「これって、ジ・エンドだよね?」

 幸いなことに、囲まれてはいない。

 おれは抜け殻の群れを背にして走り出す。


「ま、待って、長江先輩!」


 鈴蘭は足をもつれさせながら動こうとした。でも、抜け殻が迫ってくるほうが速い。

 期待してたんなら悪いんだけど、おれに鈴蘭を助ける意思はない。最初からそのつもりだった。トカゲのしっぽ切りってやつ。


「見るからに弱そうで、しかも血の匂いなんかさせてたら、寄ってくるにきまってんじゃん」


 抜け殻は生者だ。死んではいない。心臓も脳も正常に働いている。

 じゃあ、何が抜かれた後の抜け殻かというと、胞珠だ。B級映画のゾンビよろしく、締まりも血の気もない顔して押し寄せてくる連中の姿をじっくり見れば、眼球や指がないのがわかる。


 胞珠はカネになる。ビジネスの材料になる。


 抜け殻になっちゃったら最後、意識も思念も戻ってこない。本能に従ってぞろぞろ動いて、生き物を見付けたら襲い掛かる。引き裂いて、肉でも骨でも丸ごと食っちまう。その最中に胞珠が破砕するケースが多いから、ポンッと弾けてバラバラ死体が量産される。


 カネの亡者の周辺には、抜け殻がゴロゴロしてるもんだ。あれを生み出した犯人、誰なんだろ? まあ、おれには関係ないか。


 おれは逃げる。


 鈴蘭の胞珠が破砕したら、かなりの衝撃波が起こるだろう。それに連鎖して、きっと煥の胞珠も破砕する。指数関数的に跳ね上がる破砕の衝撃波の大きさは、おれの頭では計算できないけど、ここでそれが起こったらヤバいってことだけは確かだ。


 曲がりくねった通路を道なりに走った。少し下り坂だった。

 足音の響き方が変わったのがわかった。ああ、ダンジョンから出られる。


 コンクリートの地面に続いていた。そこに踏み込んで、ひしゃげた鉄筋コンクリートのはりをくぐった。


 そこは暗かった。足音が反響する。向かう先はライトがともっている。おれは、明かりがあるところまで、歪んだ地面のひび割れに引っ掛かりながら走った。


 明るいところに出た。

 と同時に、地面が揺れた。背後から暴風が来た。ガラガラと、重たいものが崩れる音と地響き。天井がパラパラと破片を降らせる。埃が舞う。


 息を詰めて待った。震動は収まった。

「破砕したんだ。間一髪だったかもね~。みんなどんどん死んでく」


 おれはあたりの様子をうかがった。

 地下の駐車場だ。襄陽学園の地下にあるやつだろう。明かりはまだ生きている。さすが、有事の際のシェルターを兼ねてるだけある。


 ここまで来たら、脱出する方法がわかる。おれは息を整えながら歩き出した。


 疲労が背中に圧し掛かってくる。今、何時だろ? もしかしたら腹が減ってておかしくない時間なんじゃないかと思うけど、胃の底は相変わらずゾワゾワして、ときどき吐き気の波が来る。額の胞珠も痛む。


 休みたい、かもしれない。とりあえず、外の空気が吸いたい。


 車がちらほら止まっている。ぶっとい柱にスプレーの落書きがある。足音を響かせながら、地面に書かれた「止まれ」の文字を踏んで、角を曲がる。


 道の真ん中に、ほっそり華奢な後ろ姿があった。不健康な色の蛍光灯の下で、ショートボブの黒髪がツヤツヤしている。


「さよ子ちゃん、だよね」


 おれの声はコンクリートに反響して、わんわんと奇妙なこだまを引きずっている。おれはさよ子のほうへ足を進めた。


 じわりと、胸にあせりが湧き上がる。声を掛けたのに、聞こえていないはずもないのに、どうして振り向かない?


