せをし合った。うなずいた文徳が口を開く。


あきらが来る前に話しておく。リアさんには、海牙が後で話すって。だから、理仁にはおれが話すし、まずは謝るよ。俺と海牙で勝手なことしてきたんだ。ごめん」

 文徳と海牙は神妙に頭を下げた。


「え、何? どういうこと? 何の話?」

 イヤな予感。胸騒ぎ。おれは思わず身構える。


 文徳はおもむろに言った。

「理仁の親父さんに会ってきた」


「マジで?」

「ああ。何日か前から連絡を取って、時間を作ってもらって、一緒に昼飯に行ってきた。味なんか全然わからなかったけど。で、話してるうちに、気付いたら時間オーバーしちゃって、理仁との待ち合わせに遅れることになった。ごめん」


 おれは、笑ったまんまの顔を自覚した。頬が冷えてこわばっている。

「何をそんなに話し込んだんだよ?」


 迷うような間が落ちる。文徳は、話すべきかどうかを迷ったんじゃなくて、話す順番を迷ったんだろう。おれは何となく、そう感じた。

 文徳は言った。


「長江さんはさ……理仁の親父さんのこと、とりあえずそう呼ぶことにしたんだけど、長江さんは、しょっちゅう奥さんのお見舞いに行ってるって。でも、理仁やリアさんがいるときは、病院のスタッフに挨拶だけして帰るんだって」


「へえ。何それ。あいつ、おれらのこと避けてんの?」

「避けてるし、逃げてる。でも、めちゃくちゃ後悔してたよ。子どもたちが家出したのは自分のせいだ、自分は教育者失格なのに学園を経営している矛盾した人間だ、って」


「あいつ、あの件のこと思い出してた?」

「いや、覚えてないみたいだった」


 さよ子の誘拐の一件は、なかったことにされた。さよ子がそれを強く望んだからだ。ショックが大きかったせいか、さよ子は一週間くらい寝込んだ。そんなこんなで、そっとして忘れてしまおうってことに落ち着いた。


 親父のサイドもまったく動きがなかった。警戒して様子を探ってはいたんだけど、ちょっと異様な結論を出すに至った。

 どうやら、親父の頭からは、あの一件が完璧に抹消されているらしい。


 おれは笑ってみせた。


「何にせよ、あのクソ親父も、教育者失格ってか人間失格レベルのクズだって自覚はあるわけか」

「そういう言い方は痛々しいからやめろって」

「事実じゃん」


「長江さん、前に見たときよりやつれてたよ。四月に、奥さんに快復のきざしが見え始めたのは理仁とリアさんが帰ってきたからだろうって思ったとき、急に自分の身勝手さを痛感したんだって」

「は?」


「奥さんにも、理仁やリアさんにも、家に帰ってきてほしいけど、それを望むのはどうしようもない身勝手だって言ってた。涙交じりで」

「今さらかよ。遅いって。完全に手遅れ。あいつが朱獣珠を使いまくるせいで、おれらがどんだけ迷惑してきたか」


 文徳と海牙が顔を見合わせた。微妙で慎重な表情をしている。文徳が言葉を選ぶ様子でおれに告げた。


「そのことだけどさ、長江さんは宝珠のことをまったく覚えてないぞ。というか、まったく知らないって言うほうが正しいかな」

「宝珠を知らない?」

「ああ。誘拐の一件と同じだ。本当に、まったく記憶がない」


「じゃあ、飼ってた動物のことは? あいつが全部、手を下したんだぞ。自分の都合のためにさ。それだけじゃない。おかあさんのことも……おかあさんが何で倒れたか、あいつ、覚えてなかったってのか?」


 思わず声が高くなってしまった。テーブル越しの海牙が立ち上がっておれの肩を押さえて、それで、おれは言葉を呑み込んだ。

 文徳は周囲をはばかる声音でささやいた。


「長江さんは人払いをした後、俺たちに、自分が振るった家庭内暴力のことを告白したよ。ペットの命を奪ったことは暴力衝動のはけ口だったっていうふうに、記憶が書き換えられてるみたいだった」


