「もう何も言わないで」

 親父は首をかしげた。


ひと、何が不満なんだ? ここ数年は事業も安定して、不自由をさせたことはなかっただろう? おまえたちが幼いころには何度か経済的に危ういことがあったが、それも一時的なもので、埋め合わせはしてきたつもりだよ」


 おれは肩をすくめて、やれやれと首を振る。親父のことなんかバカにし切った不良息子を演じる。


「金の問題じゃねーよ。あんた、自分がトチ狂ってるって、どんだけ理解してる?」

「親に対してその口の利き方は感心しないな。友達の前で見栄を張ったり悪ぶったりしたい年頃なのはわかるが」


 見抜いてくれやがって。確かにおれは、一人じゃ何もできなくて、まわりのみんながいるからここに立ってられるんだけどさ。


 数え上げてやるよ。おれがどんだけあんたを嫌ってるか、それを証明するための、あんたの罪の数を。


「七つあるんだよね。おれがあんたを嫌いな理由。一つ目、まずそもそも言葉の通じない相手だった。肉声を使ったり使わなかったり、どんなトーンで話し掛けても、返事しねぇんだもん。そんな相手、ガキのころのおれの狭い世界の中ではあんただけだった」


 まあ、そんなのよくある話だろう。世の中の父親のすべてが幼い息子や娘と上手に接することができるわけじゃあないんだ。


 だけどね、幼いって理由だけで王さまみたいに振る舞えて、しかも他人に命令できるっていうチカラを持つおれにとって、おれのことをまっすぐ見もしない親父の存在は異質で不気味で怖かった。怖いものは嫌いだった。


「二つ目、あんたはおれのチカラを利用することがあったよな。家に客を招いて、ガキのおれを客の前に立たせて【嘘をつくのは悪いことです】って言わせんだ。号令コマンドをかけられた客は、取引も何もなくなる。本音だけしゃべらされて、もうめちゃくちゃだ」


 推測だけど、会話は全部、録音してあったんじゃないかと思う。まずいことをしゃべっちまうやつだって、ざらにいただろう。


 親父がその音源をどんなふうに活用したか。胸クソ悪いイメージが浮かんでくる。噂によると、親父は交渉がうまいらしいけど、たぶん、おれがその片棒を担がされていた。


「三つ目、あんたはおれのチカラについて嘘をついた。ガキのおれがかんしゃくを起こして号令コマンドのチカラでわめいて人に気味悪がられて独りぼっちになったとき、そんなことがたびたびあったけど、そのたびにあんたはおれのチカラを『悪い子にしていた罰だ』って言った」


 だから、おれは自分が悪い子なんだと信じ続けていた。いい子にならなきゃいけないって、一生懸命だった。呪いみたいなチカラは、それでもおれに付いて回った。苦痛だった。


 どーせおれは悪い子だし? なんていうふうに開き直ったの、いつだったっけ。へらへら笑いの仮面で、何事にも手を抜くようになって、どんどん悪い子になるのがわかって自分のチカラを呪って、こんな自分で生きてるのがつらかった。


「四つ目、あんたは朱獣珠についても嘘をつき続けてきた。こいつは、あんたのモンじゃねーんだよ。あんたは運命と血に選ばれなかったんだ。あんたがどんなに望もうが、金をいくら積もうが、誘拐にまで手を染めようが、あんたは宝珠の預かり手にはなれねえ」


 今にして思えば、朱くて怖い石はずっとおれに呼び掛けていた。おれが目撃するたび、石はいつも親父の手の中で朱く光って、ぶんぶんと低く唸ってたんだ。


 皮肉な笑い話だけど、意思を持っているかのようなその光と唸り声がまた、おれには怖かった。朱雀のチカラを宿してるなら、鳳凰の姿になって夢枕に立つとかさ、もうちょい気の利いたことしてみせろっての。


「五つ目、あんたはやり口がセコいんだよ。警察に突き出されておかしくないことばっかやってるくせに一度も前科がないのは、あんたが上手に相手の弱みを握るからだ。ねえ、ふみのり、パソコン得意だよね。そこのパソコンの画像、削除よろしくね」


