蝉がまだ鳴かない夏至の話。

五月 病

第1話

 

 では、俺は。


 そんな終わり方をした物語は、果たして幾分の人に読まれるのだろうか。

 下校時間の三十分程前、まだ蝉も鳴かない夏至の部室は扇風機が忙しく働く。


「新入り君、出来上がったー?」


 文芸部の部長を務めている、なんて誰かが聞けば鼻で笑われそうな程、不恰好で情け無い声が扇風機に反射して鼓膜を打つ。


 上目遣いで向けられた視線に慣れない緊張を感じながら、いい加減新入り扱いはやめて欲しいと微笑で懇願する。しかしながら、彼女の睨みと言うものは厳しく、抵抗もむなしく簡単に制裁される。


 短い溜息の後。

 できました、と渡した原稿用紙は本当に読んでいるのか分からない程の勢いで捲られていく。

 僅かな待ち時間。

 俺はこの時間を嫌いじゃあない。

 堅苦しい制服を脱ぎ捨て、だらしないTシャツ姿の彼女は、それが本来であるような自然体で、蛹から脱皮した蝶のような魅力を持っていた。

 そして俺は、それを文句一つ言われずに独り占めにできるこの時間を心地良く思っていた。


 時折くすりと笑う彼女。

 どうやら今回はうまくいきそうだ。




「つまらない」


 凡そ二十分をかけて紡がれた空間はたった五文字によって崩れ落ちる。

 彼女はどこら辺がつまらなかったのかは具体的には言われない。ただ、「面白い、普通、つまらない」のまるで小学生の通信簿のような三段階評価がなされるだけだ。

 残念ながら今回はその最低評価、つまらない。


 彼女はポンと原稿用紙を机の上に置き、欠伸を一つ。

 慣れた感傷はひらりと立ち上がった彼女によって、たちまち彩りを添えられる。

 だが、俺の表情は決して晴れたものではない。



 それは、とある高校の少年が、同じ部活の先輩に恋心を抱き、青春の焦りや暑い夏への途方のない怒りに立ち向かいながら、ラストは部室前で思い打ち明け振られてしまう、そんな物語だったはずだ。



 青春があって、友情があって、恋愛があって、悩みがあって、それでも立ち向かっていく。

 普遍的でありふれてて、使い古された。

 だが、終わりには丁度いい物語だと思った。


「それじゃーお疲れさま」


 歯切りの良いしっかりとした声はリンゴにナイフを刺すように、深く簡単に俺の心へと刺さった。


「先輩……」


 いったい、俺のどこにこんな限りなくゼロに近い勇気があったのだろうか。

 ドアを前に振り向く彼女。

 その表情はどこか切なく、儚く、暖かい。


 大会も発表会もないこの文芸部の引退は早い。


 蝉も鳴かない夏が始まる前に、この物語は終わる。

 本当にあっという間に二年が過ぎた。

 一年が入らなかったせいで俺はずっと新入り君のまま、結局「面白い」をもらえたことなんて一回しかなかった。

 でも、楽しかったと思う。


「先輩!」


 伝わらなくてもいい。

 言葉を伝えることは簡単なことじゃない。

 自分では伝えたつもりでも、相手の解釈で変わり思わぬ捉え方をされる時もある。

 そもそも言葉自体が完璧な訳じゃない。


 考えは真っ白に洗い流され、どんどんと拙い表現しか思い浮かばなくなる。これじゃあダメだと叫んでも、言葉の切り端しか思い浮かばない。


 目を見開いた彼女は動かないままドアノブを握り続けていた。

 いったいどう思われているのだろうか。

 少なからずこの二年の間で「新入り君」からは出世することができたのか。


 扇風機は蝉の鳴き声よりも五月蝿い。

 下校のチャイムはたった今鳴った。

 物語を紡いでいるときのような、あの刹那を永遠に引き伸ばしたような空間に彼女と俺は佇む。



 どうせ今日が最後だ。

 そう割り切って少年は勇気をだして。

 そして。

 強く本気で告げる思いは打ち砕かれた。



 物語のヒロインは目の前にいるような残念な人ではない。

 物語の主人公は俺よりきっと数十倍強い。


 たった一人だけに読まれた物語。

 少年がたった一歩だけ勇気を踏みしめたそんな物語。



 では、俺は。

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