「嘘だろ?」

「本当だって。朱獣珠が作用した結果じゃないのかな」

「そんなの、都合よすぎる」


「理仁がチカラを持ってることは、長江さんもわかってたよ。小さいころの理仁を洗脳するようにしてチカラを利用していたことも覚えていた。ひどいことをしていたっていう自覚はあるみたいだった」


 闘いが終わった、っていう直感はあった。その直感の中身がどうなってるのか、具体的なところが、今ここで初めてわかったわけだ。


 さよ子と朱獣珠が言葉を交わしたとき、朱獣珠がこの話を持ち掛けたんだろう。親父の中から宝珠に関する知識をゴッソリ引き抜くこと。


 そんじゃ、おかあさんの件は?

 いや、あれも朱獣珠のチカラだよね。だって、あれは奇跡としか思えない。おれと姉貴がどんだけ願い続けても叶わなかったことが、急に叶ったんだから。


 でも、そうだとしたら、ずいぶんな出血大サービスじゃねーの? 失礼な言い方だけど、持ってった代償、さよ子の髪だけでしょ? たかが髪だけで、完全とはいえないまでも、ある程度の希望が持てる現実を創り出してくれたわけ?


 それとも、さよ子はほかにも持ってかれてんのかな。おれらに何も教えてくれないだけで、もっと痛い代償を払ってくれたりとか、してんのかな。


 わかんねぇや。朱獣珠も寝てるし。


 文徳がアイスコーヒーのグラスに口を付けたから、おれは喉の渇きを思い出した。シロップを入れすぎたアイスコーヒーは、香りもなければ冷えてもいなくて、ベタベタする。


 海牙は、かなりミルクの色に近いアイスコーヒーを一口飲んで、いつになく緊張した顔をした。


「長江さんとお話ししておきたいと言い出したの、ぼくなんです。ぼくが文徳くんに相談して、二人で会いに行くことになりました」

「そーなんだ? 文徳のお節介じゃなかったんだ」


「お節介ではなくて、ぼくの感覚では情報収集ですね。敵情視察ともいうかな。リアさんの役に立てないかなと思って。リアさんがつらそうなとき、ありますよね。仕事も忙しいんでしょうけど、やっぱりストレスの最大の要因は長江さんの件だろうから」


 姉貴は海牙のことを妙にかわいがっている。海牙のウェーブした黒髪は、十日に一度は姉貴がハサミを入れていて、素材がいいだけに海牙は急激に垢抜けた。


 海牙のほうは、姉貴の態度より、はるかにあからさまだ。最初っから姉貴に物欲しげな視線を向けたりしてたけど、今はそれ以上。うらやましいほど一生懸命、姉貴のことを見ている。


 恋っていうやつなんだろうな、それ。おれにはよくわかんないんだよね。女の子なんてさ、ほしいって思ったら、イージーモードどころじゃないチートモードで、一瞬で手に入るから。


 海牙には、苦労しやがれって言いたい。姉貴にとっていちばん特別な男って、今まではずっと、弟のおれだったの。ほかの誰でもなかったの。海牙はそこに割り込んでこようとしてんの。ムカつかないっつったら嘘になるから。


 姉貴お気に入りのダークグリーンの目に、海牙はまじめな色をたたえている。


「長江さんから、息子の友達なのかと訊かれたとき、正直に答えました。理仁くんの友達でもありますが、リアさんのことを慕っています、いずれリアさんとお付き合いさせていただきたいと思っています、とね」