 おれが言った途端、さよ子が顔を伏せた。パソコンに注目が集まって、空気が凍る。


 ごめんね、さよ子ちゃん。見られたいもんじゃないよね。わかってんだけど、おれはもう見ちゃったし、この状況じゃ仕方ない。


 パソコンのディスプレイを占領しているのは、椅子に縛り付けられた少女の写真だ。ずぶ濡れで、淡い青色のワンピースは透けてしまっている。目隠しと猿轡ボールギャグ。両脚を開いてロープを掛けられた姿は、肌の露出がなくても、十分に倒錯的で煽情的だ。


 こんな写真を撮られてしまった高校一年生の女の子が、あるいはその両親が、今回の一件を表沙汰にできるだろうか?


 できやしねぇんだよ。


 法で裁くことで報復してやりたいって気持ちは、もちろんあるだろう。でも、画像ごとその記憶を削除してしまえたらいいのにって切望する気持ちを、社会的に正しいだけの解決手段なんかじゃ越えられない。


 文徳は、自分の体で画面をみんなの目から隠すようにして、パソコンの前に立った。親父に背中をさらす格好になる。親父がチラリと文徳を見ると、あきらが音も声もなく、文徳をかばう位置に動いた。


 おれは続けて言う。


「六つ目、あんたには、動物をかわいがるとか哀れむとか、そういう感性がまったくないわけ? あんたが朱獣珠に願いをかけるためにペットの命を使い捨ててること、おれも姉貴も、現場はもちろん骨すら目撃できずに今まできたけど、全部わかってんだよ」


 朱獣珠がおれに夢で伝えた。現場の記憶を見せて、断末魔の悲鳴を聞かせて、大事な友達が消えてしまった残酷な事実をハッキリと告げた。


 姉貴もその夢をうっすらと見ることが多かった。まだ夜が明けないうちに、二人して真っ青な顔で目覚めて、慌てて探した。探して探して探して、見付かるわけがなくて、絶望感の中で、どこか遠くに行きたいねって話をした。


 動物愛護法ってものがあるのを知ったのは中二のころだ。ペットの虐待は、二年以下の懲役または二百万円以下の罰金だって。軽いな、って思った。二百万円なら、おれ名義の通帳の中にも余裕で入ってた。


 それでも、親父がこの法律に違反してることを訴えるにはどうすればいいんだろうって考えた。親父にとって罰金の額は大したことなくても、ニュースになれば社会的にダメージがあるはずだって。


 だけど、中三のころに母親が抜け殻になっちゃって、入院代とかいろいろ金が必要で、今の状況で親父を転覆させるわけにはいかなくなった。せめておれが自分で金を稼げるようになるまでは、汚い金でもいい、とにかく現状維持しなけりゃならない。


「七つ目、あんたがおかあさんを追い込んだ。おれが中三のころ、あんたはまた事業に失敗しかけたんだろ? 尻に火が点きそうになったとき、おかあさんが朱獣珠に願った。自分の身はどうなってもいいから夫を助けてほしい、って。その結果、おかあさんは……」


 死んではいない。でも、生きていると言い切ることが、おれにはできない。


 おかあさんってどんな人だったんだろう? 改めて考えると、よくわかんねぇんだ。強い人じゃなかったんだろうなって、姉貴と比べたらそう感じる。まあ、割とよく笑う人だったかな。好きな食べ物は知ってる。趣味は、たぶん特になかった。


 他人とトラブルを起こすことがない人だった。うちにはハウスキーパーが入って仕事してたんだけど、おかあさんもそこに交じって一緒に家事をしてて、うるさがられることが全然なかった。一方で、頼られるって感じでもなかったっぽい。


