この物語はもう、みんな優秀なのにぼろぼろと悪い方向に走って行ってしまう、その愚かしい様子を、何一つ責任が無い第三者であるところの我々読者が何の責任も無いからこそ無邪気に微笑ましく読んで構わない物語……のはずだ。だが多分、企業勤めが長い人ほど、息をひとつ呑んで背筋がすらりと凍るだろう。一度でも我が身に語られ方が変わって降りかかるやもしれない出来事と捉えた読者は、その瞬間、笑うに笑えないブラックジョークとして物語が立ち現れるのである。
登場人物は皆、何かのプロフェッショナルだ。それは専門知識や才能のほかに、その人らしさそのものとしての状態まで様々含まれる。「じゃあそれらが寄せ集まって論理的かつ理性的に熟考して判断を下せば、出来上がるものはきっといいものに違いない!」そう思うだろう。でもそれは、意思決定プロセスの一面を捉えたものなのであって、総てでは無いのだ。決めるには、そうしようとする意志としての感情も必要になる。だが、感情の側面はときに完璧さを歪ませるノイズとして置き去りにされたまま、顧みられなくなることがある。顧みられていない状態そのものを、相対化し顧みることが出来なくもなる。そのまま「きっとこれでいいはずだ」こう理性的に考えてみながらも、そこへ関係者として携わる自分というのが過去どのようなことを成し遂げた業績者であるか、ついそれも念頭に置く。物語の中で、関係者一人ひとりについてそれぞれどのようなことを今までやってきたかの記述が妙に詳しいのは、関係者らが自分のことを前提としてそもそもそう思っているのだという有り様を暗示させる。過去の経験に基づくひらめき、成功体験から生まれた法則やしがらみ、プライドや功名心、そうした要素は決断に大きな影響を及ぼす。なのにみんなプロフェッショナルであり、みんないいものを作りたいと思い失敗を回避しようとするからこそ、まさか自分が論理的かつ理性的な働き以外の要素で判断しているだなんて、自分を相対化して気付かなくなってしまうのだ。
ルディー和子『合理的なのに愚かな戦略』によれば、日本を代表する大企業の業績が急激に悪化したのは、一流企業の頭脳明晰な――それは米国ビジネススクールの著名な学者によって書かれた経営書を熱心に読むような――経営者たちが今まで頼ってきた知識や本というのは、論理的に考え意思決定を下すことを前提としたものに過ぎないのであって、理性以外の面でも意思決定に関わっている事実を経営者たちが置き去りにしていたからだと説明している。
客がどんなことを欲しがっているのか、それを深く考えることは、何が欲しいかを尋ねることと違う。客が表現できるのは、既存のもののこれが良いとかこれが悪いという現実に即した評価だ。客の求めに緊密に対応しようとすれば、それは従って既存のものの改良工事に終始することとなり、状況を打開するような新しい考え方や価値を生み出し刷新をもたらすイノベーションを実現できなくなる。プロフェッショナルたちもプロフェッショナルなのだからこそ、そのことに全く気づかないなんてことはないだろう。客ではなく、自分が良いと思ったものが良いものだと通そうとする意思だ。実際、物語でもその兆候はあった。
ところが、集団の状況が詰まってしまっているとき、個々が「自分の意思が集団のそれと異なっている」思い込みに恐れ集団的決定に反対しないことで、全員損する結論を導く。映画が悪いと誰しもが思う重い状況下、客もプロも関係なく導入5分が原因だと規定することが集団の流行となり、これに独り外れることを嫌って同意がもたらされ始め、誰も導入以外の問題の可能性に手をつけられなくなる。これを、アビリーンのパラドクスという。また、ここにひとり一人の過去の経験や成功に裏打ちされた法則・しがらみなどが権力となり、余計に反意をつけられなくなる。こうして映画が疾走し始めるのである。
人間関係において問題が起こった時、目線を自分のことではなく「他人のため」という視点で考えると、よりクリエイティブな答えを導けるそうだ。イヴァン・ポルマンとカイル・エミッヒによる研究『Decisions for Others Are More Creative Than Decisions for the Self』によれば、人々は、状況や対象人物に対して空間的・時間的・社会的に距離があると感じるとき、それらを抽象的に考える。逆に対象物が物理的に近く、今すぐ起こりそうな事象であり、すぐ隣に立っている人物であると感じる場合は、より具体的な考え方をする、と結論付けた。自分から遠い関係・距離な人物のためにと思うほど、創造的な思考が生まれる傾向にある。もちろん、物事をすすめるためには抽象的で漠然とした観念だけではなく、具体的な発想が必要になることもある。だが「何が絶対良くてこれだけあれば最高だ」などと縮減したように割り切ったやり方にとらわれるのではなく、良い悪い上下ではなく、これは客観的に解決策を練りながらときに抽象的な思考で導くことも大事だよ、という話なのだ。
せっかく育てたものが無残な始末になるなんて嫌だろう。プロフェッショナルなみんなも嫌だった。みんな狂気の天才に自分を委託した結果、望んだとおりに記録的な成績を収めた。……内容がないよう、な方面で。