「言っちゃったんだ。すげー」

「長江さんとお会いするチャンスはそう頻繁にはないだろうと思ったので」


「姉貴にはまだ何も言ってないんでしょ?」

「言ってませんよ。でも、ぼくは本気です。長江さんから殴られても仕方ないって覚悟だったし」

「殴られた?」


 海牙はかぶりを振った。夏だってのに白い顔に、淡い苦笑いが浮かんだ。


「頭を下げられました」

「うちの娘をよろしくって?」

「ええ。自分には父親らしいことをする資格がないから、だそうです」


「してんじゃん。海ちゃんに頭下げるとか。そんなやり取り、姉貴が知ったら激怒するよ」

「そうですね。リアさんには言えません。でもまあ、ぼく自身の目的は果たしました。後顧の憂いは絶ったことだし、あとは前に進むだけです」


 おれは、ストップの格好で手のひらを掲げた。


「何で親父に挨拶するだけで障害物がなくなったと思えるわけ? おれ、すっげーシスコンだっていう自覚あるんだけど」

「姉貴と交際したければ、おれを倒して交換日記から始めろ! とか言います?」

「言わねーよ。とっくにスマホで連絡取りまくってんでしょーが」


「じゃあ、何なんですか?」

「言葉にできねぇモヤモヤがある。これ、理屈じゃねぇんだ。相対的に評価しろってことなら、ほかの誰かじゃなくて海ちゃんでいいやってなるけど」


「海ちゃん『で』いい、ですか」

「海ちゃん『が』いいっていう絶対的な評価を下せるのは姉貴だけだし、姉貴が選ぶんならしゃーないってわかってるけど、やっぱモヤモヤは残るよね。海ちゃんが友達としておもしれーやつだっていう認識とは別のところで、モヤモヤする」


 海牙は、一時期より短くなった前髪を掻き上げた。

「それなら、どうすればいいんです?」


 おれは、大事なものを投げ捨てるような気分で言った。

「姉貴と付き合うことになったら、一発、海ちゃんのこと殴らせろよ」


「いつの時代の頑固親父ですか?」

「別に、今の時代のシスコン弟のセリフでも問題ないでしょ?」


 海牙は、喉を鳴らす笑い方をした。

「殴るくらいで気が済むのなら、いくらでもどうぞ。ぼくは基本的に好き勝手に生きる人間ですけど、きみには認めてほしいからね。真剣なんです」


 なるほどね、と思った。


 海牙って、飄々として、振る舞いがちょっとキザで、嫌味っぽく見えることもあるけど、根はめちゃくちゃまじめでピュアだ。おれみたいに小器用なタイプより、よっぽど信用できる。


 なついたら、ひたすら一途。海牙のそういうところが、姉貴にとってはかわいくて仕方ないのかな。「きみには認めてほしい」って言葉、おれでさえ、すげー嬉しいし。


 変わっていくんだろうな。わちゃわちゃしてにぎやかな、今のおれたちの関係。


「青春してるやつがいるよ~。まっぶし~。せっかくだから、高校生活最後の夏、みんな誘ってプールとか海とか花火大会とか行きまくっちゃう?」

「おっ、いいな。俺は亜美も誘おう」

「ぼくも、このメンバーだったら楽しみです。目の保養になりそうだ」


「あっきーを巡って、さよ子ちゃんと鈴蘭ちゃんのガチバトルが展開されるかもね」

「煥のやつ、一瞬で逃げ出すぞ」

「硬派ですよね、煥くんは」


「というか、ただの鈍感って説もあるけどー」

「俺は鈍感説に一票。あいつ、それ系の動画とかは普通に観てるよ」

「へえ。どういうジャンルが好きなんでしょう?」


 その瞬間、テーブルに投げ出した三台のスマホに、同時に同じメッセージがポップアップされた。煥からの連絡だ。


〈すぐ〉


 それだけ。

 もうすぐ着くって言いたいんだろうか。ニュアンスでわかることが多いとはいえ、煥からの連絡はいつも極端に短くて、何だか笑える。


「つーか、おれ、課題が全然進んでねえ。ヤバいってば!」


 急に現実に引き戻される。ヤバいとか言いながらついつい笑ってしまう、そんな他愛ない現実に。


 願わくは。

 こういう現実のピースが一つひとつつながって、しょうもなくてささやかで居心地のいい未来が、ずっと続いていきますように。


 願うための代償は、なくてもいいでしょ? おれがほしいのは華やかな奇跡なんかじゃなくて、一歩ずつ踏みしめていくための、草ぼーぼーの道だからさ。


 そんな道を、気の置けない仲間たちと、おれはマイペースに突き進んでいきたいんだよ。



【幕】



BGM:BUMP OF CHICKEN「コロニー」

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