 空気、だったのかな。いなくなった途端、家の中で息ができなくなったから。


 親父は、じっと静かな顔をしていた。おれが七つ目の罪を数え終わると、初めて表情を動かした。親父は改めて、おれに手のひらを突き出した。


「理仁、おまえが私に反抗的な態度を取るようになってから、すべてがうまく回らなくなってしまった。朱獣珠を私に返しなさい」


 ああ、クソ、やっぱり噛み合わないのか。


「違うだろ。どうにか形を保ってた家族が決定的におかしくなったのは、おかあさんがあんなふうになったのがきっかけじゃん。あんたが狂わせたんだよ」

「高校で悪い友達と出会ってしまったのも問題だったかな。理仁が宝珠について知る必要はなかったというのに、白虎の血の者が身近に現れるとは」


「おれは文徳に出会えて感謝してるよ。文徳が知りたがってたから、おれはひいばあちゃんの遺品をキッチリ調べたんだし、それ以前に、対等な友達になってくれたのは文徳が最初だったからさ。あんたが文徳のことを悪く言うなら、おれ、キレるよ」


 おれは親父の目を見る。眉間に力を込めて、じっと。


 何でだろう、昔から不思議なんだけど、親父の目を見ようとすると遠近感がおかしくなる。焦点がうまく合わなくて、親父が近くにいるのか遠くにいるのか、平面なのか立体なのか、わからなくなってくる。


 逃げたい。まだそんなことを思ってしまう。

 怖い。これだけちゃんと断罪の言葉を吐いても、それでも、背筋が震えるあの感覚が消えない。


「理仁、おまえは聞き分けの悪い子ではないはずだ。素直に朱獣珠を渡しなさい」


 会話はいつだってちぐはぐだ。親父の口から吐き出されるのは、おれをがんがらめにする呪縛の言葉ばっかり。


 皮肉なんだけどさ、言葉の持つチカラをいちばんよくわかってんのは、おれ自身だからさ。

 物心つかないころから、おれの心には鎖がかけられてんだ。親父の呪縛につながれてるのを、手で触れられそうなほどハッキリ感じる。


 そんな鎖、気付きもせずに引きちぎってしまえるくらい、おれが言葉から自由だったらよかった。気付いてしまったら、ことだまってのは、ぶち破るのが難しくて。


 親父が、つと、おれから目をそらした。視線の先にいるのは、海牙と鈴蘭。


「理仁が協力してくれないのなら、きみたちでもいい。私に力を貸してほしい。今、私にはどうしても叶えなければならない願いがある」


 鈴蘭が、さよ子をかばうように立った。


「それは宝珠を必要とする願いなんですか? 誰にだって、叶えたい願いはあるものです。でも、あなたのように奇跡のチカラにすがってしまうのは、正しいことだとは思えません」


「だが、宝珠はこの世に存在する。それは何のためだろうか? 人の願いを叶えるためにほかならないだろう? きみは青獣珠を預かっている。いつでも奇跡を起こすことができるのに、宝の持ち腐れにするつもりか?」


「はい、宝の持ち腐れにするつもりです」

「なぜそんなことを言い切る?」


「昔からずっとそうだったと、母や祖母から聞いています。科学が未発達だった時代には、いけにえを捧げて雨乞いをすることが何十年かに一度あって、それが宝珠のいちばん多い使用例だったそうですけど、今は違います。科学が奇跡に追い付きつつありますよね」


「きみは間違っている。きみの言葉は、きれいごとにもなり切れないたわごとに過ぎない」


 親父は体ごと鈴蘭に向き直った。

 その途端、ヒュッと音がして、小さなものが親父の頬をかすめて飛んだ。壁に当たって落ちたそれは、さよ子の両腕を戒めていた手錠の残骸だ。


 海牙が、ばらした鎖を投げて親父を牽制した。手元にはまた別の弾もある。


「科学が奇跡に追い付きつつあるって言葉は、戯言でしょうか?」

「そうは思わないのか? きみは科学に詳しいんだろう?」


「確かに科学の力で解決できない事象は、今でもたくさんありますよ。でもね、科学にも限界があると口にしていいのは、学術としての科学をきちんと修めている人だけです。生贄を仕立てて願いを叶えるなんて非科学的な道を安直に採る人が、何をほざいてるのか」


「きみは、何を差し置いても叶えたい願いをいだいたことがないのか?」


「さあ? ぼくにはその問いに答える義務も義理もありませんね。でも、一つ苦情を言わせてもらうなら、『何を差し置いても』の部分に自分が含まれるのはイラッとするんですよ。ぼくを息子の代役にしたかったんでしょうが、ぼくは、うっとうしい人は嫌いです」