 もう一度、呼んだ。

「さよ子ちゃん」


 音ではない声でも呼んだ。

【さよ子ちゃん!】


 返事はない。別の音が聞こえる。

 エンジン音だ。高速走行の爆音。あっという間に接近してくる。


 影が乱舞した。ヘッドライトが壁を照らした。次の瞬間、真正面から光に目を射られる。

 光と影が反転した混乱状態の視界に、脳裏に、一瞬の出来事がコマ送りで焼き付いた。


 ヘッドライトのド真ん中に人影が飛び込む。人影は車に突っ込みながら三日月刀シミターを振るう。車が凄まじい音を立てて転がる。ね飛ばされた人影がコンクリートの柱に打ち付けられる。


 横転した車は火花を散らして地面を滑った。さよ子のすぐそばを過ぎて、おれの隣をも過ぎて、別の車を巻き込んで壁に激突した。目の端に、ごく小さなショッキングピンクの残像。


 ガソリンの匂いがして、すぐさま爆発音がして、立ち上る炎の熱気がおれの頬を打った。おれは振り向いて、引っ繰り返ってひしゃげた車を見る。


 ナンバープレートを知っている。誕生日。じゃあ、やっぱりあの車は。

 おれは顔を背けた。


 さよ子の後ろ姿は動いていなかった。その向こう側の地面には、今しがた付いたばっかりのタイヤの跡が黒々と踊り回っている。もとが何だったのかわからないパーツの破片が散らばっている。


 三日月刀シミターは、めちゃくちゃに酷使されてもまだ機能を失ってないらしい。淡く発光して、すぐ隣に停車した四駆を照らしている。


 海牙は三日月刀シミターからちょっと離れた場所に落っこちていた。あり得ない方向に首や手足を曲げた格好で、微動だにしない。


 そっか、あいつも人間だったのか。やっぱ死ぬんだ。

 そんなことを思って、おれはちょっと笑いたくなった。顔を見てやりたくなった。煥と同じくらいキレイな死に顔してんじゃないかって気がした。


 煙が流れてきた。目と鼻と喉を刺された。おれは咳き込んだ。

 まるでその咳が合図だったみたいに、急に、さよ子が動いた。おれのほうを振り向いた。


 期待も希望も、その瞬間に打ち砕かれた。ジ・エンドだ。

 さよ子は両眼がなかった。さよ子は抜け殻だった。


 誰にやられたんだろうって、状況証拠はもうそろってる。余計なことしてくれやがって。おれでもそんな怒りを覚えるくらいだから、さよ子にえらく入れ込んでる総統のおっちゃんが冷静でいられるはずもない。


 さよ子はおれのほうへ両手を伸ばして、一歩、一歩、ぐらつきながら歩いてくる。黒髪がゆらゆら、サラサラ揺れる。白い頬には血の涙が流れている。赤い唇から濡れた舌がのぞくのが、強烈に色っぽい。


 場違いだけど、おれは見惚れた。

 さよ子は、か細い声を上げて鳴いた。


「ああぁぁぁあーあぁぁあぁああー」


 いい声だなと思った。

 息をついたら、カラカラに渇いてる上に煙に刺激された喉から、また咳が飛び出した。止まらなくて、体を折って咳き込む。


 さよ子の白い手が目の前に見えた。視線を上げると、さよ子は見えもしないんだろうに、どういうわけか正確におれの喉を両手でつかんだ。爪が皮膚を突き破る。


 殺される。

 払いのけようとした。おれはバランスを崩して、仰向けに倒れた。


 華奢な女の子っつっても、全身の力を乗せて首絞めに掛かったら、すっげー重いし苦しいのな。

 爪が食い込んでくる。このままじゃ、窒息するより先に血管をやられるだろう。


 あー、人間って、こんな簡単に死ねるんだ。


 意識が真っ白くなっていく。クエストの途中だったのにな。ゲームオーバー寸前だよ。リセットできねーしな。ゲームマスターに降参って伝えとくほうがいいかな。


【おっちゃん、聞こえる? そっち届くように話してるつもりなんだけど、届いてなかったらゴメンで、とりあえず話すけど。さよ子ちゃん、抜け殻だ。動く死体状態。リビングデッド。これ、おっちゃん的にはアウトだよね? 少なくとも、おれ的にアウトだし】


 地面が揺れた、と思う。それも、けっこう激しく。

 震動のせいだろう、さよ子の体がぺしゃんと、おれの上に落ちてくる。首に掛かっていた力が消えて、息が喉に通る。おれはまた咳き込んだ。


 意識が少しハッキリした。


【ねえ、おっちゃん、聞こえたんでしょ? さよ子ちゃん、もうおっちゃんのことわかんないよ。両目ともなくなってる。心もどっか消えちゃったよ。これって、ジ・エンドだよね?】