 文徳を背にかばった煥が、白獣珠のある胸元でこぶしを握った。


「あんたには四獣珠の声が聞こえねぇんだろ? 四獣珠はチカラを発揮するために、必ず何かを人間から奪って食わなきゃならねぇけど、そのせいでつらそうだ。理仁の朱獣珠はいつも悲鳴を上げてんだぞ。その声、あんたは聞いたことねぇんだろ?」


 そう、聞かせてやりたい。朱獣珠は命を食らうたびに、壊れてしまいそうな悲鳴を上げて助けを求めていた。


 親父はおれたちを順繰りに見やった。


「去年の暮れのころにね、妻の体調が急に悪くなってしまった。どうも時間があまり残されていないようで、医者には手を尽くすように頼んだのだが、厳しいものがある、と。科学の限界というやつだよ。私には奇跡が必要なんだ」


 なるほど、と思った。腑に落ちた。理解できてしまった。

 だって、おれも朱獣珠に言っちまったことあるもん。おかあさんを返せよ、って。


 でも、おれのそれはただの愚痴に過ぎなくて、何かを犠牲にして願いを叶えようとしたわけじゃなかった。それは絶対の禁忌だと、本能的に感じていた。願ってしまうことは恐怖でしかなくて、ただ嘆いた。おかあさんを返せよ、って。


 あのとき朱獣珠は何も答えずに、せわしなく明滅しただけだ。

 ねえ、それとも、おまえ本当は何か言いたかったの? おかあさんを解放するから代わりに何か食わせろって、おれに言うつもりだった?


 まさかね。おれがあいつと同じことするところなんて見たくないよね。おれもそんなことやりたくねーよ。

 じゃあ、その代わりに、おかあさんはずっと帰ってこねぇのかな。


 親父が不意に強い目をして、おれを見つめた。


「理仁、親孝行をしなさい。父を裏切って母を見殺しにするつもりか?」


 親父の目には光があって、まっすぐのぞき込むようにおれを見ていた。真正面から、おれはまなざしを受け止めてしまった。遠近感は狂わなかった。


 こいつ正気なんだなって、いきなり実感した。正気なのにこんなにトチ狂ってんだなって、すげー絶望的な現実を、おれは初めてハッキリと認めた。


「あんたに朱獣珠を渡して、そのへんの誰かを殺して代償にして、おかあさんを快復させるのが、おれのやるべき親孝行なのかよ?」


「母の命と、言葉もしゃべれない動物や見も知らぬ他人の命と、どちらを優先させたい? 選ぶ権利は、理仁、おまえにある」

「やめろ」


「おまえが私に力を貸してくれなければ、おまえの母が死んでしまうんだ。おまえが見殺しにするんだぞ、私の妻を」

「ふざけんな」


「私はたくさんのものを持っている。成功した資産家だ。だが、どれだけ金があっても手に入らないものがある。金と引き換えにできないほど大切なものだってある。私は、家族が形を成さなくなったことが悲しくて仕方がない」


 何が「悲しくて仕方ない」だよ?

 怒りがおのずとチカラを帯びて、おれの肉体を音もなくすり抜けて、獣の唸り声みたいに低く響く。


【黙れ】


 でも、親父の長広舌がやまない。

「帰ってきなさい、理仁、リア。そして理仁、朱獣珠に願うんだ。おかあさんが健康な姿でうちに帰ってきてくれることを。家族として、やり直していこう。今なら取り戻せるはずだ」


 聞きたくない言葉のオンパレードだ。帰るとか、家族とか、やり直すとか。テメー、どのツラ下げて、そんなくだらねぇこと言ってやがんだ?

 怒号がおれの全身から衝撃波になって噴き出す。


【黙れっつってんだよ!】


 パシン、と、ぶん殴ったような音があちこちから聞こえた。親父がのけぞる。ほかのみんなも、耳や頭を押さえてうずくまる。


 体じゅうの血が沸騰してるみたいだ。怒りと憎しみで熱せられたチカラが、血管の中を隅々まで巡りながら暴れている。

 親父がなおも、おれにすがろうとしてくる。


「理仁、おまえが必要なんだ。私がより大きな資産を求めるのは、すべて、愛する家族のため……」


 聞きたくない。

 愛なんて言葉、親父の口から聞きたくない。


【嘘なら許せねえ。本気なら受け入れられねえ。見栄や建前のために父親を演じてるってんなら、まずは本音をさらせよ】


 言葉の一つひとつにズッシリと重みを持たせて、親父めがけて投げる。ぶつける。叩き付ける。

 親父は顔を歪めた。苦痛の表情。もっと苦しめばいい。


【言ってみろよ、本当のこと。テメーのいちばん大事なモンって何だ? 何のためにおれや姉貴が悲しい思いばっかしてきたのか。何のためにおかあさんが人生を棒に振ることになったのか。テメーが本当に愛してるモンって、一体、何なんだよ? 言えよ】


 号令コマンドが親父にも効けばいいのに。

 親父がおれの前に膝を屈するのは、おれがことだま使いの王さまだからじゃなくて、ただ単に親父に苦痛を与えているからだ。


 鼓膜とは別のもっと奥、音じゃなくて言葉を理解するための脳ミソのどこかを、おれの声は直接ガッシリ握って離さない。握りしめて、痛め付けて。

 親父が声を振り絞る。


「伝わらないのかなあ……何を差し置いても手に入れたいものがたくさんあったのは、妻がいて、子どもたちがいたからで、不自由のない暮らしをさせたいと思った。おまえたちを思えばこそ」


【嘘だ】


「おまえたちのために、私は働いてきたし、願ってきたし、手に入れてきた。必死でやってきたつもりだ。何が私のいちばん大事なものなのか、私の原動力なのかと問われれば、やはり答えは一つだ。愛する家族のため、と答えたい」


【嘘だ! 今さら何を抜かしてんだよ、テメーは!】


 聞きたくない。信じたくない。拒みたい。憎みたい。

 愛だなんて嘘だ。家族であることさえ苦痛だ。


 だって、テメーは目的のために平気で罪を犯すじゃねぇか。人を傷付けることも動物を殺すことも、平気でやってのけるじゃねぇか。


 それがテメー自身のためじゃなくて、おれと姉貴とおかあさんのため? 愛してるから? 何だよそれ? バカにしてんのかよ?


【何でテメーがおれの親父なんだよ? 何で他人じゃねぇんだよ? 何でおれのチカラに従わねぇんだよ? 何でだよ? 何でおれはこんなに無力なんだよ?】


 支配。呪縛。恐怖。

 親父が造った鳥籠を破壊するチカラがほしい。


「聞いてくれ、理仁、おかあさんを治すために朱獣珠を使いたいんだ。家族として、やり直そう」


 違う。

 やり直すために必要なのは朱獣珠じゃない。だったら何が必要なのかって、ズバッと正解を出すことはできないけど、少なくとも、息子より宝珠を大事にしてるようにしか見えない親父なんか信用できなくて。


 まともなおとうさんがほしかった。おとうさんがまともになってくれるなら、ほかには何もいらなかった。空気みたいに居心地のいいおかあさんと同じくらい、ありふれてて好きになれるおとうさんなら、最初から、ただそれだけでよかった。


 何で敵対するしかなくなったんだろう?