 答えが届いた。


 猛烈な音と風と光が激流になって押し寄せてきた。

 実際には何も聞こえなくて、空気も動かなくて、蛍光灯が次々と消えて闇が迫った。でも、押し寄せてきたそれは確かに、音と風と光の激流のように感じられた。


 途方もないエネルギー量の思念だ。

 地面が揺れた。天井が唸った。壁にひびが走った。今度は凄まじい音がした。音はどんどん大きくなる。


 さよ子が悲鳴を上げた。本能的に恐怖を感じたんだろう。

 おれはさよ子を抱きしめた。柔らかくて温かい体は確かに生きているのに、呼んでも応答はないんだ。


 さよ子はおれの首筋に噛み付いた。激痛。肉を噛み千切る音が耳元で聞こえた。


 地面が波打った。太い柱があっさりと折れて、海牙の姿がコンクリートに呑まれて消えた。蛍光灯が弾けて燃えた。


 血の匂いがした。さよ子がおれの首に口を寄せた。熱い息が掛かった。痛みが脈を打っている。


 ごうっ、と、ものすごい音があたりいっぱいに満ちた。

 怖かった。おれは叫んだ。喉が焼けるように痛んだ。


 思念の暴流がおれをつかんで取り込んでいく。イヤだ。怖い。おれはおれのままでいたい。食われたくない。


 額が割れるように痛い。食われた首が痛い。足が地面のひび割れに噛み付かれて痛い。痛い痛い痛い、全身がバラバラになりそうに痛い。恐怖が体いっぱいに膨れ上がって、はち切れそうで痛い。


 おれは叫んだ。音も思念も、きっとどこにも届かなかった。おれの声よりもっとデカい音と思念がおれを取り巻いてるから、おれは全部呑み込まれた。


 意識が薄れる。

 何ていうか、ふわふわしていた。


 死へと近付いていく。その感覚は、勝手に想像していたのよりもずっとふわふわと柔らかかった。


 轟音が鳴り続けているのはわかった。なのに、静かだった。ふわふわだった。

 ひとりだなあ、と思った。いつの間にかさよ子もいなくなっていた。


 それから、本当に静かになった。


 真っ暗になった。おれはしばらく眠った。

 どれくらい眠ったんだろう?


 ぽつ、ぽつ。

 何でこんなかすかな刺激に気付いたんだろう?


 ぽつ、ぽつ。

 雨だなって、何となくわかった。


 おれは目を開けた。まぶたがまだあった。ものを映す目がまだあった。目に映るものを認識する脳がまだあった。体も、たぶんまだあった。


 コンクリートとアスファルトの間で、もうすぐぺしゃんこになる体は、何の感覚もなかった。

 見上げる空は、赤くて黒くてひび割れていて、雨が降っていた。寒そうだな、という気がした。


 なるほど。地球は割れずに形を保ってるみたいだ。町は、見る影もないけど。

 もしかして、おれがこの町で最後の人間かもね。何でおれなんだよ。無様じゃねーかよ。


 何かさ、ほんと意味わかんない。おれ、何のために生まれて何のために生きて何のために死ぬの? 謎だらけのままじゃん? 笑っちゃうよ。こんな人生、最低だろ。


 ああ、もう。


 何もかもがどうでもよすぎて、今、すっげー切実な願いを思い付いてしまった。全身全霊を懸けて願っちゃっていいですか?

 いいよね。だって、しょーもねぇよ、この世界。失敗作だって。


【終わっちまえよ。滅んじまえよ。今すぐ消えてなくなれ。バイバイ】


 この世界じゃない世界がどっかにあるんだろ? そっちには、もうちょいマシな人生送ってるおれがいるんだろ?


 代わってくれよとか言う気力、もう残ってないし。でも、願って呪って命じる気力なら、ここにあるんだよね。


 額が熱い。ぶっ壊れそうに熱くて痛い。


 最期に想ったのは、姉貴のこと。姉貴が幸せに生きてる世界が、もしもどこかにあるのなら。おれ、その世界を応援するよ。この世界を呪うのと同じくらいの死力を尽くして、応援してやる。


 だからバイバイ、この世界。


【何もかも道連れにしてやる。来いよ、全部。終われ】


 どーせ生まれるんなら。

 何かのために生きたかった。

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