 だけど、もう、どうしようもなくてさ。


 テメー死ねよって、血のつながった実の父親に対して、おれ、今、本気で思っててさ。憎しみと殺意とチカラがあふれて止まんないんだよ。


【そのナイフ、拾え】


 さっきデカい図体の男たちがカーペットに投げ出した、ゴツい刃渡りのナイフ。おれはそいつを指差して、ありったけのチカラを込めて、親父に命じる。


【できんだろ? 拾えよ。さあ!】


 部屋じゅうがビリビリ震えるくらいの大音声。人間が処理できるギリギリの重さを持つ言葉。そんなモンを放つおれ自身、脳ミソが絞られるみたいに痛い。吐き気がする。


 親父はわなわなと体を揺らしながら、かぶりを振る。続かない呼吸の合間に、やめろ、と口が動く。おれのチカラに必死で抵抗している。


 でも、血の守りは完璧じゃねぇんだ。憎しみに火を点けてチカラを加速させた今、おれの言葉は、声は、血のつながりなんていう貧弱な盾をぶち抜くことくらい、わけもない。


 あとちょっと。もう少し。

 これが済んだら、おれはぶっ倒れていいから。いっそ死んでもいいから。

 最後の一押し、限界を超えたい。


【ナイフを拾えッ!】


 油の切れたからくり人形みたいに、ぎしぎしと、親父の肉体と精神が軋む。崩れ落ちそうなガタガタな動きで、親父はナイフに手を伸ばす。ナイフの柄をつかむ。持ち上げる。


 超えたいんだよ。チカラの限界も。血の呪縛も。


 しぶとい抵抗に手を焼いている。おれの大声の号令コマンドの下で、悲鳴が懸命に繰り返されている。やめてくれ、助けてくれって、安っぽくて薄っぺらいこんがんが聞こえる。

 聞きたくねーから。


【喉を突け。そのナイフで自分の喉を突いて、死ね】


 誰かが、か細い泣き声を上げている。

 肺が焼け付くように熱くて、ギュッときつく引き絞られて、息が苦しい。相変わらず血が沸騰してるみたいで、視界まで蒸気に曇ってくみたいで、頭がガンガンする。


 ああ、ちくしょう。さっさと終わらせたいんだよ、こんな茶番。

 死ねっつってんだよ。

 テメーなんか、おれの人生に必要ねぇから。


【突け! そして、朱獣珠のこともさっさと忘れて、とっととこの世から退場して、親子の縁なんか消えてなくなれ! テメーとの血のつながりなんか……】


 おれの力場を、いきなり叩き壊した声がある。

「もうやめろ、理仁!」

 文徳だ。


 調整も何も利かないおれの大音量の言霊にさんざん脳ミソをぶん殴られてヘロヘロになりながら、文徳は立って、声を張り上げて、おれを叱った。


「理仁、そうじゃないだろ! おまえは、本当は、人を殺したいなんて望んでない。父親を憎んでしまうこと、本気で苦しんで悩んでるだろ。こんな終わらせ方でいいはずないんだ!」


 煥が、親父の右手からナイフを奪った。親父は目を見開いてガクガク震えながら、まだ号令コマンドの影響下にあって、煥からナイフを奪い返そうとする。


 スッと体を沈めた煥は、つかみ掛かる腕をかいくぐって、真下から親父の顎を殴り上げた。親父は昏倒する。

 煥はおれを振り返った。


「親が死んだくらいじゃ、親子の縁も血のつながりも消えてなくなりやしねぇよ。それがいいことか悪いことかは別として、自分がここにいるのは、親が自分を生んだからだ。その事実は何があったって引っ繰り返らないし、誰に命じられたって壊せるもんでもない」


 か細い泣き声が少し大きくなった。

 声のほうを向くと、姉貴が顔を覆っている。海牙と鈴蘭が姉貴の両側にいて、姉貴の震える肩や背中が凍えないように、そっと手を添えている。


 おれの胸元で朱獣珠が熱っぽく鼓動する。何か言ってるんだけど、聞こえない。


 因果の天秤が、何だったっけ? だけど、ラスボスを倒さないことには、四獣珠は安心できねぇだろ?


 おれは、やるって決めたんだよ。コツつかんだ気がするんだ。寝てて意識がない状態なら、たぶん操れるよ。そいつが自分で自分の始末つけるんだったら、誰も手を汚さなくて済むんだし、それでいいじゃん。


「そこどけ、煥。邪魔だ」


 煥がかぶりを振る。文徳が煥の隣に立つ。

 朱獣珠が騒ぐ。聞こえない。泣き声が邪魔をして、四獣珠が共鳴する言葉が聞き取れない。


 淡い青色が飛び込んできた。

「もうやめてください!」


 さよ子がおれに抱き着いて、おれの動きを封じた。華奢な年下の女の子にぶつかられるくらい、大した衝撃でもない。

 でも、おれはふらついて、立ち止まった。


「どいて。邪魔。おれは、やっておきたいことが、あって……」


 何でだろう? 声がうまく出なくて、言葉が切れ切れになる。しかも、喉も手も胸も震えて、膝まで震えてきて立ってられなくなって、おれはへたり込んだ。


 さよ子がおれの顔をじっと見ている。そのはずなんだけど、おれにはさよ子の顔がよく見えない。


「理仁先輩、もうやめて。先輩のパパのこと、許してあげてください」

「やだよ。憎いんだよ。殺してやりたい」

「嘘。そんなの嘘です」

「本当だって」


「少しの本当が含まれてるとしても、殺したいなんて言っちゃダメ。やめてください。言葉にしたら、それはチカラを持って、先輩自身を傷付けて苦しめるんです。だから、もう何も言わないで。罪とか罰とか呪いとか、先輩はもうあれこれ背負わなくていいから」


「何で……」

「だって、先輩、さっきからずっと泣いてるじゃないですか」


 おれは驚いて自分の顔に触れた。

 手のひらが濡れた。涙だ。

 何だ、そうだったのか。肺がギュッと絞られて痛い理由も、声がうまく出ない理由も、泣き声に掻き乱されて朱獣珠の訴えが聞こえない理由も、わかった。


 だけど、おれはどうして泣いてんだろう?


 淡い青色が視界にふわっと広がって、頼りないほど柔らかな体温がおれを包んだ。さよ子が体をかがめて、立ち上がれないおれを優しく抱きしめている。

 おれの耳元でさよ子がささやいた。


「迷惑かけてごめんなさい。助けてくれてありがとうございます。だから、わたし、代わりに何か役に立てませんか? わたしにできること、ないですか?」


 こんなふうに抱きしめられるの、何ていうか、なつかしいな。小学生のころ、おかあさんが、割としょっちゅう、こんな感じで。


 恥ずかしいからやめろよって言っちゃったんだよな。小五のころ。おかあさんは「わかった」って答えた。


 それでしばらくハグなんてなかったんだけど、小学校の卒業式の後、おかあさんは「これで最後だから」って、久しぶりにおれを抱きしめた。おれのほうが背が高くなってたから、何か変だった。


 抱きしめ返せばよかったのかな? でも、こういうとき、体が動かないんだよね。どうしていいかわかんないんだって。ほんとに。


 おれの胸とさよ子の体の間で、朱獣珠がまた何か騒いでいる。おれに聞こえる声で話せっての。おれがちゃんとおまえの声を聞ける状態になるまで待てって。


 だけど、さよ子はその声が聞こえるらしかった。


「持ってってくれていいです。二つでも三つでも、必要なだけ。もう誰にも泣いてほしくないの。たったそれだけの代償で、そんなに大きな願いを叶えてくれるのなら、やってください。わたし、後悔しないから」


 反射的に、おれは体をこわばらせた。

 さよ子はおれの涙を細い指で拭って、おれの目を見て微笑んで、おれの頭をそっと撫でた。


「大丈夫ですよ、理仁先輩。心配しないで」


 甘く溶けるキャンディみたいな声が優しくささやいたと思うと、みるみるうちに、さよ子の髪からつややかな黒さが失われていく。


 おれは言葉が出なかった。

 持ってっていい、って。差し出したのは、あのキレイな髪?


 さよ子は両方の頬にえくぼを刻んでみせた。

「ちょっとヘアスタイルを変えないと、さすがに目立っちゃいますよね」


 色白で華奢で黒い目が印象的な美少女の頭に乗っかっているのは今や、パサパサに縮れた白髪だ。なんて無残なんだろう。あまりにも不似合いだ。


 どうして? 何のために?

 おれのために? おれが何かを失う代わりに?


「ごめん」

「何で先輩が謝るんですか?」

「だって……ごめんね」

「だから、先輩。謝らなくていいし、泣かなくていいですってば。心配しないでください。先輩の願いは、いちばんささやかな形で、これからちゃんと叶っていくから」


 また抱きしめられた。今度は、ちょっとだけギュッと。


「ごめん……」

「未来を信じてください。ね?」


 小さくて柔らかい胸に顔を押し付ける格好で、おれは何も見えなくなった。相変わらず自分のえつに邪魔されて何も聞こえない。


 おれって本当に無力だな、と思った。

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